道徳的動物日記

倫理学、社会科学、時事問題、世相などについて論じます。

読書メモ:『自殺の対人関係理論:予防・治療の実践マニュアル』

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※自殺について扱っている記事なので要注意

 

 この本の代表著者のトマス・ジョイナーは Why People Die by Suicide Lonley at the Top の著者でもあり、このブログでもこれまでに何度か取り上げてきた*1。ジョイナーの本で邦訳が出ているのはいまのところこの本だけであり、Why People Die by Suicide がエッセイや概説書としての要素が強く読みものとしても興味深かったのに比べると、こちらは副題から想定される通りカウンセラーなどの本職の人が現場で使用するためのガチガチの実践書だ。そのため、読みものとしての面白さがあるわけではないのだが、ジョイナーの提唱する「自殺の対人関係理論」について再確認することができた。メモがてら、紹介しよう。

 

「自殺の対人関係理論」は、人に自殺願望をもたらす要因として負担感の知覚所属感の減弱の二つを挙げる。そして、自殺願望を持っており、かつ自殺潜在能力を身に付けている人が、自殺するリスクが高い人であると見なされる。

 

 自殺潜在能力とは、「自殺しよう」と思ったときに、それに伴う痛みや恐怖を乗り越えで自殺を遂行することができる能力、ということだ。逆に言えば、この能力が身についていなければ、いくら自殺願望を抱いていても自殺を実行することが困難になるのである。

 

自殺の対人関係理論によると、自殺によって死ぬことができるのは、過去において疼痛と刺激誘発的体験(自殺行為がその最たるものであるが、それに限らない)を十分にくぐり抜けてきたため自傷行為の恐怖と疼痛が習慣になり、それゆえ自己保存の要請が押し込められてしまった人たちのみである。私たちが示すように、自己保存本能はそのすべてを取り除くことができないほどに強く、常にその頭をもたげてくる。通常、自己保存本能は広く存在するが、なかにはそれをねじ伏せることができる選ばれたわずかな人々がいて、そうした人たちは、自殺の対人関係理論によれば恐怖と疼痛に慣れることによってこの危険な能力を獲得してしまったのである。その後の自傷行為に対する疼痛と恐怖を減少させるという点で、自傷の既往(特に死ぬことを意図した自傷)が最も強力な習慣化体験ではあるものの、それが唯一のものではないことを強調することは重要である。怪我、事故、暴力、命知らずな言動、軍隊での活動や、医師としての仕事などはわずかな例であるが、様々な程度の恐怖や疼痛を伴う体験が習慣化体験となりうる。

(p.5-6)

 

 自殺願望の要因のひとつである「負担感の知覚」については、以下のように解説されている。

 

負担感の知覚とは、自己についてのひとつの見方であり、それは自尊感情の低下を含んで入るが、さらにそれを超えるものである。この考えは、その人が不完全で欠点があるために自己価値が含められるだけでなく、さらに悪いことには、その人の存在が、家族、友人、社会にとってお荷物であるというものである。この見方は「家族、友人、社会やそういった人たちにとって、私が生きているより死んだほうが、価値がある」という決定的な計算を心の中で生み出すのである。自殺の危険性のある人たちはこの計算結果が正しいと信じているが、それは致命的になりかねない誤った認識を表している。

(p.6-7)

 

 「所属感の減弱」については、以下の通り。

 

所属感の減弱とは、孤独や社会的疎外と完全に一致しないまでも、おおよそ同義である。これはある人物が、家族の一部でもなく、仲間の輪、価値のある集団などの他者から疎外されているという体験である。人々が、負担感の知覚所属感の減弱を同時に体験した時、つまり彼らが自分自身の他者に対する心遣いが重要でなくむしろ害を及ぼすとさえ感じ、彼ら自身も気遣われていないと感じた時、それが命にとって重要なつながりのすべてを断ち切り、その結果、死への願望が生じると自殺の対人関係理論は提唱するのである。

(p.7)

 

 自殺の対人関係理論のポイントは、自殺願望についての分析だけでなく、自殺潜在能力という観点を発見したことにもあるようだ。たしかに、自殺潜在能力という考え方を用いることで、「自殺者は男性の方が多いが、自殺未遂者は女性の方が多い」というよく知られた現象を説明することができそうである(自殺願望は女性の方が多く抱いているかもしれないが、自殺潜在能力を身に付けている人が男性の方が多いのであろう)。

 また、『経済政策で人は死ぬか?:公衆衛生学から見た不況対策』では「不況であるからといってただちに自殺者が増えるわけではないが、失業状態が長引くことは、人々を自殺に追い込む」ということが論じられていた。そして、失業状態が「負担感の知覚」と「所属感の減弱」を人々に引き起こすことは疑いないように思える。コロナ禍が始まった当初には日本では自殺者が減少していて、「自粛要請やリモートワークによって労働負荷が減少して、人々が生きやすくなったからだ」という議論がなされていたものだが、けっきょく、2020年の自殺者は男女ともに増えることとなってしまった*2。失業者が増えたことはもちろん、自粛に伴う社交の減少が人々に「所属感の減弱」を引き起こしていることは疑いの余地はないだろう(もちろん、だからといって、「自粛をするな」と言いたいわけではない)。

 過去の記事でも強調したが、「孤独」というものは安易に美化されがちだ。コロナ禍のインターネットにおいても「出勤や飲み会がなくなって、人と会わずに引きこもることが許されるようになって、ラクになって最高だね」みたいなセリフをあまりに安直に吐く人々が散見される。しかし、わたしはーー実のところ、たしかに「ラクになったなあ」と思ってはいるのだがーーそういうセリフはなるべく吐かないようにしている。インターネットにおいても主流メディアにおいても、「孤独」はたやすく美化されて、そのリスクが見逃される傾向があるからだ。

 

 また、第六章における以下の箇所も印象に残った。

 

……本書を通じての私たちの立場は、少なくとも可能な限り、すべての自殺は予防されるべきであるということを前提としている。しかしこの立場は普遍的なものではなく、より自由放任主義的な見方(生死の決断は個人に任されているという見方)をする者もいる。

……(中略)自殺の対人関係理論は、負担感の知覚(死のほうが生よりも価値があると考えること)を経験することが大きく誤った見方から発生しており、私たちは自殺死する人が正しい情報に基づいた合理的な決断を下してそれを行なっているとは考えられないと仮定している。また私たちは自殺の観念から直接影響される人だけでなく、その愛する人にまで多大な苦しみを生み出すのを予防することの価値を強く信じている。

(p.214-215)

 

「自殺を企図する人は合理的な判断を下していない≒自殺を企図する人は認知が歪んでいる」という観点は示唆的だ。たとえば、わたしが反出生主義は理論的には認めておきながらも反出生主義を唱えている人のだいたいが苦手であるのは、Twitterなどで反出生主義を繰り返し唱えている人のだいたいは明らかに鬱状態であったりして「認知の歪み」を抱えているように見えるからである。というか、わたし自身、鬱状態に近づいていたときには反出生主義にいまよりもシンパシーを感じていた。

 しかし、そもそも、学問という営みには、査読や討論や指導によって「認知の歪み」を修正することで、客観的で合理的な考え方にたどりつく、という側面がある*3。だからこそ、病んでいる状態の人たちから発せられる考え方には、それが表面的には論理的に聞こえるとしても、(いまの時点では精神が比較的健康であるわたしは)あまり価値を見出すことができないのだ。学問的な査定を通り抜けたうえで反出生主義について書かれた論文などは興味深く読むことはできるだろうけれど。

 

 また、自殺は、自殺する本人に対する影響だけでなく周りの人に対する影響という観点からも行わなければならない、というのは当たり前のことかもしれないが、ともすると忘れがちな点でもある。

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

「自殺」に関する思想史について書かれた上記の本でも、自殺を否定するうえで「他人に対する影響」が強調されていた。しかし、自殺の対人関係理論にも届くと、自殺願望を抱いている人は「負担感の知覚」を抱いてしまい「自分が死んだほうが周りの人にとってもマシになる」と(誤って)認識しているからこそ自殺を企図するのであろう。だから、「他人に対する影響」を強調したロジックが本人に対して説得力を発揮することは難しいであろう。

 この本では、よりプラグマティックに、「負担感の知覚」や「所属感の減弱」に対処する方法が記されている。