私は子供の頃から喘息を患っており、すこしでも走るだけですぐに息が切れてしまいしんどいことになる。そのため、ランニングなんてしたことはほとんどないし、これからも行わないと思う。
そんな私がなんでこの本を手に取ったかというと、著者の前著である『哲学者とオオカミ』が面白かったからだ。だが、この本は、私がランニングに興味がないということを差し引いても、焦点がぼけているし同じ主張をくどくどと繰り返すし主張されている内容自体もかなり凡庸だしで、『哲学者とオオカミ』に見られた独自性は失われていると言っていいだろう。
基本的には、著者の人生における様々な場面におけるランニングやマラソンレースへの出場などの経験を綴りながら、「自由」や「衰え」、そして「人生の意味」などの倫理学的な概念へも考察がされているといった感じだ。
そして、「有用性」などの道具的な価値しか持たない物事(「仕事」がその最たるものだ)に振り回されずに、内在的な価値を持っておりそれ自体をすることが目的となるような物事(著者は「遊び」と表現している)を行うことが人生を豊かにして人生の意味を感じさせてくれる、というようなことを著者は主張する。著者がランニングをするのも、健康や人間関係などの副次的な価値のために行うのではなく、ランニングをすること自体がもたらしてくれるやり甲斐や喜びなどの内在的な価値のためである。そして、ランニングによってもたらされる充実感や意識の変化についても紙面が割かれて描写している。…だが、そこで書かれていることのほとんどは「フロー体験」の一言でまとめられそうなものだ。さらに、「フロー体験は幸福のなかでも特に上質なものである」とか「より多くのフローを体験できるような仕事や趣味や生き方をすることが、人生を幸福で意味のあるものにする」といったことはポジティブ心理学でもよく言われていることである。だから著者の言っていることは間違っているとは思わないが新鮮味はないし、デカルトなりハイデガーなりサルトルなりを持ち出してまで本を一冊書いて説明するようなことでもないだろう、といううんざり感があった。同じくランニングについて書かれた本であっても、村上春樹の『走ることについて語るときに僕の語ること』の方がずっと優れたものであった。
とはいえ、体育会系で遊び好きであり、そしてウェールズからアメリカに渡ってきた著者の洞察には、ところどころにユニークで興味深いものがあるところもたしかだ。
たとえば、ヨーロッパ出身の著者は、アメリカ人の楽観主義や信仰心、そして消費や仕事への強迫観念的な執着について一歩離れた場所から皮肉に描写する。著者の描くアメリカ人像は比較文化論的でステレオタイプ過ぎる気もしなくはないが、物質的・金銭的豊かさの追求に明け暮れて休日や「遊び」などの本質的な幸福を忘却してしまった人々は、アメリカに限らず日本でも多く目に付くところだろう。持って他山の石としたいところだ。
ところで、著者の「仕事」と「遊び」観を示す文章を引用しておこう。
…楽しむことの末梢的な特徴の点では、走ることと書くことは同類の活動である。書くことはゲームではない。わたしがゲーム的な態度を向ける、「遊びに先立つ」目標などはない。けれども、スーツも指摘しているように、あらゆる遊びがゲームのプレイというわけではない。書くことも遊びにはなれる。仕事にもなれる。わたしがなぜこれをするかによって、それは決まる。書かなければならないからーーたとえば何らかの契約的な合意をむすんでーー何かを書くのであれば、わたしが書くという活動は仕事である。けれども、わたしがもっともうまく書けるのは、仕事として書くときではない。最高のものが書けるのは、こうした考えが頭の中で飛び交っているのを単に見つけたときである。そのとき、これらの考えが正確には何で、どこへと至るのかはわからないが、それを突き止めざるを得ない、という思いにかられる。わたしは、自分が考えていることが何なのかを知りたいから書くのであって、それが目の前のページに見出されるまでは、これが何なのか本当にはわからない。わたしは考えを言葉という形で捉え、それらの言葉を検証し、評価する。この遊びはそれ自体の価値をもち、これに没頭しているときには、世界中でこれ以上にしたいものは何もなくなる。書くということは、輝き、閃光を放ち、きらめく考えと遊ぶことなのである。書くことが仕事になると、これらの考えは沈黙し、生気を失う。とはいえ、書くことは、従来の意味での楽しみとはほとんど関係がないか、まったくない。それよりも拷問に似ていることが多く、キンセールの坂を駆け上がるようなものだ。
(p.120-121)
おそらく著者が失念しているのは、世の中には「遊び」と「仕事」が一体化している人たち、金を稼ぐという行為に道具的価値ではなく内在的価値を感じてフロー体験を感じることができる人がいるということだ。そういう人たちは資本主義社会で起こる様々な問題の原因であり他人を不幸にするような人であることが多いだろうが、少なくとも本人は幸福である。
また、著者が「遊び」を重視しているといっても、その遊びとは「骨折りがいのあるもの」であることが強調されていることも忘れてはいけない。単に家でテレビゲームで遊んでいる人生が幸福な人生である、というわけではもちろんないのだ。
結局のところ、著者の主張は「ヘドニスティックな幸福ではなくエウダイモニックな幸福を追求するべきだ」というポジティブ心理学的なテーゼでまとめられてしまいそうなものでもある。おそらく著者自身はポジティブ心理学を好ましく思っていないために、文中で言及されることはないのだが…