道徳的動物日記

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「人生の意味」の進化心理学

 

 

 

 

 ダグラス・ケンリックの『野蛮な進化心理学:殺人とセックスが解き明かす人間行動の謎』の白眉は、やはり、第七章の「マズローと新しいピラミッド」だろう。

 この本について紹介している他のブログの記事やTogetterまとめでも、この章がメインとして扱われている*1

 画像もいろいろとネットに転がっているので、貼り付けてしまおう。上が「マズローのピラミッド」で、下が「ケンリックのピラミッド」だ。

 

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 なお、「ケンリックのピラミッド」は「生活史理論」によって補強されるものである、ということには言及しておくべきだろう。

 生活史理論は、「どんな動物の生涯も二つないし三つの段階に分けられ、それぞれで投資におけるトレードオフが異なる」 (p.237)という発想に基づく。人間の場合は「身体的努力」期、「繁殖努力」期、「子育て努力」期に分けられる。そして、ピラミッドのうちのどの動機がどれだけ強力になるかは、自分がいまどんなライフステージに立っているかということによっても変わってくるのだ。

 

 ケンリックによるマズローに対する批判のなかでも興味深いのが、以下のようなものである。

 

これから数章にわたって論じることになるが、交配という同期は、人間の性質に見られる多くのポジティブな要素ーー音楽や詩をつくったり、慈善活動に参加したり、次の世代のために世界をよくすることーーの背後にある究極の原動力だ。発達心理学者たちは、人間は年をとるにつれて他人の幸福に関心を移すようになると指摘している。してみれば、個人的な喜びの追求としばしば同義になるマズロー自己実現という概念は、もっと高いところにある動機、すなわち、他人の面倒を見ることへの過程にある、自己中心的な段階にすぎないと言えるだろう。

こうして新しく建てなおされた動機のピラミッドは、どん底にある泥だらけのレンガと、星に近い上部のきれいなレンガが、構造的につながっていることを明らかにしてくれる。それによって私たちは、セックスと自己実現という、まったく違うトピックのあいだに強力な関係性を見いだせるのだ。そのピラミッドはまた、人生がもつ高邁な意味を示唆し、目先の欲望から社会における相互関係の重視という高みへと私たちを導くものでもある。

(p.160 -161)

 

環境を軽視するというマズローの傾向は、人間主義運動に見られたある偏見に関係している(ちなみに、その運動にはマズローの著作も大いに影響を与えた)。人間主義を標榜する心理学者たちは、時として、どう見てもひとりよがりとしか思えないほど個人的な現象を重視するーー世界の見え方がお気に召さないなら、考え方を変えればいい。つまり、何事も自分次第というわけだ。自身の心を見つめ、独自の考えにふけり、自分の好きなことをするのは、ある基準においてはけっこうなことだ。だが突き詰めて言えば、人間はそのようにできてはいない。私たちはそこまで自己中心的じゃないのだ。また、周囲の人々と一線を画していると思っている場合でも、それは別に高次の存在になっているのではない。大人になっても他者の要求に気を配れない人は、実は自己実現ができているのではなく、病的な状態であるだけかもしれないのだ。

(p.163)

 

 ここでケンリックが直接の批判としているのは、マズローと、それに影響された自己啓発の理論であるだろう。

 また、配偶者や子ども、社会的地位・社会的承認が人間の幸福にとって重要であるとするケンリックの主張は、ポジティブ心理学における諸々の研究にも連なるところがある。ケンリックの主張はセックスや配偶者の獲得と維持に関する欲求が人間の行動や思考に与える影響をやや強く捉え過ぎている感があり、その点ではなんでもかんでもを性淘汰で説明しようとしてしまうジェフリー・ミラーを思わせるところがあるが、ミラーに比べるとケンリックの方がまだバランスが取れてはいる。

 さらに、ケンリックはマズローのピラミッドのことを「保存に値するもの」と評価しており、それを打ち壊すのではなくあくまで「改築」をしている、という点は重要だ。低次なものにせよ高次なものにせよ「欲求」は人間の幸福や生き方を左右するほどに強い影響を与えるものである、という考え方をしているという点ではケンリックもマズローも軌を一にしているのである。

 

 ポジティブ心理学とは進化心理学だけでなく古代ギリシアの徳倫理や仏教などの思想をも参照する総合的な学問でもある。

 たとえば仏教やストア派などでは欲求を断ち切ったりすることや欲求が人生に影響を与えないようにコントロールしたりすることが重視される。欲求とはせいぜいが生物学的なインセンティブ・システムを維持するための「必要悪」であり、それに振り回されずにエウダイモニアを追求して良き人生を過ごすことが、幸福の秘訣であるとされるのだ。

 一方で、ケンリックのようなタイプの進化心理学者にかかると、人間の行うほとんどすべての行動や思考までもが「欲求」に還元して説明されてしまう。そのために、原理的に、人生において欲求をコントロールすることは不可能になるはずだ。「食欲や性欲などの低次の欲求をコントロールしようとすることは、高次の欲求を達成しようとしているための手段に過ぎないのであるから、欲求に動かされているという点では変わりはない」という風に説明できてしまうからである。

 特にストア派の哲学では、「地位」や「他人」に対する欲求や執着を捨てて自己の心の平穏を保つことに専念するべきであると説かれて、その方法も伝授される。つまり、ストア派の哲学はマズローと同じく「自己実現」をゴールとしているが、マズローのピラミッドの中間にある「愛と所属」はむしろ遠ざけるべきものだとしているのだ。もちろん、ケンリックのピラミッドとストア派の理想も一致しない。一方で、たとえば中庸や諸価値のバランス取りを重視するアリストテレス的なエウダイモニアの発想なら、ケンリックのピラミッドとも相反しないかもしれない。

 

 下記の「深い合理性」に関するケンリックの議論には、一定の説得力を感じられる一方で、「理屈と軟膏はどこへでもつく」という感じもある。

 どうにも、「合理性」という概念には、広くなったり深くなったりするほどに空虚で無意味な概念へと近付いていく、という特徴があるように思われる。

 

深い合理性という観点から見ると、意思決定にはたしかに心理的バイアスが反映されてはいても、そうしたバイアスは決して気まぐれなものでも、不合理なものでもない。それどころか、その心理的バイアスとは、目先の個人的な満足ではなく、遺伝子の長期的な成功を最大化させることを目指す、心的および情緒的メカニズムの産物であるのだ。また、私たちの考えの中心にはモジュール性の概念が据えられている。つまりこの理論では、単一の合理的な意思決定者が効用の最大化というルールに基づいて機能しているわけではなく、私たちの頭の中には問題を経済的に取り扱う多くの下位自己があると仮定しているのだ。各々の下位自己は、人生において出会う代表的な脅威や好機に対応するべく、様々なコストや利益に注意を払い、それらに対しそれぞれ違う価値づけをしている。

(p. 233 -234)

 

 ところで、「ケンリックのピラミッド」と並ぶこの本の見所は、「人生の意味」という問題について進化心理学の観点から取り組んでいるところだろう。

  本書の「はじめに」では、以下のように問題が提起されている。

 

実のところ本書は、私たちが抱く一番大きな問題、つまり人生の意味とは何かという疑問について論じたものだ。この疑問を言い換えると、人生や宇宙や世の中のあらゆるものがどんなふうに関連しあっているのかという話になることもある。この大問題については、進化、認知、複雑性に関する現代の科学的な洞察をいくつか組み合わせることで、実際に答えが出はじめているようだ。でも、それだけでは不十分かもしれない。というのも多くの場合に私たちが知りたいのは、「いったいどうしたら、自分がもっと意義深い人生を送れるのか?」ということだからだ。これまた先に劣らず重要な問題で、だからこそ実に多くの人たちが自己啓発本を読んだり、宗教団体に参加したり、瞑想の仕方を習ったり、精神分析に通ったりするんだろう。

(p.10)

 

「いったいどうしたら、自分がもっと意義深い人生を送れるのか?」という問題に関する回答は、本書の「おわりに」にて提示されている。それは、シンプルではあるがやや曖昧なものでもある。

 ケンリックは、この問いにどう答えるべきかと悩みながら息子の世話を焼いている最中に、「たとえ自分の人生に何が起ころうとも、子供たちの要求は常にほかのどんな要求にも優先するのだ」(p.283)ということに気が付くのだ。

 

快楽を求めて行ったその他多くの行為と違って、息子たちのために費やした時間について、私はこれっぽっちも後悔したり失望したことはない。息子たちの要求に応えることが幸せな陶酔感をもたらしたわけではないが、本当に満たされた気持ちに間違いなくしてくれる人生で唯一のことではあった。進化や行動に関する知見から考えれば、別に驚く必要はない。結局、人間は我を忘れるような喜びを朝から晩まで求めるようにではなく、他の人間を支える網の目に組み込まれるようにできているのだ。実際、進化生物学には血族選択と互恵的利他行動という二つの根本原理がある(前者はなぜ私たちが家族の面倒を見たがるかを説明したもので、後者はなぜ人が友人や同僚のために苦労したがるかを解明したもの)。それ以外にも性淘汰と親の差別的投資という重要な原理があり、通常は誇示行動とセックスに関係すると考えられているが、それらでさえ人間の男女双方にとって、親になる資格を獲得するプロセスと密接に結びついている。

私はなにも、みんなどんどん繁殖すべきだとか、人口過剰問題なんか無視すればいいとか、フェイスブックでさっさと「友達」を五〇〇人つくれと言っているわけではない。むしろ私が言いたいのは、すでに仲良くなった仲間たちの世話をやくという自然な喜びを楽しみなさいということだ。家族や友人と過ごす時間は、人生の中心的業務から気をそらしてしまうものと考えることもできる。でももっとゆったりと構えて、あなたの脳が持つ社会的メカニズムに、そのような体験を満喫させる機会だと考えることだってできるのだ。

(p.283 - 284)

 

 要するに、「ケンリックのピラミッド」の頂上部に近い動機や欲求を満たせば満たすほど、人生の意味は感じられやすくなる、ということである。

 なお、「人生の意味」とはややずれるかもしれないが、ポジティブん心理学の本を開いてみると、子どもがいることが「幸福」につながるかどうかは五分五分である、といった調査結果が示されていることが多い(その一方で、配偶者がいることはかなり多くの場合に幸福につながる、とされている)。

 とはいえ、物事について「浅い合理性」で考えてしまうと、「子どもを作ろうとしても、その子が不幸に育ったり親に逆らったりいじめの加害者や被害者になったり身体障害を負って生まれてきたり精神障害になったりするかもしれない」などなどのリスクばかりに注目してしまうことになりがちだ。また、「浅い合理性」に基づいた思考では短期的で即物的な快楽ばかりを重視してしまうがために長期的で持続的な生き甲斐というものについて考えることができないので、「独り身だと時間があって責任はなくて好きなことができて充分楽しいのに、なんでわざわざ結婚をしたり子どもをつくったりして自分の自由や快楽を制限しなくてはならないのか?」という風に考えてしまいがちである。

 ……しかし、ケンリックの議論はシンプルながらも説得力があり、結婚したり子どもを持ったりすることの意義を現時点で理解できない人に対する、程よい啓発や警告になっているように思える。実際、わたしが『野蛮な進化心理学』をはじめて読んだときには、「いまのままのキャリアじゃ家庭を持てるという見込みはないし、現時点だとそれで問題ないように感じられているけど、のちのちに後悔してしまう可能性があるな」という危機感を抱くことができたものだ。

 さらに、たとえば反出生主義が理論としては筋が通っても多くの人から説得力を感じられず実践もされない理由の一部も、「ケンリックのピラミッド」によって説明することができるかもしれない。

 

 さて、哲学的には、「人生の意味」に対するケンリックの回答は不充分なものである。その回答は、あくまで「意義深い人生を送れている、と自分が感じられるようなるためにはどうすればいいか?」という問いにしか答えられておらず、「自分が意義深い人生を送るためにはどうすればいいか?」という問いそのものには答えられていないからだ。

 とはいえ、人生の意味という問いに対して本気で回答しようとするなら、「意味」とはなにかということについての厄介で錯綜した哲学的議論に向き合わなければならない。そこまでくると、そもそも進化心理学者には役者不足な問題となって、哲学者の出番ということになるだろう。

 ……といいつも、たとえば『幸福と人生の意味の哲学』『若者のための〈死〉の倫理学 』など、「人生の意味」について哲学的な観点から本気で取り組もうとした議論を読んでみたところで、問題意識を深刻にし過ぎたために逆に「深さ」や「感動」を安直に求めた議論になっている感が強く、すくなくともわたしは白けてしまい参考にもならなかった。

 ジョシュア・グリーンは『モラル・トライブズ:共存の道徳哲学へ』のなかで功利主義を擁護しながらも、道徳に関する普遍的な真理が存在するという主張を展開することは避けて、あくまで「実用主義」の観点から功利主義の利点を強調していた*2。同様に、「人生の意味」という問題に関しても、哲学的な真理を求めようとしたがために袋小路に入った不毛な議論を行うよりかは、実用主義的に考えた方がよさそうだ。

 

 ジョナサン・ハイトの『しあわせ仮説:古代の知恵と現代科学の知恵』では、 ケンリックやマズローと同じく、「人生の意味」についての心理学的な観点からの回答が試みられている。

 ハイトはケンリックに比べて哲学的な議論についての造詣も深いだけに、問題の設定や定義に関して慎重で丁寧だ。

 また、ハイトの議論はケンリックの議論に比べて幅広い要素に目配りされたものであり、結論もやや複雑なものとなっているが、そのぶん説得力が増したものとなっている*3

 

 

青年期における実存主義において、私はその二つの二次的質問をごちゃまぜにしていた。人生目的という問いに対して科学的な答えを採用したことで、人生における目的を見つけることは除外されたと考えた。多くの宗教がその二つの問いは分離できないものであると説いているため、犯しやすい誤りであった。もし、神が「神の」計画の一部としてあなたを創造したと信じるなら、自分の役割を適切に全うするためにいかに生きるべきかを見つけ出すことができるだろう。『人生を導く5つの目的』は、人生目的という問いに対する神学的な答えの中から、いかに人生における目的を見つけるかを読者に教えてくれる40日のコースである。

しかしながら、それら二つの問いは分割できる。一つ目は人生についての外側からの問いである。人、地球、星などを、「なぜそれらは存在しているのか」という問いの対象と見なし、神学者、物理学者、生物学者によって適切に探求される。二つ目の問いは、人生についての内側からの問いである。主体としての「いかにして意味や目的の感覚を見出すことができるのか?」という問いであり、神学者、哲学者、心理学者によって適切に探求される。二つ目の問いは実に経験的、つまり科学的な手段によって研究されうる事実としての問いである。だがなぜ活力、献身、意味に満ちた人生を送る人がいる一方、人生が空虚で定まらないものであると感じる人がいるのだろうか?この章の残りの部分では、人生目的は無視して、人生における目的の感覚を生じさせる要因を探し求めていく。

(p. 314 -315)

 

豊かで、幸せで、満たされていて、そして意味のある人生を送るために、何ができるのだろうか?人生における目的という問いに対する答えは何だろう?私たちがこうして分割されているように、多種多様に分割された私たちという生物種について理解することによってのみ、その答えは見出すことができるのではなかろうか。私たちは、個人淘汰によって、資源や快楽や名声のために闘う利己的な生物へと形成された。また群淘汰によって、より大きな何かに自己を犠牲にすることを望む群生物として形成された。私たちは、愛や愛着を必要とする社会的な生物であり、仕事でバイタル・エンゲージメント状態に入ることが可能な効力感を必要とする産業的な生物である。私たちは、象使いであると同時に象でもあり、精神的健康はその二者が一緒に機能して、互いに他方の強みを活用することに依存している。私は、「人生目的とは何か?」という問いに対してなるほどという答えがあるとは思わない。しかし古代の知恵と現代科学を利用して、人生における目的という問いに対する説得力のある答えを見出すことはできる。幸福仮説の最終バージョンは、幸福はあいだから訪れるというものである。幸福はあなたが直接的に見つけたり、獲得したり、達成したりできるものではない。正しい条件を整えた上で、待たなければならない。性格の階層やその要素間のコヒーレンスのように、あなたの中の条件もある。他の条件はあなたを超越した物事との関係性が必要となる。ちょうど植物が成長するために日光、水、良い土壌を必要とするように、人には愛と仕事と自分より大きな何かとのつながりが必要だ。あなたと他者、あなたと仕事、そしてあなたとそれよりも大きな何かとのあいだに正しい関係性を築くように努力することには価値がある。もしこれらの正しい関係を得られれば、人生の目的と意味の感覚はおのずと湧いてくるだろう。

(p. 341  - 342)

 

 これまでにわたしが読んできた、「人生の意味」という問題に関して書かれた文章のなかでは、ハイトが『しあわせ仮説』で行なった上記の議論が、もっとも優れたものであるように思われる。

"「人生目的とは何か?」という問いに対してなるほどという答えがあるとは思わない。"と言い切ってしまっている点にも、深く同意できるところだ。

 

*1:

goldhead.hatenablog.com

togetter.com

*2:

s-scrap.com

*3:群淘汰を肯定していることには賛否両論があるだろうが。