先日に友人とやったラジオで「性的モノ化」に関することを口にしたけれど、自分で言っていてこの言葉についてきちんと理解していないことに気が付いたので、ちょっと調べてメモをまとめることにした。
まず、江口先生の現代ビジネスの記事。
女性を「性的対象物」として描くこと、あるいは「性的モノ化」「性的客体化」などと訳されている言葉と概念は、フェミニズム思想の最重要キーワードの一つだ。
この言葉は英語では”sexual objectification” であり、男性が支配的な社会においては、女性たちが性的な「オブジェクト」、すなわち単なる物体(モノ)として扱われているということを指す。現代社会においては、男性は「能動的な主体」であるのに対し、女性は「受動的(受け身)な客体」であり、眺められ触れられるモノとされている、という発想である。
この「性的モノ化」という概念は、性表現や性暴力の問題を論じる文脈で頻繁に使われてきたものの、そのままではぼんやりした概念である。
2016年に京都賞を受賞した哲学者のマーサ・ヌスバウム氏の代表的な業績の一つに、この「性的モノ化」という概念を分析した論文がある。彼女によれば、「性的モノ化」という概念は、実は複数の要素を複合したものだ。
複数の要素の内訳は、下記のようになっているらしい。
(1)他人を道具・手段として使用する
-これは(2)〜(9)の大前提となっている。また、ここでいう「手段として使用する」の意味合いは、カントの定言命法に基づいている(はず)。
(2) 自己決定を尊重しない
(3) 主体性・能動性を認めず常に受け身の存在とみなす
(4)他と置き換え可能なものとみる
(5)壊したり侵入したりしてもよいものとみなす
(6)誰かの「所有物」であり売買可能なものであると考える
(7)当人の感情などを尊重しない
(8)女性をその身体やルックスに還元してしまう
(9)胸や腰や脚などの特に性的な部分やパーツに分けて、その部分を鑑賞する
友人との会話のなかではわたしは「村上春樹の作品では女性がモノ扱いされている」と語ったのだが、そこで言おうとしていたことは、(1)と(2)と(4)と(8)と(9)が混ざりあったものだ。
たとえば、春樹の作品では女性の登場人物について主人公が「女とはこういうものだ」とか「こういうタイプの女なのだからこうなのだ」とカテゴリにくくって判断することが多い。これは(2)と(4)に関連しているように思える。また、女性の人物のルックスや身体的特徴、あるいは話し方や表情や仕草などが、その人物の人格やアイデンティティと結び付けられて表現されることは、やはり多いような気がするので、(8)と(9)もある。
そして重要なのは、春樹の作品では、男性の登場人物は基本的にこのように扱われたり表現されたりすることがないということだ。春樹は、男性キャラクターはそれぞれの人格を持った個別の存在として描いている。それに比べて、女性キャラクターの描き方はカテゴリやステレオタイプを前提としたものになっている。つまり根本的には、女性を理性的な存在と見なしたうえでその人格を目的として尊重することを、春樹はおこなっていないのだ。だから(1)も当てはまる。
カテゴリに収めて判断したりステレオタイプに基づいて判断したりすることもある種の「モノ化(客体化)」である、とわたしは思う。すくなくとも、相手に対して「女だからこうなんだ」と判断することが相手の理性的人格を尊重した行為であるとは思えない(……とはいえ、だいたいの場合においてステレオタイプは事実をおおむね正確に反映している、と議論することも可能であったりするのだが)。
ラジオでわたしは「男性はみんな多かれ少なかれ女性をモノ扱いしている」と主張したうえで、男性による女性に対する性的モノ化やその「嫌さ」を見事に表現しているところが『女のいない男たち』の優れた点である、と語った。
とはいえ、友人からも指摘があったように、「じゃあ男性はほかの男性のことはモノ扱いしてないのか」ということにもなるし、「女性は男性のことをモノ扱いしていないのか」ということにもなるだろう。
たしかに、「性的モノ化」の解釈を拡大すればみんながみんなをモノ扱いしていると言うことができるだろうが、そうするとモノ化の何が悪いのかわからなくなる。
モノ化は程度の問題であり、そして男性からの女性に対するモノ化は程度がひどいので悪い、ということもできるかもしれないが、そうするとなにか重要なものを掴みそこねる気もする。男性→女性のモノ化は、男性→男性や女性→男性に比べてなにか異質さがあるような気もするからだ。
功利主義者のジョシュア・グリーンは、「権利」や「尊厳」を強調するカント的な義務論の発想は直感(システム1の思考)に沿ったものではあるものの、そもそも直感が正しいとは限らず、道徳的な問題については論理(システム2の思考)に基づいて考えるべきであり、カント的な義務論の発想は放棄するべきだ、と論じていた。それはその通りだと思うのだが、とはいえ、直感というものはやはり強力だ。文学作品について解釈したり日々の人間付き合いをやっていくうえでは、無視できないものであるとも思う。
また、江口先生の論文「性的モノ化と性の倫理学」も読んでみたので、気に入った箇所を長めに引用する。
不特定多数との行きずりのセックス(casual sex)はしばしば「道徳的」に非難される。多くの男性が、密かに不特定多数とのセックスを望んでおり、また不特定多数との行きずりのセックスはゲイ社会でもよく見られるとされる。売買春や行きずりのセックスにおいては、相手を十分に知らないままにセックスが行なわれるわけだが、仮に双方(あるいはグループ)に完全な同意があったとしても、それが不正であるとされるのはなぜかをヌスバウムは十分に説明できるだろうか。実際に、上の論考のなかでヌスバウムが最も困惑しているように見えるのが、ゲイ社会での乱交的性的関係である。
しばしば、ゲイやレズビアンは平等でデモクラティックな関係であると主張されてきた。 ヌスバウムが題材として選んだホリングハーストの小説 The Swiming-Pool Library では、ゲイたちはシャワールームでの乱交的カジュアルセックスのなかで、相手を互いにモノ化し単なる多様な快楽の手段としてしまう。ここに道徳的問題があるだろうか?ヌスバウムは、控え目ではあるが、そのような関係の道徳性を問題にしている。
ヌスバウムにとって、背景的な歴史をもたないかりそめの一時的な性関係は、道徳的に問題があるように見える。それはその人物との間の継続的な関係から切り離され、単なる一時的な欲望を満たすための道具にしてしまうからである。
というのは、相手との物語的歴史がないとしたら、欲望はどのようにして偶然的なもの 以外に関心を払うことができるだろうか。またひとが単に自分のための道具として他人 の体を使用する以上のことをどうしてできるだろうか。(Nussbaum, 2002, p. 409)
また、乱交的な関係にも問題があるように見える。
セックスを匿名的に(in the anonymous spirit)行なうとしたら、その相手を尊敬と配慮 をもって扱うことができるだろうか。(Nussbaum, 2002, p. 409-10)
ヌスバウムはこれらの問いに対して明確に答えることはしないが、そこには道徳的懸念があるべきだと示唆する。
人間の道具的な扱い、人間を他の目的のための道具として扱うことは、常に道徳的な問題を含む。それがもし人間性に対するより大きなコンテクストのなかで起こるのでなければ、これはまさに道徳的に反対すべき中心的な形態である。(Nussbaum, 2002, p. 411)
しかしどの程度の持続的な関係を保ち、どの程度の情報を知りあえば道徳的にヌスバウムが 許容されると考えるような「相互の尊敬と配慮」にもとづいた関係が持てるかはわかりにくい。 もちろん、筆者自身はヌスバウムの立場に直観的には賛成したいところだが、少なくともそれ は現実のひとびとの性や「恋愛」行動とはかけはなれてしまっているように見える。さらに困ったことに、ヌスバウムの観点からは、まだお互いをよく知らない交際のはじまりの時点で 性関係を持つことはつねに不正であるという逆説的な結論が生じることになりそうである。
しかし実際には、性的な関係を持つことは一種の賭けや実験であって、お互いをよく知りあうための手段そのものであるのが実状かもしれない。ある種の人々にとっては、親密さから性的関係をもつというよりは、性的関係が互いについての人格的知識と親密さを作ると言えるかもしれない。性関係をもってから、どのような関係をもつかを判断するという人びとも少なくないだろう。
前に見たようにヌスバウムは、一時的なモノ化はより長い相互の自律を尊重するような関係の一局面としてならば道徳的に問題がないと主張するわけだが、いったん関係をもち、それ以上交際を深めるのをやめる、という(おそらくよくある)ケースでは、事後的にその行為が不正なことになるというのは奇妙である。
このように見てくると、ヌスバウムの「相互の尊敬と配慮にもとづいた関係」や、「ワンダフル」だとして推奨する種類の「モノ化」は、単なるヌスバウム自身の道徳的選好、あるいは 彼女の性的な選好の表明にすぎないのではないかという疑念も出てくる。
実のところ、ヌスバウムの持っているような「道徳的選好」や「性的な選好」は、わたし自身もかなり持っている。
すくなくとも酒を飲んでいなくて素面のうちは、「行きずりのセックスってよくないなあ」と思っている。だから、村上春樹の小説を読んで面白いと思ったりすごいと思ったりしつつも嫌な気持ちになったり不快感を抱いたりするし、多くのアメリカ映画に対して「ヤリチンとアバズレばっかりでいやだなあ」と思ったりするのだ。さいきんはヤングジャンプも不純異性交遊を描く漫画が増えてきたから嫌気が差して読まなくなってきた。
とはいえ、江口先生の論文でも指摘されているように、この道徳的選好を論理的な議論によって倫理学的に正当化することができるかというと、かなり微妙なところだ。それに、不道徳だからといって世の中から行きずりのセックスが失われるといろんな人たちの楽しみがなくなって、やっぱりよくないような気もする。
また、「性的モノ化」の概念をあまりに意識し過ぎて、相手を理性的な人格として尊重しようとし過ぎると、本来なら相手を楽しませられたはずの場面で相手を楽しませることができなくなる、ということにもなりかねない(男女関係では、どこかの時点で理性をある部分まで捨てることが必要とされる場合もあるし、相手をカテゴリやステレオタイプに基づいて扱うことが正解である場合もあるからだ)。カント主義的にはそれでよくても、功利主義的にはよくないだろう。
ここから、「なんだい、相手の人格を尊重して丁寧に接しているおれたちは女たちにモテなくて、それよりも相手を軽んじてステレオタイプ的に扱ってモノ扱いしている男たちの方が女たちにモテるじゃないか」と言い出して、ミソジニー的な非モテ論や恋愛工学論をおこなうことも可能ではあるだろう。さすがにみっともないのでそれはしたくないのだが、とはいえ、ある種のジレンマやトレードオフみたいなものがカント主義と恋愛とのあいだには存在するというのも、たしかであるようには思える。
(なお、徳倫理学だとこういうジレンマは存在しない。モテていてなおかつ女の子を傷付けていない男を探し出して、その男の真似をすればいいだけであるからだ。)