道徳的動物日記

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切り抜きメモ:ミルの「功利主義」の「満足した馬鹿であるより不満足なソクラテス」論

 

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)

 

 

 ミルの「功利主義」に書かれている文章でいちばん有名なものといえば、やっぱりコレ。

 

満足した豚であるより、不満足な人間であるほうがよく、 満足した馬鹿であるより不満足なソクラテスであるほうがよい。 そして、もしその馬鹿なり豚なりがこれとちがった意見をもっているとしても、 それは彼らがこの問題について自分たち側しか知らないからにすぎない。 この比較の相手方は、両方の側を知っている。

 

 関連して、私が今回「功利主義」を読んで妙に記憶に残ったのは以下の部分だ。

 

…しばしば人間は性格の弱さゆえに価値が低いと分かっていながら手近にある善を撰び取る。これは、二つの身体的快楽のうちから一方を選ぶときと同じように、身体的快楽と精神的快楽のどちらかを選ぶときにも起きることである。人間は健康がより重大な善であることを十分に認識していながら、肉欲にふけって健康を害することがある。さらに、若い頃にあらゆる高貴なものに対しての熱意をもっていた人の多くが年齢を重ねるにつれて怠惰で利己的な状態に陥っているという反論がなされるかもしれない。かし、このようなごくありふれた変化を経験する人が高次の快楽よりも低次のものを自発的に選びとっているとは私には思えない。もっぱら低次のものに傾倒するようになる前にすでに高次のものに身を委ねることができなくなっているように私には思える。高貴な感情を働かせる力は多くの点で弱々しい植物のようなものであり、不利な作用によってだけでなく、養分が不足しただけでも簡単に枯れてしまう。大部分の青年にとって、人生のその時々についてきた職業やそれによって関わることになる社会がこの高等な能力を発揮し続けるのに不向きならばこの力は弱ってしまう。人々は知的な趣味を失うことによって高い意欲も失ってしまう。というのは、彼らはそれらに耽る時間も機会も持てなくなるからである。彼らが低次の快楽に耽るのは、よく考えた上でそれらを選び取っているからではなく、彼らがそれらしか得ることができないか、あるいはそれらを享受する能力しか持っていないからである。

(p.270)

 

「質的功利主義」につながるミルのこの主張はエリート主義的だとして批判されがちだし、理論的な問題も多々指摘されている。
 特に現代は平等化と大衆化の時代であり、趣味や幸福に関するエリート主義的な見解はウケが悪い。他人の趣味について意見を言ったり、幸福に関して忠告をするだけでも反感を抱かれがちな時代になっているだろう。
 しかし、私としては、現代のメディアに溢れているような浅薄で短慮な幸福論や趣味論にはいい加減にうんざりしている。

 利益目的でメソッド式に粗製濫造されたアニメやYouTuberの動画を見るヒマがあれば作り手の信念やこだわりがこもった映画を見た方がいいし、レトルト食品や冷凍食品よりもすこし手間をかけて自分で作った料理を食べる方が美味しくて健康に良いし、ストロングゼロなんてゴミ箱に捨ててまともな酒を飲むべきである(できれば飲まないのが一番だが)。
 これらのことはミルだかソクラテスだかに言われるまでもなく、本来なら当たり前のことだ。
 しかし、現代は低賃金の時代であり、金を稼いでいるエリートですらオーバーワークをしている時代でもある。誰にとっても、金と気力と時間のどれかが、またはそのいずれもが足りないため、高尚な趣味を楽しむ余裕がない。
 それ自体は仕方がないことである。しかし、開き直って、YouTuberの動画やレトルトカレーストロングゼロに価値があるかのような言説がはびこっているのはよくない。
 それらの下等な趣味を楽しむ時にはせめて自分が愚者になっていることを自覚するべきだし、他人に薦めるべきではない。そして、可能であれば、余裕をもって高尚な趣味を楽しむことに努めるべきだろう。
 それが無理だとしても、下等な趣味を楽しまざるを得ない自分の置かれている状態が不当で誤っている、ということだけは忘れないでいるべきだ。

 

davitrice.hatenadiary.jp