道徳的動物日記

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「ていねいな暮らし」のなにが悪い?

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 大塚英志による上記の記事は、はてブでも先日から人気記事となっておりおおむね好意的に受け止められているようだが、わたしは読んでいてモヤモヤ……というよりも「うんざり」という感情を抱いてしまった。

 なので、わたしが共感するブコメも次のようなものである。

 

「ていねいな暮らし」の戦時下起源と「女文字」の男たち||大塚 英志|webちくま(1/4)

クソみたいな状況を少しでも楽しいものにしようと工夫してる人たちを「体制に加担」とか「問題の隠蔽」とかいう語彙でしか語れない左翼の言葉こそ問題がある

2020/05/23 08:25

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「ていねいな暮らし」の戦時下起源と「女文字」の男たち||大塚 英志|webちくま(1/4)

戦時下が起源であり、一斉に右向け右させる権力がけしからんことはよくわかったが、今日の感染防止対策と戦時下の大政翼賛体制をあまりにも同列に語りすぎではないかと思ってしまった。

2020/05/23 09:22

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「ていねいな暮らし」の戦時下起源と「女文字」の男たち||大塚 英志|webちくま(1/4)

嫌なのはわかるけど、じゃあどうするの?って話だよな。政治からは逃げられない

2020/05/23 08:15

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 記事のなかで特に気になったのは、以下のような箇所である。

 

ぼくは以前から「日常」とか「生活」という全く政治的に見えないことばが一番、政治的に厄介だよという話をよくしてきた。それは近衛新体制の時代、これらのことばが「戦時下」用語として機能した歴史があるからだ。だからぼくは今も、コロナ騒動を「非戦時」や「戦争」という比喩で語ることの危うさについても、一人ぶつぶつと呟いているわけだが、それは「戦争」という比喩が「戦時下」のことばや思考が社会に侵入することに人を無神経にさせるからだ。 

 

なるほど、かつての戦時下と違って私たちは「ステイホーム」しながら、日々の料理に工夫を凝らしインスタにあげ、この機会に断捨離を実行し、私生活を豊かなものにしようと工夫をしているではないかと言う人がおられるだろう。マスク、トイレットペーパーに続き、パンケーキ用の小麦粉が品薄となり、東京都は「こんまり」動画を配信し、家庭菜園が人気だとニュースが報じる。webでエクササイズもあれこれと配信される。飲食業の自粛に伴うフードロス問題にも熱心だ。
その一つひとつは悪いことではない。

しかしそれでも引っかかるのは、それらが、「咳エチケット」や「ソーシャルディスタンス」や「テレワーク」とセットになって求められている、新しい日常や生活の一部である、ということだ。私たちが「日常生活」に求める豊かさは、コロナ政策の「実践」の場になってしまっている。 

 

ぼくは、自分の生活、日常に公権力が入り込み、そこに「正義」が仮にあっても、それはやはり不快である。そして、その「不快である」ということ自体が言い難く、誰かがそれを言い出さないか互いに牽制しあい、「新しい日常」を生きることが自明とされる。そういう空気はきっと近衛新体制下の日常の基調にあった、と想像もする。
ぼくはそのことがとても気持ちが悪い。
本当に気持ち悪い。 

 

花森が戦後『くらしの手帖』を創刊したことはよく知られるが、「報研」のメンバーたちはマガジンハウスをつくり、あるいはコピーライターやアートディレクターとして電通を始めとする広告代理店や広告制作の現場で戦後の生活を設計していく。雑誌や広告の歴史ではよく知られた事実だ。そういうものの果てにぼくたちのこの「生活」や「日常」があり、だからこそ、ぼくはコロナという戦時下・新体制がもたらした「新しい生活様式」や喜々として推奨される「ていねいな暮らし」に、吐き気さえ覚えるのである。

だから、この「日常」がいかにして出来上がったのか、その歴史というものが、もう一度、書かれなくてはいけない、と強く思う。

 

 

「生活」や「日常」に権力の介入を見出す著者の発想は、フーコー的な生-権力論に基づいたものであると思われる。

 そして、フーコー的な権力批判につきものの問題点とは、公権力の介入は実際に私たちに利益をもたらして私たちの生命を救ってくれることがある、という事実が忘れられがちなことである。権力の介入は私たちに益を与えるものであるかもしれないし、害を与えるものであるかもしれない。公権力の介入自体は価値中立的なものであって、「良い権力の介入」と「悪い権力の介入」とに分けることも可能であるはずだ。戦時下のそれが悪いものであったとしても、現在のそれが悪いものであるとは限らない。

 現時点での日本は、世界各国のなかでもコロナの感染者やコロナによる死者の数が極めて低い方であり、コロナの抑え込みに成功している国だと評価されているはずである。そして、日本政府が「咳エチケット」や「ソーシャルディスタンス」や「テレワーク」を推進したことは、コロナ抑制の成功に大なり小なり貢献しているはずだ。……むしろ、責任回避のために"自粛"の"要請"で済ませて飲食店や各種施設の強制的な営業停止を行わなかったことと、自粛要請によって損害を被った経営者や従業員への経済的補償があまりに不十分であることなどの方が批判されているはずである(また、アベノマスクをはじめとする明らかに無意味な政策に注力してしまったことなど)。つまり、権力の介入が不足していたことの方が批判されているのだ。

 ウィルスにかかって苦しんだり死んだりすることは誰だって嫌なはずであるし、政府にはそれを防ぐための政策を行うことを要求するものだろう。そして政府はそれを実行して、成果を出した……こうして単純化すれば、日本政府が今回実施したコロナ対策は、権力が国民から求められている役割を求められている通りに果たした事例であるに過ぎない。理想を言えば、もっと無駄がなく副作用も起こらない形でコロナ対策を実現してもらいたかったかもしれない。その場合でも、権力がさらに強く介入することが正当化されることになる。

 

 また、この記事の冒頭で取り上げられている、ステイホームしながら「日々の料理に工夫を凝らしインスタにあげる」ことであったり「パンケーキ」を焼くことであったり家庭菜園をすることであったりエクササイズをすることであったりなどの、現在版の「ていねいな暮らし」に公権力がどこまで介入しているかも、この記事では具体的な検討は全くなされていない。

 わたしとしては、現在のコロナ禍において人々が実践している「ていねいな暮らし」は、広告代理店の影響は多少はあるとしても、その大半は自然発生的なものであると思っている。

 通勤時間がなくなったり仕事が減ったりすることで時間が余り、そして外出する機会も減った人たちが、家のなかでの暮らしの仕方を見直して、普段よりも時間をかけて暮らし方を「ていねい」なものにすることは、ごく当たり前の発想である。

 たとえば、わたしが残業の多い職場から残業のない職場に転職して平日の余暇時間が増えたときには、まず、仕事から帰ったあとに料理にかける時間を増やしてよりクオリティの高い晩ご飯を食べるという習慣を新しく取り入れた。その後に無職になったあとには、散歩をしたりステッパーを買ったりなどしてエクササイズの時間を増やしている。そうやってわたしが「日常」や「生活」における新しい行動習慣を実践したことに対して権力は何も関与しておらず、ただ、「もっと時間があったら毎日こんなことができて健康になれるし人生が豊かになるのにな」とわたしが前々から思っていたことを実行に移しただけである。

 そして、コロナ禍のステイホームで人々が新しい行動習慣を身に付けたことも、わたしが転職したり失業したときに新しい行動習慣を身に付けたのとおおむね同じことだと考えられる。単純に、現代人の大半は時間がなくて、心身ともに不健康で味気ない生活を強いられているのだ。普段よりも余暇時間が増える状況になったら、自身の健康と豊かさのために「新しい生活様式」や「ていねいな暮らし」を実践することは、ごく自然の成り行きなのである。

 この現象に対して著者が「ぼくはそのことがとても気持ちが悪い。本当に気持ち悪い。」と書いたり「吐き気さえ覚えるのである。」と書いたりするのは、著者には戦時下の現象に関する知識があって、戦時下のそれと現在のそれとを重ね合わせて考えることのできる見識があるから……というだけではないだろう。むしろ、一部の男性知識人によく見られる、「生活」や「暮らし」を軽んじて蔑視する傾向が表出している、という面の方が大きいように思われる。

 一時期までは、無頼で破天荒な生活をして暴食したりアル中になったりした末に若くして死ぬのが文学者の理想だ、という価値観が蔓延した。だからこそ村上春樹はその風潮に逆らって、デビュー後すぐからマラソンとシャツのアイロン掛けと健康的な食事を主とした「ていねいな暮らし」を実践して、エッセイなどでもそのことを書き続けたのである。フィクション作品などでも、"天才"的な博士や芸術家のキャラクターは家事能力に欠如していて暮らしの仕方がめちゃくちゃであると特徴付けられて、さらにその特徴はそのキャラクターの欠点というよりも魅力だとして描写される。また、わたしのリアルの友人でも、芸術作品や評論や哲学や社会問題などに対して多大な関心がある一方で食事には価値を全く見出しておらず料理も全くしない、という男が何人かいる。

「知性」や「批判的思考」や「崇高な価値」を重視する人々の間には、日々の生活の実践や日常レベルのささやかな幸福はそれらの対極に位置する無価値なものである、と見なす風潮が根強いのだ。「ポジティブ心理学」(あるいは功利主義)が左派的な人文系学者から批判されがちなのも、この風潮が理由となっているだろう。この問題は追求していけば古代ギリシアにまでさかのぼるかもしれないし、ジェンダー論的な側面もかなり関わってくる問題である(「料理」や「家事」の軽視は再生産労働の軽視と一直線であるからだ)。

 

 そして、実はわたしがこの記事を読んでいちばん疑問に思ったのは「…コロナ騒動を「非戦時」や「戦争」という比喩で語ることの危うさについても、一人ぶつぶつと呟いているわけだが…」とか「…「不快である」ということ自体が言い難く、誰かがそれを言い出さないか互いに牽制しあい…」という箇所であるのだ。

 というのも、「コロナ騒動を戦争の比喩で語ることを危惧する」にせよ「公権力が生活に介入してくることの不快さを言明する」にせよ、それ自体は禁止されているわけではないし、Twitterをちょっと見たらわかる通り、実際に多くの人が危惧したり言明したりしているからである。著者だけが一人ぶつぶつと呟いているわけじゃないのだ。

 文系の素養が一定以上にある人だったら災害を安易に戦争になぞらえることの問題点や危険性は大半の人がわかっているだろう(3.11のときだって同様の危惧を多くの知識人が表明していた)。毎日の一定の時間にスピーカーから流れる自粛要請のアナウンスにはわたしもイラっとさせられるが、それは多少なりとも反抗精神のある人なら誰でもそうであるし、わたしには「イラっとするよね」と言い合える友人もいる。出版業界やアカデミアなどのインテリの世界に属している著者なら、自分と同じ危惧や不快感を共有して表明しあえる友人や知人はわたしよりもずっと多いだろう。だから、孤独ぶっているのは筋違いというものだ。

 外山恒一高円寺駅南口で連日行っていた"独り酒"闘争は盛況であった。「ステイホーム」や自粛要請への反意を表明するアナーキズムやパンク精神は日本でもいたるところに見られるし、それ自体は珍しいものではない。そして、目下の社会問題となっている"自粛警察"も、権力の統率下にあるのではなくてむしろそこから逸脱して暴れている存在であるのだ。現時点において「権力」や「翼賛」を危惧する理由が、わたしにはどうにもピンとこないのである。

 

 わたしがこの記事を読んだときに抱いたうんざり感は、あまりにも手垢のついた批評家特有の「仕草」に対するものだ。この記事のメインとなる、戦時下のプロパガンダなり生活コントロールなりについて書かれた箇所はたしかに興味深いが、そのことと現在におけるコロナ対策や「ステイホーム」下の生活様式の問題とは、連想ゲーム的にしか繋がっていない。

 フーコー的な生権力の発想から針小棒大な危惧を表明するところも、社会構築主義的な発想から人々の日常的な営みを侮蔑的に批判するところも、人文系の批評としては定番過ぎて陳腐化しているくらいだ。

 最近ではこのタイプの批評に対する批判的見解も浸透してきたようであるし、ジョセフ・ヒースに代表されるような、カウンター的な論客の存在もだいぶ認知されてきたようだ。今回の記事のような文章もここしばらくはネットでも見かけることがなかった。……しかし、気付かない間に、フーコー的な議論を行う論客がまた目立つようになってきた風潮も見受けられる。それが悪いこととは限らないのだが、最早わたしは彼らの議論に新鮮さを感じられなくなっているのだ。