道徳的動物日記

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「負の性欲」論についての雑感

gendai.ismedia.jp

 

↑ この記事に関する雑感。

 

・この記事では「負の性欲」という概念がさも画期的な発明であるかのように大げさな言葉で説明されているが、実のところ「負の性欲」が指し示す現象はこれまでにも俗流の男女論や恋愛心理学で散々言われてきたものだ。
 つまり、「男は加点方式、女は減点方式」というアレだ。この言葉でググれば俗流の男女論や恋愛アドバイスを提示しているWEBページがいくらでも見つかるし、上記の記事と同じように進化論を持ち出してこの理論を補強しようと試みるページもいくらかある。
 そして、一般論やステレオタイプが往々にしてそうであるように、大方の男女の行動や価値評価については「男は加点方式、女は減点方式」は当てはまる部分があるかもしれない。さらに、それらの行動や価値観の背景には進化的な影響もある程度は存在するだろう。
 しかし、当然のことながら、すべての男女にこのステレオタイプが当てはまるわけではない。個々人の恋愛における価値評価や行動は実際にはもっと多様でニュアンスに富んだものだろう。一般論はあくまで一般論に過ぎないのだ。
 とはいえ、「男は加点方式、女は減点方式」という一般論は、例えばモテようと思っていたり好きな女性がいたりする男性にとって実践的に役に立つという面はある。要するに、「女性は些細な点で男性に対する好意を失ったり恋愛の対象にしなくなったりするという傾向があるらしいから、女性や気になる人の前で粗相をしないように気を付けよう」という風に、具体的な行動のアドバイスに結び付けることができるのだ。
 ある男性が「粗相をしないように気を付けよう」と決心するぶんには誰にも迷惑をかけることがないし、それが実際に恋愛の成功だったり良好な男女関係に結び付くのだとしたら、男女双方にとって好ましいことだと言えるだろう。

 だが、同じような現象に着目している論であっても、「負の性欲」論にはそのように生産的でポジティブな面はない。
 むしろ、「負の性欲」論は「女性が俺を避けたり、俺を恋愛対象と見なさないのは、"拒否権を行使する"ことがメスの性欲だからだ」という風に、本来なら自分側の行動でなんとかなるかもしれないところを女性の側ばっかりに帰責して、自分の努力や向上を放棄する言い訳を男性に与えてしまい、さらには女性に対する憎悪をつのらせることになる。
 このような概念が男女の分断を悪化させて、両性ともに対して害を与えて誰も幸せにしないことは、火を見るよりも明らかだ。

 

 ネットではなく現実の場においてまともな男女関係や人間関係を経験してきた人であれば「負の性欲」論を真に受ける人はほとんどいないかもしれない。
 しかし、危惧すべきは若い世代の男性への悪影響だろう。現実の場で異性と知り合ってコミュニケーションする経験もないうちから「負の性欲」論やそれと同類の極端で非生産的な男女論を摂取していたら、異性に対するステレオタイプが強くなりすぎて、本来なら成立していたはずのコミュニケーションすらできなくなるおそれがある。

 ネットが登場する前から雑誌やラジオの場などで無責任な男性文化人や男性芸能人による「男女論」や「恋愛相談」があったことは事実であり、その多くはステレオタイプミソジニーに基づいたものであったことも確かである。
 しかし、文化人や芸能人による男女論や恋愛相談は本人たちの実際の人生経験や恋愛経験に基づいたものであり、すくなくとも実践的で生産的なものではある。影響を受けるにしても、ネット知識人による机上の空論よりかは、実際の経験に基づいたものの方がマシだろう。

 

・「負の性欲」論には進化論的暴露論証につきものの問題点も備わっている。

 つまり、適用可能な範囲が広すぎるうえに反証可能性がないということだ。

「負の性欲」論にかかれば、女性による男性の言動に対する批判は、それがどんなにもっともなものであるとしても「それは負の性欲に過ぎない」と言って切り捨ててしまうことができる。それに対して女性が反論してもまた「それも負の性欲に過ぎない」と、無限に言うことができるだろう。
 しかし、当然のことながら、女性が男性の言動を批判する時には、ほとんどの場合は「拒否権の行使」や「キモい」という感情の言い換え以上の動機や論理があるはずだ。たとえば、「10代や20代の女性と結婚したい」と言い放つ40代男性に対する批判は、個々の女性が持つ人格を考慮せずに年齢のみで人を判断しようとすることの非倫理性に対する批判で有り得るのだし、決して「キモい」という感情の言い換えだけではない。

 実質的には、「負の性欲」論は女性による性被害の告発や恋愛・婚姻の自由を求める主張などを、すべて封殺してしまうことになるのだ。
 反証可能性がない議論という点では、社会構築主義的なジェンダー論による「男性の特権」や「有害な男らしさ」などの概念を用いた男性非難と変わらない。非難の対象が男性から女性になり、用いる理論が社会構築論から進化論になっただけで、鏡合わせのようなものだ。

 

・相手に対して「拒否権を行使」することが、女性からの男性に対する(性欲に基づいた)行為として限定されている点も気になるところである。
 というのも、多くの場合において、女性から「拒否権を行使」される男性は、同性からも「拒否権を行使」されているからである。

 

 単に「キモい」とだけ言って切り捨てる行為の大半は正当化できるものではなく、各種の外見的特徴や身体・精神・発達の障害や病気を持った人に対する差別につながるものであり、加害行為であることは認めたとしよう。
 しかし、「拒否権を行使」することの内実は、実際にはもっと多様なものなのだ。

 

 たとえば、身だしなみを整えず服装にも無頓着な人は、異性からだけでなく同性からも「拒否権を行使」されてしまうことがある。
 また、音を立てながら咀嚼するなど食事のマナーがなっていない人、他人の話を聞かずに割って入って自分の話ばかりをしたがる人、相手が言葉の裏に込めたニュアンスや感情を読み取ろうとせず言葉通りの解釈だけをしようとする人……などなどな人は、異性から拒否されてモテないだけでなく、同性から拒否されて友達もいなくなるリスクも抱えているだろう。
 なぜかというと、人と会う前に身だしなみを整えないことや、食事や会話の場におけるマナーを守ることを怠るということは、自分の目の前にいる相手に敬意を払って尊重するという行いを欠くことであるからだ。他人のことをナメた、自己中心的な人間であると言うこともできる。
 相手に対して礼を示して相手を尊重するという努力を行うことは、モテや恋愛にも必須とされるだけでなく、人間関係において当たり前に要請されることだ。
「拒否権を行使された」ことを加害だと騒ぐ前に、自分が他人に対して礼を失するという「加害」を行っていないかどうか、振り返ってみるのも大事だろう。

 

 そして、拒否権は礼を欠いた人にだけでなく、倫理を欠いた人にも行使されることがある。
 ある人が非倫理的な言葉を放ったり非倫理的な行為をした場合には、その人は該当の言葉や行為について批判されることがあるだろう。だが、批判をしてもらえるだけ、まだ甘いといえる。多くの場合では、相手のことを非倫理的な人間だと判断した人はその相手に対して嫌悪を抱き、何も言わずにその相手との関係やコミュニケーションを断ちたくなるものだからだ。
 たとえば、私は上述の記事の著者について、倫理的な理由から強い拒否感を抱いており「拒否権を行使」したいと思っている。自分の金儲けや承認欲求のために空理空論を弄んで社会の分断を促す、非倫理的な行為を行っている人間だと判断しているからだ。
 言うまでもなく、私がこの著者に対して「拒否権を行使」したところで、それは私の性欲とは関係がない。
 そして、女性のなかにも、私と同じようにこの著者のことを非倫理的な人間だと判断して、倫理的な理由から「拒否権を行使」したいと思う人はいるだろう。
 だが、「負の性欲」論にかかれば倫理的な理由からの拒否権の行使も性欲に回収されてしまう……すくなくとも、「負の性欲」に由来する拒否権の行使とそうでない理由による拒否権の行使とを区別する手立ては、まったく用意されていないように思われる。
 やはり、このようなデタラメでご都合主義的な理論は相手にする価値も無い、と言うしかないだろう。