道徳的動物日記

『21世紀の道徳』発売中です。amzn.asia/d/1QVJJSj

道徳の問題は科学的に、定量的に考えなければいけない理由

 

 

 

 ビル・ゲイツウォーレン・バフェットが実践していることでも有名な「効果的な利他主義」について書かれた本。パート1では「効果的な利他主義」の考え方について、パート2では具体的な実践方法について書かれている。

「効果的な利他主義」を提唱している哲学者のなかではピーター・シンガーが最も大御所であるだろうが、シンガーにせよこの本の著者であるウィリアム・マッカスキルにせよ、功利主義者である。そして、「同じ金額を寄付するなら、同じ時間だけ慈善行為に関わろうと思うなら、その金額や時間で最大の効果が与えられる対象に寄付したり関わったりせよ」という効果的な利他主義の考え方は、行為の「結果」を強調するという点にせよ結果の「量」を強調するという点にせよ、功利主義にかなり等しいものであることは言うまでもない。

 

…(前略)…トレバー・フィールドの物語が示しているように、必ずしも善意が成功に結びつくとはかぎらない。では、どうすればなるべく効果的に人々の役に立てるのだろう?知らず知らずのうちに危害を及ぼすことなく、世の中に最大限の前向きな影響を及ぼすには?

本書ではこうした疑問に答えていきたいと思う。「心」と「頭」を組みあわせれば、つまり利他的な行為にデータや合理性を取り入れれば、私たちの善意を驚くような成果に変えることはできるのだ。

(p.6)

 

効果的な利他主義で肝要なのは、「どうすれば最大限の影響を及ぼせるか?」と問い、客観的な証拠と入念な推論を頼りに、その答えを導き出そうとすることだ。いわば慈善活動に対して科学的なアプローチを取り入れるわけだ。何が真実なのかを素直で中立的な視点から突き詰め、それがどういう真実であろうと真実だけを信じると誓うのが「科学」であるとするなら、何が世界にとって最善なのかを素直で中立的な視点から突き詰め、それがどういう行動であろうと最善の行動だけを取ると誓うのが「効果的な利他主義」なのだ。

(p.13)

 

 効果的な利他主義が「科学的なアプローチ」を行うことができるのは、効果的な利他主義(ひいては、功利主義)は「結果」の「量」を重視する「定量的」な思考であるから、というところが大きい。

 このブログでは、マイケル・シャーマーの著書『道徳の弧:科学と理性はいかにして私たちを真実と正義と自由に導くか』についても何度か紹介してきた*1。シャーマーの議論のポイントとは、以下のようなものだ:

人間の思考には「定性的」なバイアスがかかっており、程度や可能性の問題を無視した「◯か✖️か」の判断をしてしまいがちであるが、科学的な営みでは定性的なバイアスを是正して「定量的」に物事を扱う必要がある。そして、道徳の問題について考える際にも、状況ごとの固有の事情や条件を考慮に入れながら、科学と同じように定量的に考えなければならない。

 

『<効果的な利他主義>宣言!』では、道徳の問題について定量的に考えることの具体的な方法が詳らかに書かれている。

 定量的な思考で重要となるのは、たとえば、「期待値」の問題だ。寄付をする際には、対象となる問題の規模や深刻さと、寄付によってその問題が解決したり改善したりする可能性の両方を考慮したほうがいい(改善や解決が確実ではあるがそもそも大したことのない問題に寄付することも、深刻ではあるが改善や解決の余地がない問題に寄付することも、どちらも非効率的であるからだ)。

 また、「反事実的思考」も重要となる。行為を評価するためには「その行為をしたことによって、もたらされた結果」だけではなく「その行為をしなかった場合に、もたらされたであろう結果」についても考えなければならないのだ。行為をしなかったほうが良い結果がもたらされていたであろう可能性が高かったり、行為をしてもしなくても同じような結果になっていたであろう可能性が高かったりする場合もあるかもしれない。

 定量的に考えるための材料としては、諸々のデータをはじめとする「証拠」が必要となる。しかし、大半の場合において、100%に確実に結果が予測できるほど充分に証拠が揃っていることはない。そのため、いま手に入れられる限りの限定された証拠に基づいて判断を下さなければならないのだ。だから、その判断は確実なものだとは言えず、「蓋然的」な判断に留まらざるを得ない。しかし、蓋然的な判断と、適当でデタラメな判断は、全く異なるものであるのだ。

 

 道徳の問題を科学的・定量的に思考することは、「効果的な利他主義」に限らない。たとえば、動物倫理の分野でも、科学的で定量的な思考は重要視されているのである。

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

 上記の記事をはじめとして、このブログでも何度か紹介しているゲイリー・ヴァーナーの『人格、倫理学、動物の認知能力:ヘアの二層功利主義で動物を位置付ける』では、各種の動物の認知能力について調べた心理学や動物行動学などの様々なデータを参照したうえで、人間と動物が「人格(Peson)」「準-人格(Near-Peson)」「感覚だけの存在(Merely Sentient)」の三つのカテゴリに分けられている。そして、それぞれの個体にとっての本人の「生」の価値は、「人格」である人間にとってや「準-人格」である動物にとっては大きい一方で、「感覚だけの存在」にとっては大きくない。そのため、(苦痛の問題などは差し置いて)「殺すこと」の悪さを考量する際には、「人格」や「準-人格」に与えられる危害は「感覚だけの存在」にとって与えられる危害よりも大きいと考えなければいけない、という議論をヴァーナーは行なっている。

 ヴァーナーの議論に対して、ひいては動物倫理や「パーソン論」全般に対してよく行われる批判が、「特定の尺度によって一方的に基準を設けて、他者の生の価値を線引きする、傲慢な発想だ」というものである。この批判は動物倫理の内側からも行われることが多い。たとえば、『荷を引く獣たち』ではシンガーの主張が障害学の観点から批判されていたし、フェミニズム倫理でもポストモダン倫理でも「尺度」や「基準」は批判される*2

 しかし、物事を定量的に扱うためには、尺度や基準は欠かせない。また、「どんな行為が、どんな動物に対して、どんな危害をもたらすか」ということは「どこに寄付することが、どんな結果を生み出すか」ということと同じくらいには不確実で蓋然的な事象だ。個々の動物にどのような感覚が備わっていたり、自分の生に対してどのような認識を抱いているかは、わたしたちは外部から推し量るしかないためである。……そして、科学的な思考は、蓋然的な事象を考慮するための最善のツールなのだ。

 以前にも引用したが、ヴァーナーの著書のなかでもわたしのお気に入りの箇所である、「ラムズフェルドの返答」について述べている部分を、改めて紹介しよう。

 

基準に基づいた私の議論に対する、哲学者のコリン・アレンによる批判に対する私の最初の返答は、「ラムズフェルドの返答」と呼ぶことができるかもしれない。最高の装備や改良型の高機動多用途装輪車両が、イラクに向かうアメリカ軍の全軍に対しては配備されていない、という批判に対してアメリカの元国防長官のドナルド・ラムズフェルドが言ったとされる返答に由来しているからである。ラムズフェルドはこう言ったのだ。「君も知っているように、戦争には手元にある軍隊で行かなければならないんだ。自分がこれだけ欲しいと思っている軍隊や、後からこれだけ欲しかったと思うことになる軍隊で戦争に行ける訳じゃないんだ」。ラムズフェルドと同様に、私もこう言おう。倫理的な判断は、自分が欲しいと思っている証拠ではなく、自分が手にしている証拠に基づいて行わなけばならない。

 科学者や、心の哲学を専門にしている哲学者なら、無期限に結論を保留する余裕があるかもしれない。しかし、倫理学者や立法者は、その判断を下すときに入手可能な最善の証拠に基づいて判断を下さなければならない。そして、日々の生活においては全ての人が倫理学者なのだ。私はいつも自分のことを「倫理学者」ではなく「倫理理論学者(ethical theorist)」と呼んでいる。ポピュラーメディアは、「倫理学者」のことを自分に投げかけられた全ての倫理的問題についての答えを持っている人だと描写するからだ。しかし、問題が投げかけられた時の私の答えとは、多くの場合は「その答えは、事実がどんなものであるかということによる」というものだ。「日々の生活においては全ての人が倫理学者なのだ」という私の主張は、全ての倫理的問題に対して表明できる意見を全ての人が持っている、ということは意味していない。私が言いたいのは、私たちの全員が、倫理的な議論の対象となる判断を数え切れないほど多く下している、ということなのだ。その判断の多くは待つヒマのないものであるし、その問題に関して必要であったり求められたりする情報を全て集める前に判断を下す必要がある。このことは、立法者にとっては明白なことだ。立法者は、広い範囲に重大な結果をもたらす政策や法律を不完全な情報に基づいて頻繁に制定しなければならない。しかし、立法者に比べると判断の与える影響は少ないといえ、同じことは私たちの全員に当てはまるのだ。

(p.115-116)

 

 

「その基準は妥当なものであるのか」「基準にはバイアスがかかっているのではないか」と指摘して、基準の修正を要請する、ということもあり得るだろう。そのような批判であるなら、正当な批判であると思う。たとえば『荷を引く獣たち』でも、シンガーのパーソン論は障害が障害者本人にもたらす危害を重く見積もりすぎるという「健常者中心主義」のバイアスがかかっている、ということを指摘しているところはおおむね妥当であった。

 しかし、道徳の問題において「尺度」や「基準」を設けることそのものを否定してしまう議論は、だいたいにおいて的外れだ。『荷を引く獣たち』でもフェミニズム倫理・ポストモダン倫理でも、「基準によって判断するのではなくそれぞれの動物たちの"個別性"や"他者性"について向き合わなければいけない、いや、感覚の有無を重要視すること自体が人間中心主義であるから動物たちのことだけでなく植物や生態系も重要視しなければいけない」などと倫理的行為の対象を無限に拡大してしまう議論になってしまっていった。わたしに言わせれば、このような議論はおためごかしの八方美人であり、耳心地はいいかもしれないが具体的な行動の指針とは全くならない、頼りなくて無意味なものである。

 このような主張は、問題について自分が"深く"考えていることのアピールとはなるかもしれないが、「他者」のことを真剣に考慮している主張であるとは全く思えない。ほんとうに他者のことを考慮しているなら、自分の行為がもたらす結果について知ろうとするはずであるからだ*3。そして、行為がもたらす結果について知るためには……そう、尺度や基準を設けながら、科学的に定量的に考えることが必要となるのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:

 

The Moral Arc

The Moral Arc

  • 作者:SHERMER, MICHAEL
  • 発売日: 2016/01/26
  • メディア: ペーパーバック
 

 

*2:

davitrice.hatenadiary.jp

davitrice.hatenadiary.jp

davitrice.hatenadiary.jp

*3:気にかけよう(ケアしよう)とするのではなくて。