道徳的動物日記

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続・「男性のつらさ」論についての雑感

davitrice.hatenadiary.jp

 

 ↑  この記事を書いた後に出版された本とかネットに上がった記事などを見ての雑感。

 

 ジェンダー論の本やジェンダー論的なネットの記事などで「男性のつらさ」ということが論じられる際には、男性同士の「競争」がつらさの原因である、とされることが多い。

 つまり、男性は競争から落ちこぼれたら社会からも周りの人間からも一人前と見なされずに冷遇されてしまうから、常に自分のスキルをアップしたり成果を出したり他人を出し抜いたりして競争に参加し続けなければならないというプレッシャーを感じている、という主張だ。

 そして、競争に参加することが義務付けられている代わりに競争のフィールドそのものはフェアであるとされる男性に対比する形で、能力が見くびられたり成果が正当に評価されなかったりそもそも競争に参加するという選択肢が与えられていなかったりする「女性のつらさ」がセットで論じられることも多い。

 しかし、私自身のことや私の周囲の男性たちのことを考えてみると、「競争」そのものが「男性のつらさ」の原因であるかどうかは微妙なところのように思える。競争から降りて、他の男性たちと自分との違いや落差を気にせずに生きている人も多いように思えるからだ。

 というか、自分から積極的に「競争」に乗っかって、スキルや収入や社会的立場をアップさせることばかりを考えてバリバリ生きているのは男性のなかでも少数派だ。中高から進学校に通っていていい大学に進学した人間であれば自分の能力に自然と自信が身につくので、社会に出た後も競争に参加し続けたいと思うかもしれない。運動部などで優勝したりいい結果を残したりしたことで勝利の快感に目覚めて競争を志向し続ける、というタイプの人間もいるかもしれない。私が実際に目にしてきた人間のなかでは企業の代表とか社長とかの連中はたしかに生活や趣味や人間付き合いに本質的な興味を持たず、競争のことしか考えずに生きていそうな雰囲気があった。

 また、ネットで目立つ男性たちの間にも「競争」が大好きそうな人たちは多い。ただし、それを言うならネットで目立つ女性たちの多くも「競争」が大好きそうだ。というのも、ネットで目立つ人たちというのは既に何らかの競争に参加してスキルを獲得したり成果を出したりしてきた人たちであって、そのスキルや成果についてアピールしたり自慢したりすることで目立っているからである。

 要するに、「競争」から距離を置いて生きている男性は他人に対してとりわけアピールできるスキルや成果を持っていないから、目立たない存在であるのだ。しかし、「競争」に積極的に参加して勝ってきた男性の方が存在が目立つからといって、彼らが男性の代表であったり男性の典型であったりするわけではない。むしろ彼らの方が少数派で、「競争」に対して消極的な思いを抱いている男性の方が多数派であるかもしれない。

 

 ジェンダー論的な議論を見ているときによく思うのが、そこで「男性」や「女性」の典型とされているものが、実際にそれぞれの性別の中でも一部の特殊な層に過ぎない、ということだ。この理由のひとつは、ジェンダー論を語る立場にいる人たちは良くも悪くも「競争」を前提とした有能な強者たちの世界に所属している、ということにある。

 ジェンダー論に限らずなにかの「議論」を公的な形で発表して世に問うことができるのは、アカデミアに所属しているかメディア業界に所属している人であったり、芸術やエンターテイメントの世界で実績を残してきた人であったりする。アカデミアの世界が競争主義で能力主義的であることは言うまでもないし、編集や出版や広告などのメディアの世界にも普通の業界の人が持たないようなハングリー精神や野心を持った人が多い。

 このような世界に所属している人たちは、男性であっても女性であっても自分から積極的に「競争」に参加することを望んできた人たちであり、だから「競争」について思いを巡らすことや「競争」に関して人生に影響をもたらされたことが他の人たちよりも多い。

 さらには、「議論」を発表する機会がある人の大半はレベルの高い大学の出身者であったりするし、東京という大都会に住んでいたりする。これらも、通常よりも競争が激しくて可視化されている領域である。

 ……男性であれば自分が参加してきた「競争」によって自分自身がどれだけ消耗してきたかということにふと気付くことがあるのだろうし、女性であれば自分が女性であることで「競争」においていかに不利になってきたかということを考えて忸怩たる思いを抱いたりするのだろう。

 彼らや彼女らが自分が参加してきた「競争」について思いを巡らすことは勝手だが、それを男性全体や女性全体について一般化されると困ってしまう。

 たとえば「競争」においていかに男性が有利で「特権」を与えられている立場にいてそれに比べて女性は不利な立場にいるか、ということを語られても、そもそも「競争」から距離を置いて生きてきて今後も積極的に参加する気を持たない身としては他人事という感じが否めない。「競争」に参加したがる女性たちが男性たちよりも不利であるならそれは気の毒なことであるし、もともと行使する気もない「男性特権」を取り上げられたところでこちらとしても困ることはない。しかし、どちらにせよあくまで余所の話である。自分が関わってきてもいなかった「競争」についてそれに関する「特権」を保持してきたことの責任を問われても理不尽な思いをするし、また自分のつらさの原因が競争であると言われても的外れだとしか思えない。

 有能で競争にバリバリ参加してきた男性がどこかで失敗して落ち込んだあげくに「自分のつらさは男性特有の競争へのプレッシャーが原因だ」と言いだしたとして、お前はそうかもしれないが俺はそうではない、と言うほかないのだ。

 

 とはいえ、私や周囲の友人たちのように「競争」から距離を置いている男性であっても、やはり「つらさ」は感じる。その「つらさ」の大部分は、以前の記事でも論じたように、「結婚できないこと」や「異性の恋人がいないこと」から来ている点は否めない。「異性の獲得」はよく「競争」とセットで論じられることが多いが、「競争」から縁が遠いタイプの人でも恋人や結婚相手を得ている人は知人でも見かけるところだ。関連性はあるだろうが必然的に結びつく論題ではない。

 しかし、たとえば「異性の恋人がいないこと」によって生じる「つらさ」などに関しても、「"異性の恋人がいなければら男としてみっともなくて不甲斐ない"というホモソーシャル的な競争意識や脅迫感が原因だ」という風に論じたがることが、ジェンダー論的な議論ではあまりに多い。こういうことを書かれた時点で、大半の(異性の恋人がいなくて"つらい"と思っている)男性にとってはその議論はまともに参考にしたいと思えるものではなくなるだろう。