道徳的動物日記

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キムリッカによる動物の権利論(読書メモ:『人と動物の政治共同体 - 「動物の権利」の政治理論』)

人と動物の政治共同体-「動物の権利」の政治理論

人と動物の政治共同体-「動物の権利」の政治理論

 

 

 

 この本は院生時代に原著を読んでおり、邦訳が出版されたときにもその感想を数年前にこのブログで書いているが、その時の感想はすこし辛口なものになってしまっていた。改めて再読したことを契機に、今回はより好意的な感想を書くことにする*1

 

・この本を再読した直接のきっかけは、著者の片割れであるウィル・キムリッカが執筆した『多文化主義のゆくえ: 国際化をめぐる苦闘』を読んだことである*2。キムリッカはリベラリズムの社会において多文化主義を実行する方法について長年考えてきた理論家として名高い。また、『多文化主義のゆくえ』を読んだところ、理論だけでなく実際の政治や政策にも関わっているようだ。多文化主義には、リベラリズムを内側から蝕む病原菌だとか近代的な人権意識を破壊する爆薬だとかいう汚名が着せられることも稀ではない。近年では特にヨーロッパにおけるイスラム系の移民との関係で、多文化主義に対する反動的な理論が盛ん担っているようだ。しかし、キムリッカは、それらの危惧の多くは非現実的な想定に基づいた極端なものであり、リベラリズムの理論も多文化主義の理論も正確に把握していない藁人形論法である、ということを淡々と示すのである。

 …と、多文化主義を擁護するキムリッカではあるが、『多文化主義のゆくえ』やその前著の『土着語の政治』を読んでみると、予想以上にキムリッカは多文化主義に対する制限を加えていることもわかる。つまり、多文化主義といえどもあくまで前提には「人権」や「自由主義」や「民主主義」という近代的な規範が存在しているのであり、マイノリティ文化が認められるのも人権やリベラリズムの制約の範囲内だ。文化的コミュニティという単位に対してある種の自治権や政治の場において代表される権利などは認められたりするのだが、その文化コミュニティ内における個人の人権を侵害したり自由を抑圧することは、いくら「文化」という言い訳を並べても許されない。多文化主義は、文化相対主義とは程遠いのである。

 そして、人間の権利が多文化主義を制約するという構造は、そのまま、動物の権利が多文化主義を制約するという構造につながる。このブログではこれまでにもキムリッカとドナルドソンによる「多文化主義と動物の権利についての議論」や「先住民の権利と動物の権利についての議論」を紹介してきた。これらの議論においても、マイノリティの文化や先住民の文化は基本的には尊重されるべきであるとされているが、それでも人間の権利を侵害することが許されないのと同様に、動物の権利を侵害することは許されないとされているのである。

多文化主義のゆくえ』では動物の権利に関する話題が触れられることはほぼ無いが、理論の根本に権利主義やリベラリズムがあるという点は『多文化主義のゆくえ』でも『人と動物の政治共同体』でも一貫しているのだ。そういうことに気付いた次第である。

 

・『人と動物の政治共同体』を貫く問題意識は、ピーター・シンガーに代表されるような功利主義にせよトム・レーガンやゲイリー・フランシオーンに代表されるような権利論にせよ、これまでの動物倫理のアプローチでは人間社会で行われている家畜や実験動物などに対する大規模な虐待や搾取と、そのような不正義な状況からの動物たちを解放するために現状で人間が動物たちに行なっている諸々の行為を「禁止」するという、ネガティブで消極的な考え方ばかりが展開されていたということである。

 つまり、功利主義や権利論のアプローチでは我々の身近に存在するペット動物や街中の野生動物に対してどう接してどのような形の関係を築けばいいのか、ということに対して満足のいく回答が得られることが少ないし、そもそも既存の理論ではそのような問題は関心の外に置かれがちだったのである。家畜や実験動物の置かれている状況の不正さに比べるとペットや街中の野生動物の問題は緊急性が低い、という問題意識もあったのだろう。

 そのため、「人間のせいで不正義な状態に置かれている動物たちは解放するべきであるが、それ以上は積極的な介入をするべきではない」とか「ペット動物という制度も動物を人間に従属させるという点では根本的に不正義であり、ゆくゆくは無くすべきである」などという、何かを禁止することばかりな結論になりがちだったとされているのである。

 著者ら(ドナルドソンとキムリッカ)はこの状況を問題視して、より「積極的」な規範を提唱しようとする。つまり、家畜やペット動物に対して私たちはどんな対応をする義務があってどのように適切な関係を築いてくべきか、ということや、自然の中の野生動物たちと街中の野生動物たちと人間社会との関係はどのようにあるべきか、ということだ。そして、ペットや家畜に対しては「市民権(シティズンシップ)」認めて野生動物には「主権」や「デニズンシップ」を認めるというアプローチによって、著者らは「積極的な規範」に形を与えようとする。

 

 

・第二章では「動物の道徳的地位」について論じられてはいるが、動物の「権利」や「人格」が何を意味するのかということについて、倫理学的に詰めることはあまりされていない。
 倫理学において動物の道徳的地位を扱うとなると、「そもそもなぜ動物(や人間)には道徳的地位が認められるのか」というところから話を始めなければならないし、それに関連して、境界事例の人間との比較や動物の種ごとの認知能力による配慮の必要性の多寡の比較衡量など、人によっては拒否感も抱くような厳しい話題に触れる必要がどうしても出てくる。
 しかし、著者らは「そもそも論」にはあまり触れずに、動物の道徳的地位とそれに伴う政治的権利をさっくりと認めてしまう。
ここは倫理学と政治哲学の違いといえるかもしれない。つまり、政治哲学においても基本的人権の話がされることはあるとはいえ、政治的権利や民主主義やより具体的なテーマについて話をするときに毎回毎回「そもそもなぜ人間には権利が認められるのか…」というところから話を始めていたら本題にたどり着くまで時間がかかり過ぎるというところだ。
 また、「現在の社会の状況や歴史的経緯から、わざわざ証明するまでもなく、基本的人権やシティズンシップの必要性は認められている」という風な手付きで話を始める傾向も政治哲学にはあるようだ。そして、この本でも、そういう政治哲学の作法を著者らは引き継いでいるといえる。
 ここら辺は私としては物足りないところだが、まあ良し悪しかもしれない。

 

・動物の道徳的地位について理論的に詰めたり、具体的にどのような道徳的配慮が必要かということについて科学的知見を用いて分析される代わりに、自然やペットの観察に基づいた文章や動物と人間との触れ合いに関するエピソードを中心とした、ある意味では情緒的な議論がなされている。
 これも良し悪しだろう。改めて読み返して思ったのは、情緒的なエピソードには理論にはないエピソード特有の説得力というものが備わっていることは確かだ。
 また、シンガーの『動物の解放』にせよフランシオーンの『動物の権利入門』にせよ、現在の社会で動物が置かれている悲惨な状態を書き連ねられると読み物としての魅力が減り、その本を再読しながらじっくり考える気が起きなくなる、という点は確かにある。
 人間と動物との関係について理論的にばっかりではなく質的なエピソードに基づいて考えたい、という需要は多くの読者にあるだろう。そして、質的なエピソードに基づいた議論は人類学なりポストモダン哲学の本ですでに展開されている。しかし、それらの本ではそもそも動物の道徳的地位や動物に対する社会正義が認められていない(むしろ、積極的に否定されている)ことが多いので、動物を思考の題材としながらも、動物たちにどう接するべきかという規範は論じられないことが多い。
 そういう点では、著者らの目論見通り、「積極的」で「ポジティブ」な動物倫理の議論を描くことに成功しているといえる。
 この成功の理由の一つは、著者ら自身が犬を飼っている「動物好き」であり、自分たちがペットを飼ってきた経験が問題意識の出発点になっているからだと察せられる。逆に、シンガーらの議論にポジティブさや面白みが欠けるのは、彼の問題意識の出発点は左派的な社会正義にあるからなのだろう。

 

・この本のキモの一つは、障害者や子どもの政治参加やシティズンシップについて蓄積されてきた議論を動物の権利に関する議論に応用しているところだ。
 実際、「一般的な成人が持つほどの意思伝達能力や規範を遵守する能力があるわけではないが、全くないわけでもなく一定程度の能力は存在する」という点では、たしかに動物の立場は障害者や子どもの立場と相似している。
 そして、アメリカや日本などの先進国では公衆衛生や安全性などの理由によって社会の様々な場から動物の存在が排除されがちであるが、障害者や子どもの排除が差別であり不正であるのと同じ理由で、これも差別や不正とされることになる。
 たとえば日本では「飲食店は動物を店内で飼うべきではない」「野良猫は不潔で迷惑だから排除したい」という主張には正当性があるように思えて批判しづらいが、動物のシティズンシップという概念を導入することで、このような主張を批判することが可能になるのだ。
 動物が公共空間に溶け込んでいるヨーロッパの事例の紹介や、動物が排除されている場にあえて動物をあらわせさせる「市民的不服従」的な事例の紹介は、まさに障害者運動とオーバーラップしていてなかなか興味深い。また、障害学や社会学の知見などを参照しながら、動物の「主体性」を認めないことや動物が劣って依存的だと見なすことの心理的・社会的な悪影響も論じられている。
 そして、「市民」であるペットや家畜動物たちにも社会のルールを理解して従うことが求められる(もちろん人間ほどではないが)、というのも面白いところだ。
 実際に動物たちが様々な規範(動物の群れ内における規範と、人間や他の動物たちと共存するコミュニティ内における規範の両方)を理解するという実例も示されている。日本ではまだ馴染みの薄いファーム・サンクチュアリなどの場における活き活きとした動物の行動に関する、未邦訳の文献も多く引用されている。動物行動学の読み物として楽しめる側面もあると言えるだろう。

 

・「動物倫理といえば功利主義パーソン論」というイメージは強く、「動物倫理は動物への道徳的配慮を能力でランク付けして、私たちと動物の間にある複雑な関係を考慮しない空理空論だ」という批判は未だに根強い。しかし、『人と動物の政治共同体』では、動物と人間との多様な関係性について様々な実例を示さながら考察される一方で、そのような豊かな関係を築いて保つためには動物に対する正義と権利の概念が不可欠であることを論証してくれる。「人と動物の豊かな関係」的なテーマについての議論の多くが動物に対する義務や規範をおざなりにして人間にとっての「いいとこ取り」に終始していることをふまえても、この本は広く読まれるべきだろう。

*1:この本の著者はスー・ドナルドソンとウィル・キムリッカの二人であり、いくらキムリッカの方が有名だからといって「キムリッカの本」と表記することは、本来は間違っている。「ドナルドソンとキムリッカの本」と表記するべきである。しかし、今回のこの記事ではキムリッカの単著である『多文化主義のゆくえ: 国際化をめぐる苦闘』などに触れたうえで『人と動物の政治共同体』の感想を書くことになるので、記事のタイトルにはあえてキムリッカの名前のみを表記することにした

*2: 

多文化主義のゆくえ: 国際化をめぐる苦闘(サピエンティア)