道徳的動物日記

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「出羽守」批判についての雑感

 

 日本社会の構造的な問題点や、日本社会で起きた事件の問題性について、海外のメディアや記者が取り上げることはめずらしくない。たとえば、ここ最近では以下のような記事が記憶にあたらしいだろう。↓

 

www.nytimes.com

 

www.bbc.com

toyokeizai.net

 

 そして、このような記事で指摘されている問題点にずっと苦しまされていた人や、問題点の存在を以前から認識して訴えていた人などが、それを指摘している記事を引用しながら「海外でも問題視されている」と改めて問題を強調する、というのはSNSでもブログでもよく見かける光景だ。

 さらには、そのような人たちに対して「出羽守」と批判を浴びせる人たちがいるのも常である。批判者たちによると、「出羽守」は日本に対してネガティブな印象を持つあまり海外を過度に理想化しているのであり、海外にも問題点が存在することを認識できておらず、実現不可能な理想像を日本に押し付けているだけ、であるそうだ。

 また、「海外(欧米)メディアが日本の問題点を指摘する」という構図自体が文化帝国主義的でオリエンタリズム的だ、という批判がされることも多い。メディアに限らず、たとえばTwitterにてヨーロッパ諸国の大使館アカウントが日本の問題点(死刑執行など)を指摘するツイートを行なった場合、怒りながらの批判リプライが大量に並ぶのが毎度の光景だ。

 私としてはこのような"「出羽守」批判者"たちにはうんざりしている。私がうんざりしている理由は、主に以下の二点だ。

 

・たしかに、何から何まで完璧で理想的な国家というものが地上に存在することはないだろう。しかし、すべての国家が同じように問題を抱えており、どの国家も"理想"から同程度に遠いものである、ということもないはずだ。ある特定の面やある特定の点を見ると、他の国よりも優れた制度や文化を実現できている国家というものはあるだろう。少なくともその点については、その国家は他の国よりも理想より近いといえる。一方で、すべての面において理想から程遠くて何もかもが最悪、という国家も(おそらく)地上には存在しない。どんな国家にも、何かしらの面においては他の国家よりも優れた点があるかとは思われる。

 だが、「どの国家にも優れた点があり劣っている点がある」ということは「どの国家にも、優れた点が同じ数だけあり、劣った点が同じ数だけある」ということを意味しない。そのような想定は非現実的だ。実際には、優れた点を他の国家よりも数多く持っている国家も存在すれば、劣った点が他の国家よりも数多くある国家も存在するだろう。制度や運営が効率的な国家であったり、寛容な文化や柔軟な文化を持った国家であったりすれば、そうでない国家よりも優れた点を連鎖的に多く生み出すはずだ。そして、逆も然りである。世の中には「優れた国家」があり「劣った国家」があるという考え方には批判もあるかもしれないが、的を得た考えである、と私は思っている。

 そして、男女平等なり学校教育制度なりの何らかの点において優れている国家のメディアが、日本がその点において劣っているということを指摘するのにも、さして問題がないように感じられる。むしろ、問題点の深刻さを認識して、その問題点に優れた対処を行なっている国からその対処方法を学びながら、その問題点を改善するきっかけとなるだろう。基本的には、外国のメディアから問題点を指摘されるのは、指摘されているその国にとっては良いことなのだ。

 もちろん「いや、外国メディアの報道は単なる偏見の産物であり、実際には日本にはそのような問題点は存在しない」と反論するのはよい(「その問題点が存在しない」ことを本当に証明できるのであれば、だが)。また、「その問題点は指摘されている以上に複雑だ。たしかに日本のある文化やある制度のせいでその問題点が生じてしまっているが、その文化やその制度のおかげで、別のところで優れた点も生じているのである。だからその問題点を解決しようとすると別の面で歪みをもたらしてしまうのだ」という反論をするのもよいだろう。しかし、大半の場合において、そのような反論を説得的に展開するのは難しいように思える。批判に応答するために無理やりに作り出した屁理屈のようになることが多いだろう。

 もっともよくなされる反論が「日本の問題点を指摘しているお前の国にだって、こういう問題点があるだろう」というタイプのものである。これが、たとえばアメリカのメディアが日本における男女平等に関する問題点の指摘したのに対してアメリカ国内における人種差別の問題を指摘し返す、というものであれば全く反論になっておらず、不毛で非生産的なのもいいところだ(実際に、このような種類の反論もかなり多く見かけられるのだが)。もうすこし洗練されたものであれば、アメリカのメディアが日本における男女平等に関する問題点の指摘したのに対してアメリカ国内における男女平等の問題を指摘し返す、という風になる。しかし、この場合でも、アメリカのメディアが「進学率の女性差別」や「広告における女性差別」を指摘したのに対して「アメリカの方が日本よりも強姦の発生件数が多い」と指摘し返すという風に、問題とされている具体的な問題からはピントが外れている反論になっていることが大半である。「アメリカの方が日本よりも強姦の発生件数が多い」という点が事実であれば、アメリカは強姦の発生件数を減らす方法について日本を見習うべきであるかもしれない。だが、それと日本における「進学率の女性差別」や「広告における女性差別」の問題とは全く別の話なのだ。

 

・差別問題に関しては、「出羽守」となる人は被差別者の側であることが多く、そして"「出羽守」批判者"は差別者の側であることが多い。

 この傾向は女性差別に関する議論において特に顕著だ。つまり、日本における女性差別について取り上げた海外メディアの記事を日本人女性が引用して日本における女性差別を訴えるのに対して、日本人男性がその女性を「出羽守」として批判したり海外メディアの記事自体への反論を試みたりする、という光景だ。

 この光景は、かなりグロテスクなものである。

 普通であれば、集団内で差別を受けている当事者が差別の存在を訴えており、さらにその差別の存在が集団外のメディアからも指摘されたとすれば、多かれ少なかれその差別は存在している可能性は高いと認識するべきだろう。もちろん、当事者の訴えや集団外からの指摘が過剰なものであるとか、事実関係に誤認があるなどの可能性は存在するし、その辺りの検討は必要になるだろう。そして、事実関係を検討していた結果、その差別自体が実際には存在しない、ということが明らかになる場合もあるかもしれない。だがそれは相当特殊なケースであるだろうし、いずれにせよまずは指摘を受け入れてその内容を検討していった結果の話である。

 しかし、私が見たところ、"「出羽守」批判者"たちは問題点の存在の指摘に対してほぼ条件反射的に「否認」や「反論」を行なっている。つまり、指摘の内容を検討してから反論を行うのではなく、その指摘を受け入れること自体を拒むために反論を開始しているのだ。

 

「出羽守」とされる人たちには「日本を叩きたいために叩いている」とレッテルが貼られることが多いが、その多くは日本社会のなかで何かしらの苦痛を受けてきたり尊厳を傷付けられたりしてきた経験があるのだろう。主張の内容の是非は置いておいても、そのような人たちが「出羽守」的な主張を行う動機は理解できるし、共感できる部分がある。一方で、すくなくとも私には"「出羽守」批判者"たちの動機がまったく理解できないことが多く、とうてい共感できないのだ。