道徳的動物日記

倫理学、社会科学、時事問題、世相などについて論じます。

女性のための進化心理学?:『ジェンダーの終わり』読書メモ(2)

 

 

 

 先日の記事で書いたように、『ジェンダーの終わり:性とアイデンティティに関する迷信を暴く』ではトランスジェンダーやノンバイナリーに関する話題がメインとなるが、第7章や第8章ではヘテロセクシャルの女性や男性に関する進化心理学的な議論がなされる。6章以前のセンシティブな議論に比べると他愛のない話題になるのだが、個人的には7章以降の方が面白かった。

 

 第7章では「デートとセックスにおいて女性は男性のように行動しなければならない」という、ジェンダー平等的な規範が「迷信」として批判される。

 この章で著者が主張しているのは、「恋愛や性に関するジェンダー平等的な規範は、大半の女性や男性に生来的に備わっている志向や行動傾向を無視した空論であり、デートやセックスにおいてジェンダー平等的な規範を意識し過ぎることは女性自身の意志を抑圧したり女性に不利益をもたらしたりする場合がある」といったものだ。

 たとえば、「最初のデートでは男性は女性に奢るべきだ」という規範は男女平等には反するものであるが、著者はこの規範を支持する。進化心理学の観点からすれば男性とは隙あらば不特定多数の女性とセックスをしたがる存在であり、「複数人の異性と不誠実な関係を結ぶ」ことを企む可能性が女性よりも高いからこそ、女性は目の前の男性が「自分に対して誠実に接してくれるか」ということを見定めなければならない。

 最初のデートで奢ることは「自分がコストを払ってでも、相手との関係を真剣に育みたい」と思っていることを示す行為であり、誠実さや忠実さのディスプレイとなる。逆に言うと、最初のデートですら奢らないような男性は、口ではどれだけ甘いことを言っているとしても、女性側からすれば、自分との関係を真剣に育もうとしてくれることを示す保証がない危うい相手であるのだ。

 同様に、「デートの誘いは女性側からではなく男性側から行うべきだ」という規範も男女平等には反するが、誘うという行為のコストを男性に負わせることで真剣に付き合う気のない男性のいくぶんかを事前に排除できるという点で、女性が時間を無駄にすることを防いだり女性の身を守る効果があったりする。

 著者が懸念しているのは、女性の身を守るのに効果的であった旧来的な規範がジェンダー平等的な規範に取って代わられてしまうことで、若い女性たちがロクでもない男たちに捕まってしまうことである。

 そして、著者によると、極左的なフェミニズムイデオロギーに賛同していたり「自分はアライだ」などと言ってくる男性こそが、女性が最も警戒しなければならない相手である。口先だけはイデオロギーに賛同したり、相手に合わせた主張をすることには、なんの負担もかからない。男性側からすれば、自分はいっさいコストを払わずに特定の女性の気を惹けるという点で、これほどおトクな手段はないのだ。

 同じく著者が懸念しているのが、「これまで女性の性の自由は家父長制によって抑圧されてきたが、女性だって男性と同じよう自由にカジュアルにセックスを愉しむべきだ」といったフェミニズム的な規範を信じた若い女性たちが、カジュアルなセックスに勤しんだり自分からすすんで「ビッチ」になろうとしたりすることだ。

 女性もセックスを愉しめることは事実だとしても、結局のところは、大半の女性には、男性ほどには「不特定多数の異性とのセックスを愉しみたい」という嗜好は備わっていない。そのため、女性が「先進的な人間であるためには、ビッチにならなければ」というプレッシャーから無理してカジュアルなセックスを求め過ぎることは、本人の内心や身体的な欲望に反している可能性が高い。「女性も男性と同じようにカジュアルなセックスを愉しむべきだ」という規範は、結局のところ、男性の側ばかりを利しているおそれがあるのだ*1

 

 また、第7章では、「化粧や美容を重視する文化は、家父長制による女性への抑圧の産物である」というタイプの意見も批判される。

 基本的には、化粧や美容とは、男性が普遍的に「魅力的だ」と思うような外見(赤く艶やかな唇、汚れのない肌、大きい胸と尻に引っ込んだ腹からなるボディラインなど)を女性が獲得するためのものとして発達してきた。そして、現代社会で女性が化粧や美容にかける費用・時間がどんどん増大していて女性の生活に多大な負担をかけているのは、家父長制のせいではなく、他の女性と比べてより魅力的になることを目指す女性たち同士の競争が激化していった結果である。

 とはいえ、著者は、化粧や美容による金銭的・時間的なコストが女性にだけ押し付けられており、女性の精神や身体にも悪影響を与えていることは道徳的には不当である、とも論じている。「女性が化粧や美容に熱心になることは進化心理的に自然なことであるから、間違ったことではない」とまでは主張していないことがポイントだ。

 また、ジェンダー平等的な価値観においては「男性っぽい装いをする」や「髪の毛を不自然な色に染める」タイプの化粧・美容は「旧来のジェンダー規範に逆らっている」ということで肯定されるが、それらが金銭的・時間的なコストという点では旧来の化粧や美容と変わらない場合には、化粧や装いの種類を変えたところで女性に対する負荷は残り続ける、とも指摘されている*2

 

 著者自身が女性だということもあって、進化心理学の知見を事実として肯定したり社会構築主義的なジェンダー論の悪影響を批判したりしながらも、「それらの知見をふまえたうえで、女性たちの利益について配慮するためには、どう考えればいいか」という点に主眼があたっているのがユニークなところだ。

 とはいえ、ジェンダー論やフェミニズムなどの思想にあまり触れたことがなさそうな女性であっても不特定多数とのカジュアルなセックスを純粋に楽しんでいる場合はあるようだし、セルフイメージの演出などの「思想」込みの化粧はたとえ金銭や時間的なコストがかかるとしても女性の自己肯定感を高めるという効果があったりもするようであるらしい。

 もちろん、著者も「進化心理学の知見はあくまで平均的・一般的なものであり、女性にせよ男性にせよ、進化的心理学が明らかにするような男女の傾向に当てはまらない人も存在する」という点を読者に留意させてはいる。

 いずれにせよ、わたし自身は男性ということもあって、若い女性たちに対する著者のアドバイスがどこまで的を得ているかということは、ちょっと判断がつかない。

 

 第8章では「ジェンダーニュートラルな養育は機能する」という主張が迷信であると批判される。子どもの男女差は社会的な刷り込みの結果ではなく生得的なものなので、たとえ男の子にお人形を与えていても男の子は車のおもちゃで遊びたがったり「男らしさ」的な特徴を自然と身につけていくようになったりするし、逆もまた然り、という議論だ。

 ジェンダーニュートラルな養育をしたがる親は、「子どもの性自認は多様でありえるから、生物学的な性別と性自認が同じであると前提した養育を行うと、実はトランスジェンダーである子どもに対する抑圧につながるかもしれない」という主張を真に受け過ぎている、という場合もある(子どもがトランスジェンダーなどである可能性は存在するが、その可能性は本来はごく僅かであるものが、活動家によって大げさに誇張されている、ということだ)。

 しかし、子どものことを心から思っているためというよりも、「自分はいかにジェンダーの多様性について理解があるか」ということを他の人たちにアピールするためにジェンダーニュートラルな養育をする親の方が多いだろう、ということを著者は指摘している。

 そして、ジェンダーニュートラルな養育を支持する言説には、ダブル・スタンダードが内包されている。子どもが自分の性別に典型的な振る舞いをすることは「社会による刷り込みの結果だ」として否定的に見られる一方で、自分とは逆の性別に典型的な振る舞いをすることは「社会に影響されていない、自分の生まれ持った性自認が自然に表出されている」として肯定的に見られるのだ。つまり、社会構築主義と生物学的決定論がご都合主義的に使い分けられているのである。

 

 9章や結論の章では、社会正義運動やポリティカル・コレクトネスが科学や学問の自由などに対して与えている悪影響などについて論じられている。

 9章では『アメリカン・マインドの甘やかし』の著者であるジョナサン・ハイトが登場したりすることもあって、論じられている物事の趣旨はわたしがこのブログや現代ビジネスの記事などで散々紹介してきたのとだいたい同じようなもの*3

 とはいえ、「哲学、英語学、教育学などの学際的な分野の学者」や「ジェンダースタディーズやクィアスタディーズなどの"スタディーズ"系の学者」や「自分のWebサイトのプロフィール欄に"不平等"や"生きた経験 (lived experience)"や "家父長制"などの社会正義的なバズワードを含めている学者」などは、イデオロギーに影響され過ぎているおそれが高くて科学者が共同研究をする相手として適切ではない、と論じている箇所は歯に衣着せぬ感じがなかなか刺激的だ。

 

 

*1:同様の指摘は、ジョセフ・ヒースも『反逆の神話:カウンターカルチャーはいかにして消費文化になったか』のなかで行なっている。

 多くのフェミニストは早くから気づいていた。「自由恋愛」がこの社会における大規模な女性の性的搾取を可能にしてしまったのだ。フェミニストの当初の考えは、男は抑圧する側だから、男女関係を律するルールはすべて男に都合がいいように操作されたはず、ということだった。そんなルールの多くが明らかに女性の防衛のために、女性を男性から守るために作られたという事実は、なぜか見落とされた。社会学者でフェミニストカミール・パーリアは八〇年代に、こうしたやかましい古くからの社会慣習の多くは、実のところレイプの危険性を減らす重要な機能を担っていたのだと指摘して、騒動を巻き起こした。同様に、昔ながらの「できちゃった結婚」ルールは、子供の父親としての責任を男性たちに取らせた。この規範が崩れてきたことも、西洋世界に「貧困の女性化」が広がっていることの主要因である。

実際、もし男性の一団に理想のデートのルールを考えるように頼んだとしたら、たぶん性革命によって出現した「自由恋愛」にそっくりの設定を選ぶことだろう。女性の感性に配慮しなくてよければ男はどういう性生活を送ろうとするのかを調べるには、ゲイ浴場を見学すればいい。しかし、このような可能性は、主としてカウンターカルチャー的分析の支配力のせいで黙殺されていた。女性は抑圧される集団であり、社会規範は迫害のメカニズムであると、カウンターカルチャーは主張した。だから解決策は、すべてのルールを廃止することだ。したがって、女性の自由は、すなわち社会規範からの自由と同一視される。

結局、これは悲惨な同一視だった。そのせいで全く受け入れがたい状態が理想的な解放と称されたばかりか、現実に女性の生活の確かな改善につながりそうな改革の受容を「取り込み」や「裏切り」として斥ける傾向を生み出した。どうしてここまでひどく道を誤ってしまったのだろう?

(p.79-80)

 

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*2:化粧や美容が「家父長制によって女性に押し付けられたもの」であるという主張を否定している点では、キャサリン・ハキムが『エロティック・キャピタル』で論じた主張と近い。しかし、ハキムの主張は女性同士の間で起こる「美の過当競争」を肯定しかねないものであった。その一方で、『ジェンダーの終わり』の著者は化粧が女性にとって負担になる可能性を考慮して「行き過ぎは抑えるべきだ」「女性だけが一方的にルックスを評価される社会が不当であることはたしかだ」といった穏当な主張をしている。わたしとしてはこっちの方が好ましいと思う。

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*3:

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