道徳的動物日記

倫理学、社会科学、時事問題、世相などについて論じます。

「ラディカル」な議論が左翼やフェミにウケる理由(読書メモ:『荷を引く獣たち:動物の解放と障害者の解放』)

 

荷を引く獣たち: 動物の解放と障害者の解放

荷を引く獣たち: 動物の解放と障害者の解放

 

 

 版元による紹介はこんな感じ。

 

スナウラ・テイラーは、一人の障害当事者として、障害者運動と動物の権利運動の担い手として、そして一人の芸術家として、読者に問いかける。もし動物と障害者の抑圧がもつれあっているのなら、もし健常者を中心とする制度と人間を中心とする倫理とがつながっているのなら、解放への道のりもまた、交差しているのではないか、と。

 彼女は考えつづける。デモに参加しながら、絵を描きながら、対話しながら、食べながら。いったい何が、動物たちから人間を、障害者ではない人たちから障害者を、区別しているのだろうか、と。

 彼女は考えつづける。身体的・精神的な能力の有無や高低(世界の中でどのように動いたり、動けなかったりするか)を基準にして、私たちは、自分を「人間」として意識し、他なる者を「動物」として値踏みしてしまっているのではないか、と。「人間」としての自分という自負を保つために、私たちは、「動物」との違いを際立たせることに、どれほど血道をあげているのだろうか、と。

 この『荷を引く獣たち』には、「障害」と「動物」という、これまで対立すると見なされてきた問題が、実際には深く結びついているということが、テイラー自身の体験にもとづいて、丁寧に書かれている。
 そのうえで彼女は、もっと風通しのよい、ゆたかな経験と共感にくつろぐ未来を、読者に語りかける。目前の世界の姿を、荷車や車椅子の輪のように、ぐるりと回転させ、しなやかに変えてみせるのである。おおらかに、エレガントに。

  壊れやすく、依存的なわたしたち動物は、ぎこちなく、不完全に、互いに互いの世話をみる。本書は、そのような未来への招待状である。

 

  関節拘縮症を持って生まれてきたために車椅子に乗って生活する著者の個人的な体験やそこから発展した思いや考えについて書かれたエッセイ的な要素と、現代社会において動物や障害者を取り巻く問題について論じる政治的な要素、そしてピーター・シンガー功利主義に基づく理論を否定して代わりにフェミニズムや障害学の要素を取り入れた倫理学である「ケアの倫理」を主張するという倫理学的な要素、それぞれが入り混じっている本である。

 

『荷を引く獣たち』を書評している人の顔ぶれを見てみると、どうやらこの本は左翼の人やフェミニストの人にとってかなりウケが良いようだ。この本では「すべての差別問題はつながっており、原因は一緒である」というインターセクショナリティ(交差性)理論が用いられていること、そして功利主義や権利論のような既存の倫理を否定する代わりに「依存」や「感情」を重視するケアの倫理学フェミニズム倫理学を主張していること、などがウケの良さの主な理由だろう。ただ単に動物の問題についてだけ語っている本であったなら注目されていなかったかもしれないが、良識のある人なら否定することができない障害者の権利の問題とか、最近になってとりわけ注目度が高くなっているフェミニズムの問題とか、あるいは昔からおきまりの西洋中心主義批判や資本主義批判なんかに接続することで、「動物の問題は、わたしたちが取り上げるべき重大な問題であるんだ」と左翼やフェミニストの人たちを説得することができる、ということである。

 裏を返せば、左翼やフェミニストの人たちは、フェミニズムや資本主義批判などの「自分たちが関心を抱いている問題」や「重大な問題であるとすでに仲間内で認定されていてるので、取り上げても恥ずかしくない問題」に接続されない限りは、動物の問題をはじめとする新たな問題に注目することができない、ということだ。動物倫理の本が数多も出版されているなかで、理論的な精緻さとか問題分析の正確さなどの点で『荷を引く獣たち』に取り分け優れているところがあるとは思えないが、そもそも読者の大半は「理論的に妥当であるか」とか「問題が鮮やかに分析されているか」とかいったことには興味はないのだろう。それよりも、すでに自分たちの側で設定している問題認識や自分たちのなかで築かれている価値体系に抵触する内容でないことや、自分たちが使っているような言葉を用いながら議論が展開されている、ということの方が重要であるみたいだ。

 

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『荷を引く獣たち』を読んでいたわたしが思い出したのは『ブルシット・ジョブ』だ。どちらの本でも、扱われている問題(動物の問題/労働疎外の問題)はわたしが大いに関心を抱いていることである。しかし、どちらの本を読んでいても、それらの問題について新しい理解が得られたという感覚はついぞ抱けなかった。

 批判対象となるナントカ主義(人間中心主義や健常者中心主義/新自由主義)を藁人形として設定したうえで、それを叩きつつ、議論している問題(労働の問題/動物の問題とか障害者の問題)とは別の問題(貧困、性差別、西洋中心主義、植民地主義...)についても八方美人的にあちこちで言及される。だが、問題が起こる理由についての合理的で客観的な分析や、その問題に対処するための現実的で持続的な解決策についての議論がなされることはない。これらの本で読者に提供されているのは、物事についての正確な知識や理解ではなく、アジテーションであるからだ。

 そして、『ブルシット・ジョブ』の書評を書いたときにも触れたが、どうやら多くの読者はアジテーション的な文章に触れることに楽しみや快感を見出しているようである。本を読んだところで現実の問題がなにか解決するということではないのだが、既存の制度や価値観を徹底的に否定して代わりとなる「ラディカル」な価値観や社会設計を述べ立てる本を読んでいるその間だけは、解放感を抱くことができるらしいのだ。逆に言うと「ねえねえ、その問題ってほんとうに人間中心主義が原因なの?」「当たり前のように健常者中心主義が問題を引き起こしているという前提で議論がすすんでいるけど、他の可能性については検討しないの?」などといちいち引っかかりながら読んでしまうような読者は、最初から対象とされていないのである。

 

 この本で展開されているような「インターセクショナリティ(交差性)理論」の問題点については、以下の記事で指摘している。

 

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 インターセクショナリティは「あらゆる問題は交差している」と主張する。だが、『荷を引く獣たち』を読んでいて気が付かされたのは、大半の場合においてインターセクショナリティは「類似」を「交差」と取り違えている、ということだ。たしかに、動物に対する差別と、障害者に対する差別や女性に対する差別には、似ているところがあるかもしれない。しかし、似ているからといって、それが本質的につながっていたり原因を同じくしたりしているとは限らないはずであるのだ。

 

 そして、この本の終盤で展開されている、動物の問題に「ケアの倫理」を持ち込む議論については、以下の記事で批判している。実を言うと、わたしが修士論文であつかったテーマが、まさに、動物の問題に関する「ケアの倫理」の議論であったのである。そんなわたしだからこそ自信を持って言えるのだが、すくなくとも動物の問題については、他の規範倫理理論を差し置いて「ケアの倫理」を主張することはまったく得策ではない。

 

 

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「ケアの倫理」に利点があるとすれば、「耳心地の良さ」であるだろう。ケアの倫理を用いれば、理性中心主義とか男性中心主義とかのいかにも"悪そう"な主義を批判して否定する(最近のケア倫理では、そこに新自由主義批判を加えることがトレンドとなっている)。その代わりに提唱される「ケア」は、いかにも優しそうで、深そうだ。さらに言うと、ケアの倫理は最近流行りのフェミニズムと関係が深い。だから、ケアの倫理を主張することでフェミニストや左翼の仲間からの評判が悪くなることは、まずない。「ケア」の意義や必要性について論じることで批判をされて損をしたりすることもないのだから、とりあえず言っておけば得をすることができるのだ(グレーバーが『ブルシット・ジョブ』のなかで「ケア」について触れていた理由も、大方そんなものだろう)。

 

 問題なのは、特に動物実験や工場畜産などの多数の存在が関わっている社会制度を考える際には「ケア」は具体的な指針をまったく提供してくれないことである。また、「ケア」は、トレードオフや利害調整などが関わり、優先順位を設けなければならない問題に対応することについても、全く無力だ……そして、倫理的な問題の大半においては、その問題が深刻になればなるほど、トレードオフや優先順位について考える必要性が増すものである。

 ケアの倫理では、「ケア」の対象にすべき弱者やマイノリティの利害が重大なものであるとされる一方で、ケアの対象となる強者やマジョリティの利害は重要性に乏しいものであると、論点先取的に設定される。だからトレードオフや利害調整などについては「考えなくていい」ものとされるのだ。

 

(2020/11/30:追記)

 ただし、『荷を引く獣たち』について書かれている内容のすべてがダメだというわけではない。たとえば、著者がピーター・シンガー本人と対話している箇所はなかなか興味深かった。シンガー思想そのものについては批判的であっても、シンガーの人格を悪人として糾弾しているわけではないところは好感が抱ける。

 また、著者本人の経験に基づきながら、「障害者としての生の豊かさ」を説き、「障害の社会モデル」的な観点からシンガーを批判する議論については、ある程度までは妥当であり説得力もあるように思えた。とはいえ、これは障害学にありがちな問題であるのだが、「自分の生は豊かである」と思えるレベルの障害を持っている人が、より深刻で苦痛の多い生涯を強制される障害を持った人のことまでをも勝手に代表している、という感は否めない。また、「適応的選好」の問題は常に残り続ける。

 ……それでも、やはり、シンガーの主張に対する障害学的な観点からの批判はなされ続けるべきであるだろう。著者は比較的フェアにその批判を行なっているのでそこが良かった。

 

 問題なのは、むしろ、ゲイリー・フランシオンによる廃止論を批判している箇所だ。畜産に関するフランシオンの主張とは、「家畜は脆弱で依存的な生を強調されるから、存在するだけでリスクにさらされている。だから、究極的には家畜は存在するべきでない」というものだ(「彼らが望んでいるのは『今より大きな檻』ではなく『空っぽの檻』である」というスローガンに象徴される)。

 これに対して、「依存」を肯定するケア倫理を重視する著者は、フランシオンの主張は「自律」を信奉する健常者中心主義に基づいていると批判する。……しかし、3.11の福島に取り残された家畜たち、災害が起こったりウイルス騒ぎが起こったりするたびに万単位で大量に処分される家畜のことたちを考えると、「依存」状態でしか生きられないということが家畜たち本人にもたらすリスクは、どう考えても無視できない。それを、「依存を否定するのは自立を重視する健常者中心主義だ」と否定するのは、はっきり言って無茶苦茶だ。

 同様の主張は著者だけでなくドナルドソンとキムリッカも行なっていたが、現実に起こってきた悲惨や起こり得る可能性の高い悲惨から目を背けて「動物たちの豊かな生」や「多様な在り方」などの綺麗事を語るのは欺瞞であるとしか思えない。

 ドナルドソンとキムリッカは『人と動物の政治共同体』の冒頭で「これまでの動物倫理はあまりに否定的で消極的であったから、積極的で肯定的な動物倫理を打ち立てよう」として、シンガーのような功利主義によるものにせよフランシオンのような権利主義によるものにせよ「解放論」を否定して、動物に危害を与えない方法で動物の利用を持続することを模索していた。しかし、動物の利用に伴うリスクについて真剣に考慮したら、否定的で消極的な答えしか導かれないものであるかもしれないのだ。肯定的で積極的な答えの方がより多くの読者の関心を惹けたり批判を回避したりすることはできるかもしれないが、それよりも、正しい答えを求めることの方が重要であるはずだ。

 

 さらに言うと、肉を摂取することに関する生物学的必要性や欲求に関する議論をすべて「自然を装って問題を脱政治化しようとしている」というところもダメダメ。

 ここは、労働に関する問題の経済学的な分析をほとんど拒否して、すべてを政治的な観点から論じようとする『ブルシット・ジョブ』の悪癖とも共通している。

 生物学にせよ経済学にせよ「都合の悪い真実」を指摘する理論を拒否して、問題をなんでもかんでも「政治化」してしまい、「いま覇権を占めている悪い考え方や権力を握っている悪いやつらをやっつければ問題は解決する」という偽りの希望ばかりを論じるからこそ、議論ではなくアジテーションしかできない本になってしまうのだ。

(追記終わり)

 

 けっきょく、客観性や具体性に乏しい代わりに耳心地だけはいい「ラディカル」な議論でないと、左翼やフェミニストの大半は読んだり聞いたりしてくれない。問題が生じるメカニズムについての地道な分析や、漸進的な解決策についての検討を行う本は、地味でまだるっこしく思われてしまうのだろう。

 

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 あるいは、「新自由主義批判」的な本に対してジョセフ・ヒースが行ったような以下の指摘を、『荷を引く獣たち』に向けることもできるだろう。

 

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たとえば,ずいぶん前から,批判的研究で「ネオリベラル」という言葉が最重要語として機能しているのは気づいていた.事情を知らない人に説明しよう.「ネオリベラリズム」の基本的な問題はこういうことだ.この言葉はでっちあげだ.フーコーによって人口に膾炙するようになった単語で,実はフーコー当人も理解してなかった経済的なあれこれの考えについて語るのに使われているにすぎない.じぶんから「はい自分がネオリベラルです」と称している人たちなんて,どこにもいない.そのため,それが指す事柄にはなんの制約もかかっていないし,「ネオリベラリズム」について主張される批判に応えるべき人間もいない.「ネオリベラル」を,他の「保守」「リバタリアン」といった言葉と比べてみるといい.「リバタリアン」を自称する人たちは実在するから,もしもリバタリアニズムを批判する文章を書けば,現実のリバタリアンが「おまえの言い分はおかしい」と言って反論を書いてよこすかもしれない.一方,「ネオリベラリズム」の場合には,なんでも好き放題に言える.なにを言っても,生身のネオリベラルが「お前の言い分はおかしい」と反論を書いてよこす心配はない――そんな人がどこにもいないからだ.その結果,著作でこの言葉を使う人たちはようするにこうあけすけに宣言しているにひとしくなっている.「私が意図している読者層は,同じ左派のエコーチャンバーですよ.」 エコーチャンバー外の人たちとやりとりしようとのぞんでいるなら,エコーチャンバー外にいる人たちがみずから自覚して実際に掲げているイデオロギーをとりあげないといけないだろう.(この点で,ネオリベラリズムを批判する人たちは大学業界の臆病ライオンだ.そんないわれはないと思うなら,実際の右派を見つけて議論してみてはいかが?)

ただ,ネオリベラルを自認する人がどこにもいないおかげで叶ってしまった望みが1つある.「ネオリベラル」という言葉を使うと,その文章を届ける相手がせばめられて,根っこの規範的な判断を共有している人たちに限定される.すると,この大学教員たちは「ネオリベラリズムはわるいもの」という信念にみんながすっかり賛同している気分になれる.

 

 

 上記の指摘は、「ネオリベラリズム」を「人間中心主義」や「理性中心主義」や「健常者中心主義」に置き換えれば『荷を引く獣たち』にも当てはまる。というか、左翼やフェミニストが好むような「ラディカル」な議論の大半に、この指摘は当てはあまっているのだ。

 わたしが抱く最大の疑問は「いつもいつもこんな中身のないアジテーションを読んで面白いと思い続けられるの?飽きたりしないの?」ということだ。でも、たぶん、彼女らは飽きることなくアジテーションを書いたり読んだりしつづけられるんだろう。読書や学問に求めるものがまったく一致していなくて、価値観が根本的に違うんだと思う。