↑ 自分でまとめたこの件について、思うところをちょっと書いておこう。
●今回はスティーブン・ピンカーという大物がターゲットになったことで話題になったが、アメリカのアカデミアにおける「キャンセル・カルチャー」の問題はいまに始まったことではない。今回はBLMが直接のきっかけとなっているだろうが、他にも「セクシズム」や「イスラモフォビア」などの咎で、これまでにも様々な学者たちの講演がキャンセルさせられたり謝罪要求をされたり、大学を追われたりしてきたいう経緯がある*1。今回については、除名といってもアメリカ言語学会そのものからではなく「フェロー」の立場や「メディアエクスパート」の立場からの除名を求める運動ではあるが、言語学とはほぼ関係皆無の数年前のツイートを取り沙汰してポジションを奪うことが許されてしまうのなら、萎縮効果は明白だろう。だからこそ、ノーム・チョムスキーやジョナサン・ハイトというピンカーの論敵も含めた多くの学者が、ピンカーへの除名請求に反対しているのだ*2。
●「キャンセル・カルチャー」はBLM以前から存在しているとはいえ、実際に人が死んだことがきっかけとなって火が付いた運動であるということや肌の色による人種差別という露骨な要素が問題となっているぶん、他の運動に比べても「逆らいにくい」雰囲気が強いようだ。ちょっとでも反論をするだけで「悪人」とのレッテルが付けられてしまう傾向が、フェミニズムやイスラモフォビアの問題に比べてもさらに強いのだろう。
日本での反応を見ていても「たしかにピンカーの言動は差別的だと言えなくもない面はあるし…」とか「差別だとは言えないとしても無神経だし、時代の流れにあっていないよね」的なコメントをちらほらと目にする。しかし、「無神経」であることとか「時代の流れにあっていない」などのなあなあな理由で、学問の自由を萎縮・抑圧しようとする潮流が看過されてしまうことこそが問題なのだ。そして、言うまでもなく、「時代の流れにあっていない」からといって「差別的」であるとは限らない。"差別"や"被害者"の定義は時代に流れとともにどんどん拡大していくので対象となる事象も増していく、という傾向はあるだろうが、その傾向がそもそもおかしいという話である*3。
●署名運動のなかで槍玉に挙げられている、以下のツイートについて。
Data: Police don't shoot blacks disproportionately. Problem: Not race, but too many police shootings. http://t.co/HDoLJ3hT3p via @UpshotNYT
— Steven Pinker (@sapinker) October 17, 2015
批判されているのは「元記事の要約の仕方が間違っている」こと、そして「警察による人種差別の問題を矮小化している」ということだ。
しかし、アメリカの警察が他の人種よりも黒人を多く殺害しているという事象の原因が「人種差別」であるとは必ずしも言い切れない(あるいは、「人種差別」は一因ではあるが他にも原因がある)という指摘は、数年前からちらほらとなされているところである*4。とはいえそういう反論をしている人が明らかに右翼的な人物であるという問題もあったりするし、わたしとしても自分で訳しておきながら「この議論はちょっと詭弁っぽいな」と思わなくもなかったりはする。
……しかし、「レイシズム」や「セクシズム」という概念の厄介なところは、「現在の社会には人種差別や性差別が存在する」ということ自体には疑問の余地がないとしても、個々の事象において人種差別や性差別がどのような経路でどのように関わっているか(そして、他の要因がどのように関わっているか)を明確に論じるのが難しいということだ。そこの細かな検証や議論を抜きにして、人種や性別が関わるどんな問題についても「レイシズムが原因だ」「セクシズムが原因だ」と言いだしたら反証可能性のない陰謀論に堕してしまう。とはいえ、どんな場面においても告発や問題提起に対して「え〜でもそれって本当にレイシズム/セクシズムが原因と言えるの〜?証明できるの〜?」と言い出す輩がいるとしたら、そいつは差別の問題を矮小化したがっている人間であることはミエミエだろう。……しかし、告発や問題提起を批判なく全面的に受け入れることもやっぱり問題であり、問題となっている事象について"冷静"で"批判的"に議論を行える場所はどこかに確保しておかなければならない。そしてアカデミアとはまさに物事について冷静で批判的に議論するために存在している制度なのであり、そこにキャンセル・カルチャーを持ち込んで主流派の見解に異議を唱えたり批判を行ったりする人を排除することは、他の業界においてよりもずっと深刻な問題となるのだ。
●Togetterの方に印象的なコメントがあったので、引用しよう。
これはかなりヤバい話、かつ決して他人事ではない。言語学だけでなく、人間を対象とした学問はどうしても科学的事実と価値判断が分離しきれない部分があるわけだが、そこを攻撃の起点にして「差別を矮小化」していると批判することで、自由に気に入らない人間を科学界から追放することが出来てしまう。
何がやばいかって、「差別を矮小化」していると批判される可能性を防ぐためには、「差別構造を喧伝」する方向にバイアスかける必要があるってこと。科学者は、研究の仮定やら解釈に多少の価値判断を入れることが出来るし、それ自体は仕方ないのだが、それが全員一方向に揃えるような強制力が働くようになる。
これによって、科学的事実とは直接関係のない価値判断がなぜかその分野の総意となり、しかもそれは科学による反証可能性がない。いまや欧米が殆どの学問を牽引している以上、日本のアカデミアもそれに従うしかなくなり、反対すればパージされる危険性もある。
ピンカーについて批判的な人々の意見を勝手にまとめてしまうと、「ピンカーはデータを示して"現在は過去よりも良くなっている"ということは言うけれど、現在にまだ存在している社会問題に対するコミットメントは怠っているよね。だから、"現在は過去よりも良くなっている"という彼の主張も、差別問題を矮小化するためのものとしか思えない」というようなものになるだろう。
しかし、そもそもピンカーが本当に「社会問題に対するコミットメントは怠っている」かどうかにも疑問の余地があるだろう。どの「社会問題」がコミットメントするに足る重大な問題であるか、という価値判断は人それぞれであるだろうし。また、高名な大学教授だからといって「社会問題に対するコミットメント」を行う義務があると言えるかどうかもわからない。……そして、ピンカーが社会問題に対するコミットメントを怠っているかどうかと、「データを見れば、現在は過去よりも良くなっている」という意見や命題の真偽とは、全くの別の話なのだ。わたしは同調圧力というものがとにかく嫌いなので、「意見の真偽とは別に、その意見を言う人が普段から"正しい振る舞い"をしていなければ、意見が認められない」という風潮がイヤである。
運動が盛んになるにつれて「いまはこういう風潮だから」というなあなあな理由で色んな物事が決まっていくのもイヤだ。……とはいえ、社会運動とはそういうものであるし、民主主義社会が変わるためには時流や勢いの力が同調圧力が不可欠であることも否めないだろう。なので、政治なり法律なり社交界なりがなしくずしに変わっていくことは仕方がないかなとは思うし、良い面もいっぱいあるだろうとは思う(映画業界も"なあなあ"で変わっていくことに対しては抵抗したくなるが)。……しかし、アカデミアが同調圧力やなあなあで変わることだけは、認められない。特に文系のアカデミアでは差別問題に"敏感"な人も多いし、マイノリティへの配慮を欠かさない心優しい善人も多いのだろうが、たとえ善意を理由にしていようが、意見の多様性や反主流派の価値観をアカデミアから排除することは本末転倒なのだ。
わたしがこれまでに書いてきたピンカーに関する記事の例: