道徳的動物日記

倫理学、社会科学、時事問題、世相などについて論じます。

なぜ人間は進化のメカニズムに逆らって、道徳的に行為することができるのか

 

The Expanding Circle: Ethics, Evolution, and Moral Progress

The Expanding Circle: Ethics, Evolution, and Moral Progress

  • 作者:Singer, Peter
  • 発売日: 2011/04/18
  • メディア: ペーパーバック
 

 

 道徳と理性の関係についての議論はこのブログでは何度もやっており、「またかよ」と思われるかもしれない。とはいえ、原稿のためにピーター・シンガーの『拡大する輪:倫理学、進化、道徳的進歩(Expanding Circle: Ethics, Evolution, and Moral Progress)』を読むついでに、メモがてら、改めてまとめたくなってきた。

 

 道徳には「黄金律」が存在する。「他人から自分にしてもらいたいと思うような行為を人に対してせよ」や「自分が他人からされたくないと思うような行為は他人に対してするな」というルールは、ユダヤ教キリスト教から儒教マハーバーラタヒンドゥー教叙事詩)、そしてギリシャやローマの哲学など、古代から世界各国の伝統のなかに存在するものだ。

 ポイントは、それぞれの伝統における黄金律は別の伝統から受け継いだり輸入されたりしたものではない、ということだ。世界各国の伝統において、「道徳とはなにか」ということについての考えが独立して展開されたときに、どこでもみんなが「黄金律」のルールにたどり着くのである。だからこそ、黄金律には普遍性があるのだ。

 黄金律は文化間だけでなく個人間でも普遍的なものである。シンガーは、コールバーグによる道徳性の発達段階理論を参照しながら、しかるべき年齢まで成長して道徳についての思考を発達させられた子どもはだれもが黄金律にたどり着く、ということを指摘している。

 黄金律を実践するためには、「他人と自分は同じような利益を持っている、同等の存在である」ということを認識して、「自分の親族や自分の属する集団の人たちのことと、そうでない人たちのことも、平等に扱う」という公平さを志向することが欠かせない。この認識や志向は、通常、感情ではたどり着けないものだ。

 感情とは生物学的なものであり、究極のところは、自分自身の生存と繁殖を有利にするためだけに存在するものである。血族に対する利他主義は誰にも備わっているし、集団から排除されなかったり身内からの評判を良くしたりするための協調性や自己犠牲の傾向なども人によって程度が違えども大なり小なり存在するが、それらもあくまで自分の遺伝子をより拡げるという目的のために設計されているものだ。だから、道徳的には自分の親族よりも他の人たちを優先したり、自分の属している集団に逆らって別の集団の人たちを助けなくてはならないという場合であっても、感情だけにしたがっていたらそのゴールにまでたどり着ける可能性はほとんどないのだ。

 しかし、理性はちがう。理性が人間に備わっていること自体は、感情と同じく、自分自身の生存と繁殖を有利にするためであるはずだ(進化による淘汰の過程ではかなり徹底したコストカットが行われるものであり、生存と繁殖を有利にしないような無駄な機能はオミットされてしまうからだ)。だが、理性が進化によって備わったものであったとしても、理性は進化のメカニズムをオーバライドすることができる。理性をもちいれば、物事の前提や性質についての理解をおこなったうえで、認識や判断を修正したり上書きしたりすることができる。 たとえば「ここで身内を優遇したいという感情が湧いているのは進化論的な理由によるものだ」と理解したうえで、「しかし、ここで身内を優遇すると、もっと多くの人がつらく苦しい思いをすることになる。そして、ここで身内を優遇することの根拠は、進化によって備わった不合理な感情しかない」ということを考えて認識したうえで、「それでは、身内ではなく他の人びとへの配慮を行うために、ここで身内を優遇することは止めよう」と判断することができるのだ。

 理性による進化のメカニズムのオーバーライドは、道徳に関してだけで起こることではない。たとえば、ウィリアム・アーヴァインによると、人間に備わった諸々の欲望は生存と繁殖を有利にするために設計された生物学的インセンティブ・システムであり、個々人の幸福を考慮して設計されたものではない。だから、欲望を満たすことだけを目標に生きると、不幸になってしまう可能性が高い。しかし、人間は、理性をもちいて「欲望はなんのために存在しているのか」ということを理解することができる。そのために、長期的なプロジェクトに集中するために食欲や性欲をコントロールする、ということができるのだ。プロジェクトを達成できれば幸福や充足を得られるが、栄養価の高いものを食べまくったり繁殖の機会を制限したりすることにはなるので、個体にとってはプラスでも進化的にはマイナスだ。理性をもたない動物たちは「進化の奴隷」でありつづけるために、進化を裏切る行為をおこなうことはできない。しかし、人間にはできる、ということである。

 

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『輪の拡大』で行われている議論は、のちに、すこし形を変えながら、『普遍的な観点から:シジウィックと現代倫理学』の第7章でも行われていた。

 

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『普遍的な観点から』を執筆したときにはシンガーは「道徳的実在論」を主張しており、黄金律のような道徳の原理や道徳的思考を数学や物理学に類比させている。

 

道徳的真実を認識するという特定の能力は私たちの繁殖的な成功を増させない、とストリートは正しくも指摘している。だが、理性を用いる能力(capacity to reason, 推論を行う能力)には私たちの繁殖的な成功を増させる傾向があるはずだ。

…(中略)…理性は私たちの生存を妨げるような諸々の問題を解決することを可能にしたために、私たちは理性的な存在になったのかもしれない。しかし、理性を用いることが可能になってからは、私たちの生存に寄与しないような真実を理解して発見することが私たちには避けられなくなったのかもしれないのだ。このことは数学や物理学に関するいくつかの複雑な真実について当てはまるかもしれない。また、パーフィットが示唆しているように、私たちにとっての規範的で認識的な信念のいくつかにも当てはまるかもしれない。例えば、ある議論が妥当であり前提が真である時にはその結論も真であらなければならないという信念であり、その事実は議論の結論を信じるということへの決定的な理由を私たちに与えるのである。

(p.182)

 

 つまり、進化的な事情とはむしろ相反するにも関わらず黄金律が古来から各々の地域で独自に採用されていることは、数学や物理学の普遍的な真理が古来から各々の地域でそれぞれの人々が理性を用いることで独自に発見されてきたように、道徳的な真実も人々が理性を用いることによって各々の地域で独自に発見されてきたということを表している、と考えられるのだ。

 

 とはいえ、『輪の拡大』を書いた1981年の時点では、シンガーは道徳を数学や物理学に並列させられるほどの実在性があるものだとは考えていなかったようだ。

 

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 ここら辺はむずかしいメタ倫理学の話になるが、道徳が実在するかしないかということと、ある道徳的思考は合理性や妥当性があるからほかの道徳的思考よりも優先されるべきである、ということは独立して考えられる。「道徳は客観的には実在しない」ということを認めたうえで、合理性や妥当性などの指標から「究極的にはどこのだれもが黄金律に従うべきである」という主張をすることも可能ではあるのだ。

 

 いずれにせよ、理性は進化のメカニズムをオーバーライドできる、ということは1980年代からシンガーの主張のポイントとなっている。そして、『暴力の人類史』を執筆したスティーブン・ピンカーをはじめとして、数多くの論客がシンガーの『輪の拡大』に影響を受けながら、道徳における感情と理性との関係について論じてきたのだ(ジョセフ・ヒースの『啓蒙思想2.0』だってシンガーの議論に影響を受けたものであるはずだ)。

 

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 その一方で、ジョナサン・ハイトは「感情の犬と理性のしっぽ」や「象と象使い」のたとえを用いながら、理性はどこまでいっても感情を後付けで正当化する機能を持つものに過ぎない、と論じている。ダグラス・ケンリックやロバート・クルツバンなど、進化心理学界隈の人は理性に対する疑いを持ち続けているようだ(もちろんその背景にはデビッド・ヒュームなどの哲学者たちの系譜もあるのだけれど)。

 わたしとしてはシンガーやピンカーの議論はもちろんのこと、直接的には道徳を扱っていないアーヴァインの「進化の奴隷に抗う人間」論にも感銘を受けて説得されたということもあって、以前以上に理性の力を信じるようになっているところだ。