道徳的動物日記

倫理学、社会科学、時事問題、世相などについて論じます。

男性と女性は対立していない

 

 

 昨日からロイ・バウマイスターの『Is There Anything Good About Men? :How Cultures Flourish by Exploiting Men(男にいいところはあるのか?:文化はいかに男性を搾取して繁栄するか)』を読みはじめた。

 

 まだ読んでいる途中なので詳しくは紹介できないが、この本は、ジェンダーの問題について進化心理学や文化進化論的な考え方から論じたものである。男性と女性との間にはリスク追求的-リスク回避的であったりシステム思考的-共感的であったりなどの志向や傾向の違いが生得的に存在することを前提としたうえで、両性のそれぞれの特徴を効率的に“利用(Exploit) ”する仕組みを発達させた文化が他の文化との競争に勝ち残ってきたことで、現行の社会制度ができあがってきた、というような議論をバウマイスターは行なっているのだ。

 この議論の詳しい内容についてはまた後日に紹介することにして、今回は、この本の第一章で展開されている、ジェンダーの問題に関して論じられるとき採用されがちな「男性と女性は対立している」という枠組みに対する批判を紹介しよう。

 

 ジェンダーに関する議論は、男性と女性のどちらかが「加害者」でありどちらかが「被害者」である、という風に展開されがちだ。

 従来のフェミニズムの理論では、男女の賃金格差や政治におけるジェンダーギャップは、社会は「家父長制」によって成り立っているために男性が厚遇されて女性が冷遇されていることが原因で生じる、と説明されてきた。

「家父長制_論においては、男性たちは結託して陰謀をはたらいて女性を排除することで利益や権力を独占している、とみなされる。そして、女性は男性によって抑圧されている存在なのであるから、男性が不当に占めている利益や権力を奪い返すべきである、と論じられるのだ。

 フェミニズムが「女性」という集団と「男性」という集団との対立を強調してきたことは、副作用として、「いいや、実際には女性の方が男性を搾取しているのであり、男性の方が犠牲者なのだ」という主張を一部の男性に行わせることになった。

 二つの性別は対立しているという考え方をいちど採用してしまうと、「自分の側の方が被害者である」というかたちでしか自分たちの利益や権利を主張することはできなくなる、ということだ。

 現在の日本のインターネットにおいては、男性の「被害者性」を主張するタイプの論客が複数存在しており、彼らはnoteなどを利用してけっこうな小銭を稼げているようである。

 

 バウマイスターの議論では、「男性」と「女性」のほかに「文化」とう第三者を加えて論じることで、男女の対立という枠組みが回避されている。

 むしろ、男性も女性も、それぞれの特徴を文化によって利用されているという点では同じであるのだ。

 ただし、その「利用のされ方」は同じではない。男性は女性よりもリスク追求的で競争的であるために、危険ではあるが給与の高い仕事を選びやすい。政治家になろうとする人には女性よりも男性の方が多いのも同様の理由に基づく。権力をめぐる競争は、勝ち残りさえすれば多くの利益が得られるが、負けてしまうと何も得られない。リスク回避的な人々は、そのようなリスキーな世界には飛び込みたがらない、ということだ。

 そして、政治システムや資本主義市場などの文化は、男性のリスク追求志向を利用することで発展してきた。

 

 だが、男性の方がリスク追求的な傾向があるということは、「勝者」と同時にそれ以上の数の「敗者」も生み出されている、ということでもある。

 

 フェミニズムとは、「女性の目」から世界を見つめなおす考え方でもある。

 そして、ビジネスや政治の世界でトップに立っている男性たちのことは女性の目に映るかもしれないが、労働災害や戦争で死んだり警察に捕まって投獄されたりしている男性のことは、彼女たちの眼には映らない*1。つまり、「下」には目を向けないで、「上」ばかりを見上げているということだ。そのために、「女性の目」だけで世界を見ていれば、「家父長制」は実在するように感じられてしまうのである。

 この問題は、たとえばジョナサン・ハイトが感情的な被害者意識の問題として指摘していたり、ジョセフ・ヒースが「じぶん学」の問題と指摘していたりすることと、同様のものであるだろう。

 結局のところ、「当事者」としての意識や立場というものは、問題について冷静で客観的に考えて事実についての理解を得られることに寄与するとは限らない(むしろ、逆効果を与えることの方が多い)。

 バウマイスターは、社会科学において「抑圧」や「偏見」といった事柄に関する主張がなされるときには、他の事柄に関する主張でなされているような「他の仮説を検証する」という過程が省かれがちであることも指摘している。

 ついでに書いておくと、最近になって流行しているらしい「分析フェミニズム哲学」も、「女性の目」という主観性を哲学の世界に持ち込んでいるということに、ほかのフェミニズム理論と同じような問題があるように思われる*2

 そして、「女性の目」には男性の有利性や男性が握っている権力しか映らないために、男性が自分たちの苦難や不利益を訴えても、耳が傾けられない。

 だからこそ、フェミニズムに対する反動として、「男性の権利」論や「弱者男性論」が発達することになったわけである。

 

 だが、実際のところ、異性に対して対立的な態度をとろうとする人はごく一部に過ぎない。大半の男性は女性のことを理解したり女性と適切な関係を築いたりすればどうすればいいかということを気にかけているものであるし、男性の苦難や不利益に共感を示す女性だって多くいるのだ。

 このブログではフェミニズムに対して批判的な記事をよく書いているが、「弱者男性論」に対して批判的な記事もいくつか書いてきた*3。特に日本のインターネットにおける「弱者男性論」をわたしが嫌っている主たる理由は、それが大半のフェミニズム理論以上に針小棒大的であったり事実に基づいていなかったりしていて、さらには弱者男性論者たちはそのことに自分で気が付いておきながら小銭稼ぎのために男女間の対立を煽る記事を量産し続けているフシがある、ということだ。このような行為は道徳的に不当であるだけでなく、そこでなされている議論はつまらなくて知的好奇心をそそらない。おもしろい議論やためになる議論というものには、事実を志向することや書き手自身が誠実であろうとすることが必要とされるものなのだ。

 バウマイスターのように進化心理学の視点からフェミニズムジェンダー論を捉えなおしたり批判したりするアカデミックな論客は他にも多く存在するが、たとえば「男性女性と同様に不利益を被っている」という主張をする人や「男性は女性とは別のかたちで不利益を被っている」と主張する人は多くいても、「男性の方が女性と同様に不利益を被っている」とまで主張する人はほとんどいないようだ。まじめに考えれば、そういう結論にたどり着くということだろう。

 

*1:バウマイスターは、同じ罪状でも男性の方が有罪になりやすかったり刑が重くなりやすかったりしやすい、ということを指摘している。

*2:

gendai.ismedia.jp

「分析フェミニズム哲学」のなかでも有名なケイト・マンの議論を紹介している記事。

*3:

davitrice.hatenadiary.jp

davitrice.hatenadiary.jp

davitrice.hatenadiary.jp