道徳的動物日記

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「広く共有された信念」と動物倫理(読書メモ:Ethics and the Beast)

 

Ethics and the Beast: A Speciesist Argument for Animal Liberation

Ethics and the Beast: A Speciesist Argument for Animal Liberation

 

 

 イスラエル倫理学者、トサヒ・ザミール(Tzachi Zamir)の著書。とりあえず第1章から第3章までを読んだ。今回の記事を書くにあたっては、久保田さゆり氏によるザミールの議論の要約も参照している*1

 順番は前後するが、まず、第3章 Killing for Pleasure の冒頭の議論をまとめよう。

 

 動物への道徳的配慮という観点からベジタリアンになった人も、そうでない人も、私たちによる動物の扱いにはなんらかの道徳的制約が課せられるべきだ、という点では同意している。この同意が存在するという事実は、動物への虐待を禁じる法律ができていること(動物愛護法)や、動物実験を行う研究施設が監査されるようになったことによって示されている。つまり、些細な理由で動物を殺したり動物に苦痛を与えたりすることは認められない、ということだ。

 具体的には、以下の5つの信念が人々によって同意されている。

 

  1. 動物とただの物体との間には、道徳的な重要な違いが存在する。
  2. 動物は苦痛を感じる。
  3. 動物の苦痛は道徳的に重要である。
  4. 動物が抱く苦痛の重要性が、人間が抱く非常に強い快楽の重要性を上回る場合がある。
  5. 動物を殺すことは、その殺害に苦痛が生じるか否かに関わらず殺される動物に対して危害を与えることであり、動物を殺すことには何らかの正当化が必要とされる。

 

 哲学的な議論においては、上記の5つの信念にも証明が必要とされがちである。つまり、上記の1〜5の信念を根拠としてベジタリアニズムを主張しようとする人が、それぞれの信念について立証する責任を負わされるのであり、ベジタリアニズムを主張する哲学者たちは実際にこれらの信念を立証しようとしてきた。しかし、そもそも既に共有されている信念をわざわざ立証しようとすることの必要性はあるのか?明白なものと思われる信念でも証明しようとしたがる哲学者たちの傾向がここでは邪魔になっている、とザミールは指摘する。つまり、ベジタリアニズムを主張するために「動物が苦痛を感じること」や「動物の苦痛は道徳的に重要であること」の論証が必要とされてしまう状況とは、フェミニズムを主張するために「他人が存在すること」の論証が必要とされる状況と同じように、議論のポイントを外してしまっているのだ。

 

 

 ベジタリアニズムに反対する主張は、いくつかの種類に区別することができる。

 

  • 反・ベジタリアニズム antivegetarianism

 1〜5の信念のいずれか、またはその全てを積極的に否定している。

  • 非・ベジタリアニズム nonvegetarianism

 1〜5の信念を受け入れているが、それらの信念を受け入れることがベジタリアニズムを要請するとは考えていない。

  • 不可知論的な肉食者  agnostic meat-eater

1〜5の信念を積極的に否定してはいないが、受け入れてもいない。1〜5の信念の立証が行われてそれに説得されるのを待っている状態であり、それまではベジタリアニズムを認めず、肉食を行う。

 

 ザミールによれば、1〜5の信念を否定する「反・ベジタリアニズム」の主張は常識に逆行する反直観的で詭弁的な結論が導けてしまう。また、「不可知論的な肉食者」の態度は動物の問題に限らず全ての道徳問題において通用してしまう態度であり、道徳的主張を行なっている側に対して過剰に立証責任を負わせる態度である(「通常の場合、苦痛は本人にとって悪である」などの道徳的主張に対しても同様の態度をとることができてしまうからだ)。そのため、ベジタリアニズムを主張する人たちが対応すべき相手は「非・ベジタリアニズム」の人たちである。

「非・ベジタリアニズム」の人たちは、ベジタリアニズムを主張する人たちとは違って、「動物の肉を食べること」は動物を殺すことを正当化するのに充分な理由となる、と見なしている。そして、動物の肉を食べることで快楽が得られること自体はザミールも否定しない*2。また、「動物を食べないことで達成できる道徳的な価値」と「動物を食べることで得られる快楽」を対比させて、前者は後者を凌駕する、という議論をザミールは展開しない。そうではなく、動物を食べることに関しても様々な価値(快楽の追求自体が勝ちとなり得るし、美食的な価値や自分の人生を選択して統治することに関するエウダイモニックな価値などもある)があると認めて、価値と価値との対立の問題であると認めるのである。

 そして、ある価値は別の価値や快楽を上回る、ということを論証することは不可能である、とザミールは説く。古代ローマにタイムスリップした人が、コロシアムで剣闘士の殺し合いを楽しんでいた古代ローマ人たちに「剣闘士が死ぬことによって生じる危害は、あなたたちが剣闘士の殺し合いを見て得られる興奮などの快楽を凌駕するので、剣闘士に殺し合いをさせることは止めるべきだ」と言っても、古代ローマ人たちを説得することはできないだろう。「剣闘士の人権」や「生命の神聖性」という概念は古代ローマ人には認識できない。そして、それらの概念を抜きに危害と快楽の比較だけで相手を説得しようとしても、相手が自分の得ている快楽が多大で重要なものだと本気で思っている限りは、説得することは不可能なのだ。これは、肉食による快楽には菜食では代替不可能だと思っている現代の肉食者たちと議論する場合も同じである。

 しかし、少なくとも現代の我々には、剣闘士の生命の価値はその殺し合いを見ることで得られる快楽を凌駕することはわかっている。ベジタリアニズムは、19世紀のフェミニズム運動や18世紀の奴隷制廃止運動などの平等主義的な運動と同じ状況にある。つまり、「肉を食べること(女性を差別すること/奴隷制があること)は悪くない」という信念が広まっている状態の世の中で、その信念を変えていかなければならない状況だ。平等主義的な運動が成功するためには、「被差別グループ(動物/剣闘士/女性/奴隷)に生じる危害は重要であり、それらを差別する慣習で自分たちが得られる利益は存在しないか弱いものであり、前者は後者を凌駕する」という風に選好を変えることが可能な感情に訴えなければならないし、ときにはそのような感情を人々の間に作り出すこと自体が必要となる。また、説教ではなく実践的な行動指針を示すことが必要だ。平等主義的な運動の成功は、実際に起こったいくつもの偶発的な出来事に支えられていたのであり、倫理に関する根本的な問題の解答が発見されたから起こったわけではないのだ…要するに、論理で説得しようとしても人々の価値観や行動は変わらないから実践が大切だ、ということである。

 ただし、現代の社会におけるベジタリアニズムの状況と、過去の社会におけるフェミニズム運動や奴隷制廃止運動との連続性を指摘することはできるだろう(それらの運動が成功したことは道徳的に望ましいことであった、と現代の我々は理解している)。

 

 …上述のように、ザミールは哲学的な議論や「論証」自体の有効性を疑っているようだ。また、第1章で示されている通り、この本(Ethics and the Beast)は「種差別主義を容認する立場から、ベジタリアニズムなどを含む動物への道徳的配慮の必要性を主張する」ことが特徴である。つまり、「人間の生命は動物の生命よりも優先する」「人間の利益は動物の利益よりも優先する」など、現代の社会において大半の人々が持っていると思われる直観を否定することなく、動物への道徳的配慮を論じようとしているのだ。

 第2章では「道徳的地位」という概念を使用せずに動物への道徳的配慮を論じることの必要性が説かれる。動物への道徳的配慮をめぐる倫理学の議論では、「動物には道徳的地位がないから、動物には道徳的配慮を行わなくてよい」という主張がまずあった。それに反論する形で、ザミールが「二段階の理論」と呼ぶ、「動物には道徳的地位があるから、動物には道徳的配慮を行う必要がある」という議論が提出されたという経緯がある。

 しかし、ザミールによると、道徳的地位という概念を用いる「二段階の理論」は我々の直観や広く共有された信念に反する結論をも導いてしまう(「一部の人間と動物は等しい道徳的地位を持つので、等しい配慮がなされるべきだ」「一部の人間よりも一部の動物の方がより重大な道徳的地位を持つ」など)。そうではなく、「動物は苦痛を感じる」という事実から直接に動物への道徳的配慮を導き出す「一段階の理論」を提唱するのである。

 

 …さて、第1章から第3章までを読んだ限りではあるし、ちゃんと読み込めている自信もないのだが、私はザミールの議論にはあまり感心しない。その理由を書いてみよう。

 まず、「直観」を重視した議論特有の曖昧さや歯切れの悪さが付きまとう。ザミールは「論証」よりも「説得」を重視しているようだが、私には、倫理学や哲学においてこのタイプの議論を行う意義がイマイチわからない。

 まず、自分の道徳的信念が正しいかどうかを確認したり自分にとって納得のいく道徳的思考方法を得たいと思っているために倫理学を参照したい人にとっては、論証を諦めて直観に傾倒した議論は物足りないものだろう。

 次に、他人を説得するための道徳的議論として倫理学を参照したい場合にも、ザミールの議論は本人が思っているほどの効力はないように思える。現実に出会った人々やネット上などにおいて私自身が動物倫理について議論したり他の人々の議論を眺めた限りにおいても、この記事の冒頭で1〜5で表されている「広く共有された信念」が本当に共有されているかどうかも怪しいものであるように思える。「動物とただの物体との間には、道徳的な重要な違いが存在する」や「動物の苦痛は道徳的に重要である」など、一見すると常識的なものだと思われるような信念でも泰然と否定してくる人はいっぱいいるからだ。このような人たちは、こちらが「広く共有された信念」を哲学的に論証したり相手の主張を論破したりしたとしても、自分の主張を変える気がそもそもない場合が大半であるように思われる。しかし、このような人たちについては直観や常識に基づいた説得を行うこともまた不可能である。だが、オーディエンスの存在や社会的な影響力などを考慮すると、彼らの主張が間違っているということを示すのには意味があるだろう。その場合には、直観に基づいた議論ではなく論証的な議論の方が有効であるように思われる*3

 説得が可能でありそうな人を相手にする場合でも、ある程度は「論証」があった方が説得が容易になりそうなものだ。たとえば、「あなたが人からしてもらいたいことを、人にしてあげなさい」「自分の嫌だと思うことは人にもするな」という「黄金律」に基づいて動物への道徳的配慮を説くことである。黄金律は多くの文化圏に共通して存在する道徳的規範であり、「広く共有された信念」でもある一方で、論証にもつなげることができる考え方だ。「自分が殺されることの危害」と「自分が肉を食べることの快楽」の両方を想像させたうえで、では自分と動物との違いはなにか、などと問うていけばよい。ザミールは肉食に伴う快楽と肉食を止めることとの比較を他人に説得することの不可能性を主張しているが、そうとも限らないように思えるのである。

 

 そして、「黄金律」の考えや理性的議論に基づいて他者への考慮を行うことで、平等主義や反差別運動が拡大していった歴史的経緯についてはスティーブン・ピンカーマイケル・シャーマーが論じている*4。ザミールは哲学的(論証的)な議論と人々が実際に抱く考え方や社会の風潮との断絶を強調しているようであり、過去の社会においてフェミニズム運動や反女性差別運動が成功したのも哲学的な議論というよりかは社会運動の成果であると考えているようだが、哲学的な議論と社会運動とは切っても切り離せないものなのだ。
 また、もし他人を有効に説得する技術論や社会運動的な戦略などを求めるのであれば、哲学や倫理学の本など最初から参照せずに、説得や戦略のプロである心理学者や社会運動論者の書いた本を参照すればよいのである*5

 

 ついでに言うと、動物の「道徳的地位」を主張せず、動物が苦痛を感じるという事実から動物への道徳的配慮を主張する「一段階の理論」からは、功利主義者のジェームズ・レイチェルズの議論を連想する*6(ザミールは功利主義の議論も「二段階の理論」に含めているのだが)。道徳的地位について論じながら道徳的地位の意味合いをかなり限定しるレイチェルズの議論は、ザミールの議論に比べてずっとシンプルで洗練されたものであるように思える。もちろん、レイチェルズの議論はザミールのものとは違って反種差別的であり、(人間の道徳的地位をも限定するという意味で)直観に反するものだ。しかし、思考や理論の結果として直観に反する結論が出たり常識を改められることこそが、そもそも私たちが哲学に求めるものではないだろうか?

*1:

dl.ndl.go.jp*同題名のPDFが落ちていたので参考にした。

*2:一部のベジタリアンが肉を食べることに快楽があること自体を否定する風潮にザミールは辟易しているようだ

*3:畜産業や動物実験などの動物を利用する制度の利害関係者の場合は、相手がこちらの議論に「説得」されたり「納得」したりする可能性はさらに低くなる(なにしろ生活やアイデンティティなどの重大な利害がかかっているからだ)。このような場合にも、オーディエンスの存在や運動の影響という点を考慮すると、彼らの主張には根拠や妥当性がないことを論証することは重要になるだろう。

*4:

davitrice.hatenadiary.jp

davitrice.hatenadiary.jp

*5:

davitrice.hatenadiary.jp

*6:

Do Animals Have Moral Standing