道徳的動物日記

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読書メモ:『孤独の科学:人はなぜ寂しくなるのか』

 

 

 トマス・ジョイナーの『Lonley at the Top』と同じく「孤独」が人の心身に与える悪影響について書かれた本であるが、ジョイナーの本では人(男性)が孤独になる「原因」や「過程」についての議論が豊かであったのに比べて、こちらでは孤独がもたらす「結果」についての生理学的な説明に焦点があてられている感じ。

「なぜ孤独は人に悪影響を与えるのか」「孤独感が生じる進化的な理由」という観点からの説明は行われているが、ジョイナーの本でなされていたように、人(男性)が孤独に至るまでの心理的な原因と社会的な過程に関する奥深い考察は少なめ。

 それは著者の専門分野の違いということでいいとしても、こちらの本は同じような話をずっと繰り返している感じがちょっと強くて、読みものとしてやや退屈ではあった。

 

 この本のメインとなる主張は、「主観的な孤独感は、それ自体が"痛み"のような感覚を本人にもたらす。また、孤独感は自己調節や自己コントロールに関する機能を低下させる。それは、本人に健康的な行動を取りづらくさせたり、ストレス要因への抵抗力を弱めたり、睡眠のような治癒機能の働きを低下させたりするだけでなく、社会的なコミュニケーションにも悪影響をもたらす。これらが相まって、孤独感の高さは、様々な病気や死亡のリスクにつながる」というものだ。

 また、この本では、社会的帰属に対する欲求の強弱は「サーモスタット」に例えられている。そして、サーモスタットの敏感さは個人によって異なる。孤独の程度が客観的には同じであっても、敏感なサーモスタットを持っている人の方が、「わたしは孤独である」と感じやすく、それによる悪影響も生じやすいのだ。

 なお、ジョイナーもこの本の著者と同じく「孤独感のサーモスタット」という表現を使っているが、ジョイナーの説によると、サーモスタットが鈍感であることもそれはそれで危険だとされる。男性は女性に比べて孤独感のサーモスタットが鈍感であるが、そのために、手遅れになるまで孤独の状況を放置してしまいがちであるのだ。逆に言うと、女性は敏感なサーモスタットを持っているために、すぐに「わたしは孤独だ」と思ってしまうが、コミュニティに接近するなどして孤独な状況に対処することも早々に行うのである。

 一方で、この本では、「敏感なサーモスタットにより強い孤独感を抱くことは、自己コントロール能力にも悪影響を生じさせるので、コミュニケーション能力にも支障をきたし、コミュニティからの離脱にもつながる」というようなことが論じられている。そのため、ジョイナーの主張とこの本の主張とでは、微妙な点で矛盾が起こっているのかもしれない。

 

 

心理学者のドナルド・ヘッブは「個人の性質に、より大きな影響を与えるのは、生まれか育ちか」という疑問を、長方形の面積に、より大きな影響を与えるのは縦の長さと横の長さのどちらか、という問いになぞらえた。答えは、どちらか一方、ではない。だが、それぞれが別個に、という話でもない。一般に、個性のごく基本的な側面の発現を左右するのは、たんに「環境+遺伝」ではなく、遺伝子と環境の 相互作用 なのだ。遺伝が及ぼす影響力とは、特定の個人がその遺伝的な資質のせいで、社会的なつながりを人より余計に必要としたり、そうしたつながりがない状態に人一倍敏感だったりする、というだけだ。短期間にしろ生涯にわたってにしろ、人が実際に孤独感を覚えるかどうかは、社会的な環境を含めてそれぞれの環境次第だ。そして環境は、本人の考えや行動など、じつにさまざまな要因に左右される。

(p.41)

 

 この本の本題とは関係がないが、長方形で例えることは、「生まれか育ちか」論、あるいは進化心理学的と社会構築主義の対立に対する良い解毒剤である。わたしも、機会があればこの例えを使ってみたいと思う。

 

ここでもまた、現代思想のじつに多くが賛美する「実存主義のカウボーイ」、つまり全世界を相手に回す一匹狼としては人間がうまくやっていかれない理由がわかる。「人は独りで生まれてくる」ことも「人は独りで死ぬ」ことも文字通り真実かもしれないが、他者とのつながりは進化の過程で人類が今の姿になる一助となっただけでなく、現在も私たち一人ひとりがどんな人間になるのかを決めるカギも握っているのだ。どちらの場合にも、人間どうしのつながりや精神の健康、生理的な健康、情動面での健全性はすべて、互いに切り離せないほど密接に結びついている。

(p.173)

 

 ジョイナーも指摘していたように、現代思想や文学は孤独を美化してしまいがちである。それを真に受けてしまった読者は孤独リスクへの対策を怠ってしまったりあるいは自ら孤独に突き進んでしまい、不健康になって、不幸になって、場合によっては自殺してしまうのだ(特に昔の文学者はよく自殺していたことは、文学者はもともと孤独になりやすい傾向があるから作品のなかでも孤独を美化してしまうことを示しているかもしれないし、孤独を美化する文学サークルに関わっているうちに不健全で破滅的な思考や行動パターンをインストールしてしまったということであるかもしれない)。

 

…(前略)…孤独は私たちから自己調節と実行制御の機能を奪い、自主抑制と粘り強さを損なう。認知と感情移入を歪め、そのせいで社会的調節に貢献するほかの認識も支障を来す。その中には、社会的同調をする上での妥協と互恵、適切なさじ加減で行われる服従と支配、仲裁、社会的制裁、同盟の形成などが含まれる。

ようするに、自分自身の集団への「適合性」を高めるだけではなく、集団の全体的な適合性も高める、つまり実現可能な社会的な調和のレベルへと導くには、こうした高度な能力が必要なのだ。

孤独感は、他者とかかわることで得られる報酬の感覚を弱め、逆に、中毒と関係した脳のいくつかの部位に支配されている、他者を不快にさせることの多い反応を引き起こす。もし私が他者の心を正確に読めなければ、ニュアンスをつかめず、双方にメリットのある解決法を直感的に見つけてより望ましい結果を生むことができない。その鈍感さのせいで、協調性のあるパートナーとは思ってもらえなくなる。自分自身の反応と自分が他者から引き出す反応のせいで、私は人とのやりとりに不満を抱くようになるかもしれない。なぜなら、他者が受ける報酬の感覚を私は得られないだろうから。そして孤立した私にとってのそのような喪失感は、その後しっかりと根づき、私の人間関係全体に広がっていくかもしれない。

(p.279)

 

 この本では、「孤独感は人と怒りっぽくさせたりネガティブにさせたりして、対人関係能力も損なわせることで、人をコミュニティから遠ざけるという悪循環をもたらす」ということが何度か強調されている。そして、実際にわたしが孤独であったときのことや周りの孤独な人のことを思い浮かべてみても、この現象はたしかに起こっていたように思える。

 

自己防衛的で他者から孤立する行動をやめるのにはリスクがある。人間が防衛メカニズムにしがみつくのは、短い間だけでもそのメカニズムには効果があるように思えるからだ。しかし、防衛メカニズムによる一時的な「保護」は、長期的には高くつくことが立証されている。

忍耐は、人間関係で大きな喜びが感じられるようになってからも、不要にはならない。たとえ私たちがみな完璧だったとしても、やがて知り合うことになる相手には、必ずその人なりの物の見方がある。「良いときも悪いときも」という典型的な結婚の誓いは、対人関係で永久に摩擦は無くならないと、おおっぴらに宣言しているようなものだ。刺入やおしどり夫婦にも意見の食い違いはあるし、ときには互いを傷つけることもある。こうした現実にもかかわらず成功する秘訣は、摩擦の瞬間を拡大解釈して大げさに受け取らないことだ。

(p.312)

 

 なかなか含蓄のある一節だ。

 

孤独だと批判的になる

 

社会的幸福度の高いカップルは、パートナーを理想化する術を見出し、いわゆる「ポジティブな幻想」を持ち続ける(この架空の要素があるからこそ、恋愛をロマンスと言う。ロマンスとはもともと、空想的な内容を扱った物語のことだ)。十三年間に及ぶ結婚の研究の結果によれば、パートナーを理想化すると、愛情が持続するだけでなく、離婚の確率も低くなるという。パートナーを理想化するというのは、ごまかしや虐待などの深刻な問題に目をつぶることではない。相手の脂肪が増えてきた事実や髪の毛が薄くなってきた事実を気にする代わりに、今も変わらない相手の魅力的な笑顔に注意を向けたり、たとえ言葉のほうが感情をうまく表せるときでも、車に張りついた氷を落として愛情を示してくれる相手のやり方を認めたりすることだ。私たちは、実行制御能力を持った脳のおかげで、何を強調するかに関してかなり融通が利く。しかしそれも、恐れからくる孤独感が原因の、実行制御能力の混乱を防げれば、だが。

(p.314)

 

 ここもなかなか深い一節だと思う。

 

不確かで不安な愛着の持ち方をする人は、安定した愛着の持ち方をする人よりテレビの登場人物と社会的な絆で結ばれているという感覚を持ちやすい。

…(中略)…つながりを求める心は何よりもまず、肉体あってのものであり、肉体を除外すれば、人間のつながりから得られる満足感が損なわれる可能性がある。

物理的にいっしょにいることが不可能なとき、私たちは電話で短い会話をしたり、インスタントメッセージを送ったり、愛する人の写真を見たりという、「社会的間食」と呼ばれてきた習慣によって、自分の切望を満足させようとするが、間食は食事ではない。

…(中略)…インターネットがもっと有形の人間の触れ合いに取って代わったとき、インターネット利用の増加が社会的孤立感とともに鬱病の増加ももたらしうるという調査結果があるが、電子的コミュニケーション特有の抽象化された性質、つまりつながりにおける物理的な背景と形態の欠如を考えると、その結果がある程度説明できるかもしれない。

たしかに、ペットやネット上の友人と、あるいは神とさえつながりを結ぶことは、群居せざるを得ない生き物が抑えきれない欲求を満足させるための、りっぱな試みではある。しかし代用品はけっして本物の不在を完全に埋め合わせることはできない。

(p.333-334)

 

 わたしもゲーム実況はよく見るし一部の実況者のファンであるのであんまり人のことは言えないのだが……アイドルファンや、YouTuberだかVTuberだかに課金をしたがるファンたちによく当てはまる分析だと言えるだろう。

 また、Zoom飲み会が一見すると安上がりで楽しそうに思えるわりに、実際にやってみると本物の飲み会のような満足感は得られない、という事象の説明にもなっていると思う。けっきょくのところ、物理的な要素や身体的な要素は、コミュニケーションや社会的帰属に対する欲求の大きな部分を占めているからだ。

 先日に「男性同士のケア」について論じた記事を書いたとき、「バ美肉であれば、男性同士のケアの不在を埋め合わせることができるかもしれない」という趣旨のコメントがついた。しかし、人間同士の関係性の問題や孤独の問題が、テクノロジーだとか「ネットによって培われる新しいコミュニケーション」だとかで解決されるという言説に対して、わたしは概して懐疑的である。

 

さらに著者は、孤独感に苦しむ人に対する暖かい配慮を終始一貫して見せながら、その苦しみから脱する方法を、多くの事例とともに紹介する。その核心をひと言で言えば、逆説的に聞こえるかもしれないが、「他者に手を差し伸べること」となる。

…(中略)…他者に対する善意に満ちた行為は次々に広がっていくとともに、自分にも恩恵をもたらす。

(訳者あとがき、p.349)

 

 人間にとっての幸福のカギは他人のために尽くすこと、という主張はダグラス・ケンリックの『野蛮な進化心理学』やジョナサン・ハイトの『しあわせ仮説』などの他の心理学の本でも強調されていた。これだけ多くの心理学者がそう主張するのだから、おそらく事実であるのだろう。

 とはいえ、アメリカ社会はキリスト教的な秩序や規範がベースとなっているわりには自己中心的な人が多くて、自己利益を追求してしまうことで逆に不幸になるというジレンマに陥っている人が多いからこそ、アメリカの心理学者たちは同胞への戒めとしてこの主張を口酸っぱく強調したがる、ということも考えられるかもしれない。

 アメリカに比べると日本は、なんだかんだ言って自己中心的な人は未だに少ないように思える。しかし、だからこそ、近年になって「日本人は他人に尽くすことはやめて、自分を大事にするべきだ」みたいな主張が盛んになっているのだ。そして、この主張はフェミニズムと結び付きがちでもある(「女性はこれまでケア役割を強制されてきて〜」云々)。では、その主張が日本の女性たちに幸福をもたらしているかというと……それは他人事なので、わたしにはわからない。

 

…(前略)…若者では、孤独な人と孤独でない人の食習慣にあまり差はなかった。だが中高年では、孤独は、前述のように一日のカロリーのうち脂肪から摂取する割合の高さと相関していた。

孤独な人が健康に良い行動をしなくなるのは、催眠で社会的疎外感を抱かせた人に見られた、実行制御機能の、ひいては自己調節能力の低下が一因になっているのかもしれない。たんにその時点で気持ち良く思えることではなく、自分にとって良いことをするには、規律正しい自己調節が必要となる。ジョギングに行くのは、終えたときには気持ちが良いかもしれないが、ほとんどの人にとっては、そもそもドアから外に出るには意志の力による行動が必要だ。そうした規律に必要な自己制御は孤独感によって低下する。孤独感には自己評価を低下させる傾向もある。他者に無価値だと思われていると感じると、自己破壊的行動をしがちで、自分の体をあまり大事にしなくなる。

そのうえ、孤独な中高年の人は、孤独感についての苦悩と実行機能の衰えが相まって、気持ちを紛らわそうとして喫煙や飲酒や過食、性的行動に走ることがあるようだ。気分を高揚させるには運動のほうがはるかに良いだろうが、規律正しい運動にも実行制御が必要だ。週に三回ジムやヨガ教室に通うのも、体調を保とうとするのを励ましてくれる友人とそこで会って楽しめるなら、ずっと楽になるだろう。

(p.138-139)

 

  ときおりやたらと肥満体型で不健康なオタクがいることの説明になっていると思う。

 また、わたしは仕事を辞めて無職になっていた期間に「自分だけの時間がたっぷりあるんだから、このタスクを達成するぞ」と、とある計画を立てていたのだが、見事に失敗して、ダラダラと過ごしてしまった。飲酒量も無職期間の方が明らかに増えていた。あれも、孤独感により自己制御機能を損なっていたせいであったのだろう。