道徳的動物日記

倫理学、社会科学、時事問題、世相などについて論じます。

読書メモ:『モラル・トライブズ:共存の道徳哲学へ』

 

 きのうからはじまった某所での連載の次々回くらいの原稿の元ネタとして『モラル・トライブズ:共存の道徳哲学へ』を借りて読み直しているうちに、図書館からお怒りの電話が来てしまった。

 しかし『モラル・トライブズ』は細部まで刺激と啓発に満ちたおもしろい本であるので、原稿に使わないであろう部分についても、こちらにてメモ的に記録・紹介しておこう。

 

…生物学的適応である以上、道徳は《私たち》を《私》より優先させる装置としてだけでなく、《私たち》を《彼ら》より優先させる装置として進化した。

…(中略)…奇妙に思える第二の点は、道徳が《彼ら》を打ち負かすための装置であることだ。まるで道徳が「無道徳」か「不道徳」でさえあるように思える。しかし、どうしてこんなことがありうるのか?

(p.32-33)

 

『モラル・トライブズ』では、全編にわたっていわゆる「進化論的暴露論法」が行われている。一見すると正しく素晴らしいと思える「道徳」的な感情や考えが、それが出来上がった過程をつぶさに見てみると道徳的でもなんでもなかった、というのは進化論的暴露論法の考え方のコアとなる部分だろう。

 

人種的偏見が強く、また広く見られることから、人種差別は私たちにもとから「組み込まれている」と思われるかもしれない。しかし考えてみれば、これは筋の通らない話である。狩猟採集民族だった私たちの祖先の世界では、異なる人種の成員として分類される人々に遭遇する機会はほとんどなかった。むしろ、丘の反対側に住む《彼ら》は、《私たち》と身体的にほとんど見分けがつかない場合が多かっただろう。このことから、人種は生得的な引き金などではなく、集団の一員である目印としてこんにちたまたま利用されているに過ぎないとわかる。

…(中略)…同じ論理は男性と女性を区別する性別にはあてはまらない。狩猟採集民族であった私たちの祖先は日常的に男性と女性に遭遇していた。さらに、男性と女性は生物学的に重要な点で異なっている。これは性別に基づく分類が、人種と基づく分類と比べて変えにくいはずであることを示唆する。

(p.69-70)

 

 上記については、進化心理学のファンとかアンチ・ポリコレな人も失念しがちであるように思われる。

 

たとえばあなたが、住民が気候変動に懐疑的で、おまけに気候変動に懐疑的でない人に対しても懐疑的な共同体で生活しているとしよう。気候変動を信じるのと懐疑的であるのと、どちらが楽だろうか?ひとりの一般市民として、あなたが気候変動について考えていることが、地球の気候に影響を及ぼすことはまずないだろう。しかし、気候変動に関するあなたの考えは、周囲の人との付き合いにかなり影響しそうだ。

…(中略)…だから、多くの人が気候変動に懐疑的なのは、地球の物理的環境ではなく、自分の社会的環境に対処しようとしているのだと考えれば、完璧に筋が通る…

(p.120)

 

 この現象はたとえばビーガンの生きづらさと関わってくるだろう。また、アカデミアにおいて特定の誤っていたり極端であったりする理論や主張が異様に支持を集めてしまい自浄作用が起きないという現象も、学問のパラダイムなり大学という業界に存在する深い欠陥の産物というよりかは、学者や院生として生きるうえでの「社会的環境」や人間関係に対応するため、ということで説明できるような気がする。アメリ言語学会で起きたスティーブン・ピンカーに対する除名請求なんかはまさにそうだろうし。

 

幸福を測定するのは簡単だ。難しいのは、望ましい正確さで測定することだ。 幸福を少しの誤差もない正確さで測定することはできない。そのため、実際に何かしようとするとおそろしくたくさんの困難が生じるわけだが、できないからといって深刻な哲学上の問題が生じるわけではない。

(p.215)

 

『モラル・トライブズ』では、功利主義は非の打ち所のない完璧な哲学的理論としてではなく、実際に世界で起こっている問題について考えて解決するための「深遠な実用主義」として扱われている。なので、倫理学の議論においては功利主義に対する致命的な弱点と見なされていること…幸福を正確に測ることはできないこととか、功利主義では奴隷制を原理的に否定することはできないこととか、ノージックの「経験機械」の思考実験とかパーフィットの「いとわしい結論」とか…は、「実際の問題について功利主義を使って考えるときにはそんなことが問題になるわけないんだからいいじゃん」といった感じの扱いを受けているのだ。この点が、この本を凡百の哲学本よりもずっと面白くて有意義なものにしている秘訣だろう。

 

を評価するにあたり、行為と不作為の区別、手段と副次的影響の区別、そして人身的な力と人身的でない力の区別を重くみることには意味がある。それは、これらの区別が深遠な道徳的真理を反映するからではなく、こうした区別を無視する人たちが道徳的に異常で、そのため問題を起こす可能性がきわめて高いからだ。

(p.331)

 

 広くいえば、自称"合理主義者"や自称"理系な人に対しても当てはまることだろう。 

 

…「権利」に訴えることは知的フリーパスとして、すなわち証拠を無効にする切り札として機能する。あなたたちは常に自分の感情に対応する権利の存在を想定できる。中絶が間違っていると感じるなら「生きる権利」を語ることができる。 中絶の非合法化が間違っていると感じるなら「選択する権利」を語ることができる。イラン人なら「核を保有する権利」を、イスラエル人なら「自衛する権利」を語れる。「権利」はまったくすばらしい。余計なことをしなくても、私たちの直感を合理化できる。

(p.403)

 

こんにち、私たちは、いや私たちの一部は、同性愛者や女性の権利を確信を持って擁護する。しかし、私たちが感情をこめてこうしたことが行えるようになる前に、私たちの感情が「権利」のように感じられるようになる前に、誰かがこれを思考で行わなくてはならなかった。

 

 功利主義による「権利」批判については、原稿の方で本格的に紹介するつもりだ。しかし、「常に自分の感情に対応する権利の存在を想定できる」とはなかなか本質的である。『モラル・トライブズ』を読むたびに、「せめて自分だけは、できるだけ"権利"という言葉を避けながら、難しい問題について考えたり語れたりできるようになろう」と身が引き締まる思いになる。

 

 なお、『モラル・トライブズ』の著者ジョシュア・グリーンに関しては、インタビュー記事を過去にふたつ訳して紹介している。

 

davitrice.hatenadiary.jp

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