道徳的動物日記

倫理学、社会科学、時事問題、世相などについて論じます。

読書メモ:『ストイック・チャレンジ:逆境を「最高の喜び」に変える心の技法』

 

 

 著者のアーヴァインは『良き人生について - ローマの哲人に学ぶ生き方の知恵』や『欲望について』の著者*1。『ストイック・チャレンジ』では『良き人生について』と同じくストア哲学がテーマとされているが、ストア哲学の歴史や思想などについての含蓄が多く含まれていた『良き人生について』に比べて、『ストイック・チャレンジ』では「ストア哲学を現代で実践するための方法」に関するテクニックに話題が絞られており、自己啓発書という趣が強い。

 

・「アンカリング効果」としてのネガティブ・ビジュアリゼーション

 

企業は製品やサービスを売るのにアンカリングを使う。衣料品店がシャツを販売するにあたり、店長には価格設定の選択肢がふたつあるとしよう。プランAは1枚32ドルの価格をつける。プランBは1枚40ドルの価格をつけ、20パーセントの割引セールをしばしば行う。どちらの場合も客はシャツを32ドルで買えるものの、プランBには客の潜在意識に定価が40ドルという「錨」を沈められる心理面での利点がある。そのため、セールが行われると客は40ドルのシャツをわずか32ドルで買えるという印象を抱く。この印象のおかげでさらに何枚か買いたいと思い、シャツがさらに売れる。それに加えて少量ながら定価の40ドルで買う人もいるので、プランBの方がプランAよりも儲かることになる。

 

古代のストア哲学者たちは、こうした心理学者や企業よりもさらに進んでいた。彼らはシャツを売るためではなく、より満ち足りた人生を送るためにアンカリングを使った。たとえば、定期的に、人生が今よりもつらいものになる場合を想像するようにした。最悪の事態を想像し、潜在意識に錨を沈めれば(このような心理学の用語を使っていたわけではないが)、みじめになるだけのように思うかもしれないが、じつはその反対のことが起こった。錨があることによって、現状をどうとらえるかが変わる。現状をしばしば夢に見る最高の状況と比較するのではなく、より悪い状況と比較すれば、現状もそれほど悪くないと思えるようになった。

これは現代では「ネガティブ・ビジュアリゼーション」と呼ばれる、ストア哲学のツールのうちの、もっともすぐれた心理学的手法だ。とはいえ、状況が悪くなることをつねに考える必要はない。それでは本当にみじめになってしまう。人生や境遇が今よりも悪いものになりうることを、一瞬のあいだ定期的に考えるだけでいい。

(p.95 - 96)

 

・「フレーミング効果」

 

ストア哲学者は、フレーミングの力を十分に理解していた。とはいえ、フレーミングという言葉を使っていたわけではない。エピクテトスは言った。「あなたが望まないかぎり、他者があなたを傷つけることはない。あなたが傷つくのは、傷ついたと認識したときだけだ」こうも述べている。「心を乱すのは出来事ではなく、出来事に対する評価である」セネカも同じように考えていた「不正はいかに行われたかではなく、いかにとらえられたかが重要である」マルクス・アウレリウスも同様のことを言っている。「あなたがなにかの外的な原因で悲しんでいるなら、その痛みは原因自体ではなく、それに対するあなたの評価のせいだ。その評価はあなたの力ですぐに取り消すことができる」つまり、潜在意識はマイナスの感情を呼び起こすような枠組み(フレーム)で出来事を意味づけようとするが、そうした傾向は枠組みを意識的に変えれば弱められることをストア哲学者は知っていたのだ。

(p.104)

 

・「回復力」の重要性、「怒り」のデメリット

 

本書を読んでいるあなたは、おそらく予見できる逆境を防ぐために時間もエネルギーも割いていることだろう。だが、そうしたことが起こった時に受ける感情的な影響を最小化するテクニックを身につけるために、時間やエネルギーを割いているだろうか。逆境のコストを足し合わせてみると、なによりも大きなコストは、逆境によって生じる不安や苦痛だとわかる。だとすれば、感情への影響を減らす方法を身につけるべきだろう。

(p.31)

 

怒りを感じたときには、ふたつの選択肢がある。怒りを表すか、抑えるかだ。怒りを抑えれば、その怒りは心の奥深くに押し込まれて休眠するが、あとからよみがえってくる。逆境に対して覚えた怒りが、1年後にまたふつふつと湧きあがってくるかもしれない。こうした怒りのフラッシュバックは何十年も続く可能性がある。

(……中略……)

怒りを表せばどうなるどうか。法を犯した場合は、投獄されるかもしれない。社会に容認される方法であっても、怒りを表せばマイナスの影響を受ける。怒りを向けた相手が傷ついたとしても、傷つかなかったとしても。

(……中略……)

それでは、自分が不当に扱われたと感じたらどうすればよいのだろうか。まずは怒りの感情を避けるべきだ、とセネカは言う。そうすれば、怒りに対処したり、怒りを表したり、抑えたりする必要もなくなる。

 (p.41-43)

 

 

 さて、先日に書いたジョーダン・ピーターソンの『生き抜くための12のルール』についての書評記事でも論じたように、自己啓発は左派のエートスとは相反するところがある*2

 そして、「怒り」を抑えることを説くストア哲学も、本質的にはかなり反左派的だ。不当な状況や不正な状況についても、怒りを表に示して抗議することよりも、受け取る側の認識を変えて「やり過ごす」ことが推奨されてしまうからである。

『ストイック・チャレンジ』のなかでも、最近のアメリカは自分のことを「犠牲者」と位置付ける人ばっかりになってしまい、そのために人々は逆境に立ち向かう力を失っており、不平不満ばかりを言って自他ともに対して非生産的な影響を生じさせている、ということが述べられている。その代わりに、キング牧師やガンディーなどは自分のことを犠牲者とはみなさずに積極的で前向きなかたちで社会運動をリードしたからこそ変革をもたらすことができたのでエラい、という風に賞賛される。

 同様の議論はジョナサン・ハイトも『アメリカン・マインドの甘やかし』で行なっていた。そして、ハイトの『しあわせ仮説』は『ストイック・チャレンジ』と同じく、古代哲学の知見を現代心理学の知識で説明していることが特徴な自己啓発書だ。ハイトの場合はストア哲学というよりもアリストテレス哲学がメインとなるが、いずれにせよ、「徳」を重要視する哲学であることは間違いない。

 個人が権利を主張して自分の正当性を訴えることは近代以降の民主主義には欠かせないわけではあるが、古代的な徳の観点から言えばそれは本人の幸福に必ずしも益するわけではない、ということだ。マッキンタイアの『美徳なき時代』の頃から言われてきたことではあるだろうが、なかなか考えさせられるものがある。

 

 また、アリストテレス的な中庸の「徳」によると、たとえば「友人や家族とはほどほどに付き合った方がいい」とか「お金はほどほどにあるのが一番だ」ということになる。これは「どんな状態が幸福であるか」ということの記述的な議論としてはおそらく間違っていない。ただし、問題なのは、多くの人にとって人間関係や所得を「ほどほど」の域にまで到達させることは困難であり、場合によっては無理であるということだ。「こういう状態は幸福である」ということと、「その状態にたどり着くためにどうすればいいか」ということは、別々に論じられる必要がある。

 アリストテレス哲学に比べると、ストア哲学は記述的である以上に実践的だ。人間関係や金銭などに問題を抱えている人であっても、その人が「回復力」を鍛えたり物事を認識する「枠組み」を変えたりすることで、幸福でない状態にいることの悪影響を減じることができる。ただし、その実践の仕方はかなり自閉的であり、反社会的ですらある点は、留意するべきだろう。世界中の人のすべてがストア哲学を実践してしまうと、世の中はだいぶ味気のないものになるだろうし、また不正義が放置され続けることにもなるはずだ。