道徳的動物日記

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アファーマティブ・アクションとクオータ制が支持されない理由

 

 

 

 

 前回に引き続き、先日から、社会心理学者ジョナサン・ハイトと憲法学者グレッグ・ルキアノフの共著、『アメリカン・マインドの甘やかし:善い意図と悪い理念は、いかにしてひとつの世代を台無しにしているか』で行われている議論を紹介。

 

 この本の第11章「正義の探求」では、2010年代のアメリカは「ウォール街を占拠せよ」運動から始まって#MeToo運動やLGBT運動、そしてブラック・ライヴズ・マター運動と、社会正義を求める運動がこれまでの時代に比べてずっと盛んになっていることが指摘されている。その背景には、2010年代という時代ならではの特徴があるのだが……この点に関するルキアノフとハイトの分析はこんど別のところで紹介する予定なので、ここではヒミツ。

 今回は、『アメリカン・マインドの甘やかし』の11章のなかでも後半部分、人間の直感や道徳感覚と社会正義運動との関係について述べられた部分を紹介しよう。

 

 正義に対して人間が持つ直感は、「分配的正義」に関するものと「手続的正義」に関するものに分けられる。

 分配的正義の直感とは、「人々はそれぞれが払った労力や努力に応じた報酬を手に入れるべきだ」というものだ。頑張って成果を出している人は報いられるべきであり、努力せず成果も出していない人たちは他の人たちと同じだけの報酬を手に入れるべきではない、という直感は、子どもでも身に付けている。

 この直感は自分自身にも向けられるのであり、たとえば給料が過剰に多く支払われてしまったら「その給料に見合うだけの努力をしなきゃ」と頑張ってしまうのが、人間というものなのだ。また、労力を払っているのに充分な報酬が得られていない人がいれば、その人が正当な報酬を得ることを、自分が余分な報酬を得ることよりも優先する。そして、この直感が「不当に得している」と見なされる人に対して向けられたときには、その相手に対して強い反発が抱かれてしまうことになる。

 手続的正義の直感とは、「物事が決定されるときには客観的で中立的に判断されるべきであり、関わる全ての人間のことが平等に扱われるべきだ」というものだ。意思決定をする人がその決定で影響を受ける可能性のある人々のことみんなについて考慮しているのか、すべての人々に発言権が保証されているのか、すべての人々が尊厳を持って扱われているのか……このようなことを気にかけて平等を重んじる発想は、近代の人権思想の産物であるとは限らず、古来から人間に備わっているのだ。

 たとえば「警察」に対する市民の態度は、手続き的正義の直感に大きく左右される。「警察はすべての市民に対して平等に接している」と市民たちが信じられれば彼らは警察に対して協力的になるが、「警察は特定の属性の市民を不当に扱っている」と思われてしまったら、その"特定の属性"に当てはまらない市民も警察に対して非協力的になるのだ。

 つまり、人間の直感は必ずしも利己的であったり独善的であったりするのではない。自分だけでなく他人がどのような報酬を得ていてどのように扱われているかということにも、人は強い関心を抱くのだ。だからこそ、社会正義を実現するためには、これらの直感に訴えることが不可欠となるのである。

 

正義の名を冠した新しい政策を支持したり、運動に参加するように他の人たちを動機付けたいのなら、得られるべきものを得られていない人がいる(分配的正義)、または不公平な手続きの犠牲になった人がいる(手続き的正義)、ということについての明らかな理解や直感を他の人たちが持てるようにするべきだ。特定の人々や特定のグループが他よりも多くの資源を得ていたり高い地位にいたりするという状況であっても、分配的正義か手続き的正義のどちらに関する感情も人々から引き起こせない場合には、人々は現状維持に甘んじてしまう可能性がずっと高くなってしまうのだ。

(p.220)

 

 そのため、成功する社会正義運動とは、「分配-手続き的社会正義(Proprtional-Procedural Social Jutice)」に関するものであるのだ。その定義は、以下のようなものである。

 

ある人々が貧困に生まれついたか社会的に不利なカテゴリーに所属しているという理由でその人々への分配的正義や手続き的正義が否定されているような事態を発見して、その事態を修正するための活動

(p.221)

 

 たとえば、過去にアメリカで行われた公民権運動は「分配-手続き的社会正義」に適った運動であるからこそ、多数の支持を得て成功した。当時のアメリカの白人たちは黒人差別の事実を直視しないように動機付けられてもいたが、アメリカの憲法にも書かれているような平等や権利の理念に訴えかけられたら、黒人差別が不正義であることを認めざるを得なくなった、ということだ。ブラック・ライヴズ・マター運動が多数派の支持を得ているのも、同様の理由による。

 また、「分配-手続き的社会正義」とは、人々の社会的権利が平等に保護されて(手続き的正義)、機会の平等が保証される(分配的正義)ことに焦点を当てたものである点も重要だ。

 

 そして、現在の社会正義運動の一部は、機会の手続き的正義の直感にも分配的正義の直感にも適わないものとなっている。「機会の平等」ではなく「結果の平等」を求める運動となっていることが、その原因だ。

「結果の平等」を求める運動の具体的な帰着が、組織の成員の一定数以上を女性にすることを求めるクォータ制と、入学試験などにおいて黒人やラティーノに優遇措置を与えるアファーマティブ・アクションである。これらの制度はアメリカでは数十年前から実施されてきて、今ではすっかり定着した。

 しかし、クォータ制アファーマティブ・アクションの下では、人々は人種や性別などの「属性」によって判断されて、不平等に取り扱われることになる。この点では、手続き的正義の直感に反している。また、同じだけの労力や努力を払ったり成果を出していたりする人であっても、報酬(組織への参入、大学への入学など)が得られるかどうかは属性によって左右されてしまう。頑張っているマジョリティよりも頑張っていないマイノリティの方が有利になり得るという点で、分配的正義の直感にも反しているのだ。

 これが、クォータ制アファーマティブ・アクションを求める運動が、公民権運動やブラック・ライヴズ・マター運動のようには支持されない理由である。

「逆差別」という日本語は、これらの制度に対する反感を端的に表現したものであるだろう。

 

 では、一部の人々は、なぜ直感に反する「結果の平等」を求める運動を行なっているのか?

 その背景には、「不平等な結果は、社会に制度的なバイアスが存在することによってもたらされている」という前提がある。つまり、たとえば白人が黒人やラティーノよりも大学入学率が高かったり、女性よりも男性の方が特定の組織の成員になりやすいことは、一見すると白人や男性の方が能力が高かったり頑張ったりしていることの結果であるように見えるが、実は現状の制度や構造がマジョリティにとって有利な仕組みとなっていることに起因している……という考え方だ。

 これは、近年では「マジョリティは"特権"を持っている」という言葉で表現されることが多いし、日本のフェミニストがよく口にする「男は下駄を履かされている」という主張もこれの一種と言えるだろう。

 そして、現状の制度によって不当な結果がもたらされているなら、その結果に介入することの方がむしろ正義に適っている、ということになるのだ。

 特にアメリカの大学では、「結果の平等」とその前提である「不平等な結果は、制度的なバイアスによってもたらされている」という考え方が支配的になっている。そのために、「不平等な結果がもたらされていることは、制度的なバイアスではなく、他のことが原因であるかもしれない(男性と女性との間における、学問や趣味や職業に関する志向の生得的な差など)」という仮説を提示すること自体が、非難されて抑圧される傾向にあるのだ*1
 つまり、制度的なバイアスについての議論そのものに、バイアスがかかっている。そして、大学内で学生たちや学者たちがバイアスのかかった議論を繰り返すほどに、「正義」に対する彼らの要求は大学の外にいる人々の実感から乖離したものになっていくのだ。

 

 ……と言いつつも、ルキアノフやハイトだって、アファーマティブ・アクションやクオータ制がすべて間違っていると論じているわけではない。「制度的なバイアス」なり「不平等な制度」なりが存在しない場合もあるが、存在する場合もある。「不平等な結果は、不平等な制度のせいだ」と決めつける発想は間違っているが、どこかしらに不平等な制度が存在している可能性を排除することも、また間違っているのだ。

 とはいえ、仮に不平等な制度の存在が事実であり、アファーマティブ・アクションやクオータ制が不平等な制度に対して実際に有効な対抗策であるとしても、「結果の平等を求める社会正義運動は、人々の正義の直感に反しない」という問題が舞い戻ってくる。こうなると、望ましい目標を実現するために多数の支持を得るためのレトリックをいかにして構築するか、ということが重要になってくるだろう*2

 

 わたし自身の感想を付け加えると……クオータ制については、以前まではまさに「直感的」に反発を抱いていたのだが、多少の勉強をしていくうちに「ケース・バイ・ケースで判断するべきだな」というくらいに思うようになった。たとえば日本の政治の世界にはジェンダー・クオータ制が必要であると思うし*3医学部入試の女性差別問題は誰がどう見ても「制度的なバイアス」そのものだ。アファーマティブ・アクションに関しては、ピーター・シンガーが『実践の倫理』などで昔から擁護していたのを読んでいるので、以前からわりと理解は抱いているつもりである。

 社会運動、ひいては民主主義や政治全般に関する直感とレトリックの問題については、社会心理学の発展に伴って、これからも面白くて有意義な論考が出てくることだろう。