道徳的動物日記

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恋人と友人はどうちがうのか

 

 32歳にもなってこんなタイトルの文章をいちいち書きたくもないんだけれど。

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

 前回の記事では「男性からの女性に対する恋愛的なコミュニケーションには、積極的に関わろうとすればその行為が加害になってしまうリスクがあるが、消極的になっているだけだと相手との関係を深めることができなくなってしまう、というジレンマがあるので難しい」ということについて書いた。

 これに対して、はてなブックマークのコメントやTwitterなどで「同様のことは恋愛に限らずコミュニケーション全般に言えるのではないか」という指摘や反論が多々あった(ついでに「失礼な言動を知らずに繰り返してそうでもある」とか「ちょっとコミュニケーション怠けすぎでは」とかの罵倒もいただいた)。

 実際のところ、たしかに前回の議論には、恋愛に限らず友人や家族など他人とのコミュニケーション全般に当てはまる部分もあったとは思う。しかし、そうではない部分もやはり大きい。なんのかんの言って、恋愛と友情とはちがうものなのだ。恋している相手や付き合っている相手とのコミュニケーションと、友人や家族とのコミュニケーションとは、さまざまな点で異質なものであるはずなのだ。

 わたしは男性なので基本的に男性側の観点からでしか論じられないが、とりあえず女性のことを「恋愛感情を抱いている相手」と「パートナー関係を築いている相手」と「女ともだち」の三種類に分類したうえで(便宜上の分類だ)、男性の友人との関係とのちがいについて考えてみよう。

 

 まず、友人関係について。

 恋人や家族と友人との最大のちがいは、友人関係とは限定的なものでも排他的なものでもない、ということにあるだろう。だれしもが複数の友人を持つものであり、自分の友人に別の友人がいることについても、当然のことだと受け止めている。ふたりで遊びにいく相手であっても数人で遊びにいく相手であっても、どちらも等しく友人だ。自分に新しい友人ができたとしても、友人が別の友人と仲良くなったとしても、そこにジレンマは存在しない。

 なかには友人たちのあいだに「親友」と「友人」とのランク分けをおこなって、前者のことをほかの友人たちよりも特別扱いするひともいる。だが、その場合ですら、自分の親友にべつの友人や親友がいることが問題であると思うことはほとんどないはずだ。もし「おれの親友はあいつだけなのに、あいつにはおれのほかにも親友がいるはずだ」と思って嫉妬に苦しんでいるひとがいるとしても、一般論として、その嫉妬の感情は恋愛について抱くものほどには苦しいものではないはずだ。

 つぎに、友人関係とは平等で対等なものである。厳密にいえば、友人同士のあいだでもお互いに対する好意が同等であるとは限らず、どちらかの側が相手のことをよりいっそう大切にしていたり、相手に対してより大きな価値を感じていたりする、ということはあるだろう。しかし、すくなくとも一定程度の好意は互いに抱いている、ということは保証されている。というのも、「こいつと一緒にいると楽しいな」とか「こいつとはウマがあうな」ということを互いに思っている状態からでないと、そもそも友人関係が始まらないものであるからだ。

 恋愛関係やパートナー関係に比べると、友人関係では、「相手が自分のことをどう思っているか」ということについていちいち悩む必要性は薄い。一緒に遊んでくれているうちはなにかしらの好意を抱いてくれているはずだ、と判断できる。そして、相手が自分から離れていくときには、だいたいにおいて自分の側も相手に対する好意が薄れているものであろう。

 そして、友人関係とは漫然としたものでもある。だいたいの場合において友人関係とは気がついたら成立しているものだ。なにかしらの劇的な出来事が起こったことにより、「きのうまでは知人だったけれど、今日からは友人だな!」と関係性が明示的に変化した結果として友人関係が成立する、ということはそうそうないだろう。そうではなく、何度か会ったりやりとしたりするうちに「気があうな」「楽しいな」という感覚が互いのうちにぼんやりと形成されていくことで、じわじわと友人になっていくのである。

 したがって、友人関係においては、ある程度の理解や好意や親密さが最初から前提となっている。そのために、相手の好意や親密さを得るための「賭け」をおこなったり、自分のことを理解してもらったり相手のことを理解するために勇気を持って踏み込む、ということが必要とされる機会が少ないのだ。「機会があればこいつのことをもっと深く知りたいな」と思っている相手であっても、その機会が訪れないままでも友人関係を持続させることはできる。「この賭けが成功したらこいつとはもっと深い親友になれるけど、失敗したら友人関係自体が終わってしまうかもしれない」という選択に直面することは、まあないだろう。穏やかにだらだらと関係を続けながら、ちょっとした機会のたびにすこしずつ理解や親密さを深めていく、ということができるからだ。

 

 では、恋愛感情を抱いている相手に対しての関係は、友人との関係とはどうちがうのか?

 最たるちがいは、どちらかが恋愛感情を抱くとその関係は非対称なものになるということにあるだろう。つまり、自分は相手に対して並ならぬ好意を抱いているが、相手はそれほどの好意を自分には抱いていない(抱いているとしてもその確証が得られない)、という状態になるのである。

 前回の記事では「相手に対してなんらかの積極的なはたらきかけをおこなって、相手の持っている感情や考え方になにかしらの影響を与えて変化させる好意」を「侵入的なコミュニケーション」と定義した。恋愛においては、非対称な関係を対称なものにする……つまり自分が相手に好意を抱いているように相手からも自分に好意を抱いてもらうようにするために、侵入的なコミュニケーションの必要性や切実さが増す。これは、友人関係では起こり得ないことであるように思える。好意を抱いてもらうためにはこちらから相手の感情をわざわざ変えさせなければならない相手、つまりデフォルト状態ではこちらに対して興味や好意が薄い相手と友人になりたい、と思うことはあまりないからだ。しかし、恋愛ではそれがあり得る。

  そして、原則として恋愛関係とは限定的で排他的なものである。この要素は、片思いである場合には焦りをうながすことになる。ぼやぼやしているうちに相手が自分以外の男性と付き合ったり結婚したりするかもしれない、というリスクを常に意識しなければならないからだ。そのために、友人関係と比べて、「賭け」をおこなう必要性がいやでも増してしまう。切実さや焦りから、その賭けがかなり危ういものになってしまうことも多々あるだろう。

 とはいえ、なにしろ恋をしている相手なのだから、そのひとは自分にとって特別で大事なひとだ。だからこそ、「自分の行為やアプローチが、相手に迷惑をかけたり傷を付けたりしているのではないか」という道徳的な悩みが、深刻なものとなるのである。

 

 これはあまり堂々と書くべきことではないかもしれないが、すくなくともわたしにとっては、同性の友人を加害することの深刻さは、恋をしている相手やパートナーを加害することの深刻さに比べるとだいぶ薄い。

 先述したように、友人相手には賭け的なコミュニケーションをおこなうことがないから、深刻な加害を意図的に発生させてしまう機会自体が、ほとんどない。仮にいっしょに遊んだり飲んだりしているときの言動によって意図せずに相手を傷付けてしまう場合があったとしても、大半の場合には後から謝罪することでリカバリーがおこなえる。友人関係に特有の漫然さや対等さなどから、「ひとつ間違えたら終わり」という事態になることはほとんどないものなのだ。

 もちろん友人であってもその関係が永続的はものであるとは限らず、ふとした言動や口喧嘩から絶縁してしまう可能性は存在する。だが、それはあくまで「可能性」の話だ。現実問題としてそのような事態が起こる可能性は小さいのであり、日頃からその可能性について深刻に悩むことはない。道徳的には友人に対しても丁重に接したり倫理的配慮をおこなうべきかもしれないが、実際のところ、そうやって生きているわけではないのだ(そして、これは強調しておきたいが、わたしの友人たちの大半もわたしと同じような態度でわたしに接していると思う)。

 

 異性のパートナーとの関係は、恋をしている相手や友人との関係とはどうちがうのか?

 非対称さについては、片想いをしているときに比べればだいぶマシになるだろうが、友人関係ほどの対等さや平等さが得られるタイミングはあったとしても限定されているように思える。パートナーになっても、互いが互いに対して抱ている気持ちの熱量が不釣り合いなままであることはめずらしくない。また、相手と自分との気持ちの熱量の差が逆転することもあり得る。だから、「自分はいま相手に対してどれくらいの好意を抱いているか」ということと「相手はいま自分に対してどれくらいの好意を抱いているか」ということのどちらも、定期的に意識せざるを得ないだろう。それに応じて、相手の気持ちをこちらに向け続けさせるための侵入的なコミュニケーションも必要となるかもしれない。しかし、片想いのときのような焦りがあるわけではないから、比較的冷静にコミュニケーションをおこなうことができるし、賭けの要素も減るだろう。

 友人関係とパートナー関係との最大のちがいは、原則として、パートナー関係とは排他的で限定的なものであるということだ。なんだかんだ言って、ほかの人たちのことを差し置いて相手のことを大事にして特別に扱って、そして相手のほうにも同じように自分のことを大事に特別に扱ってもらう、という関係性はわたしのみならず大半のひとたちが恋愛に求めていることだろう。特別に扱うということは、ある種のパフォーマンスやコミットメントをおこない続ける、ということである。だから、パートナー関係にはある種の規律や意識の高さが存在し続けるのであり、友人関係に比べると漫然としたものにはならないのだ。

(これはある種の理想論であり、実際のカップルや夫婦の大半は漫然とした付き合いを続けているではないか、と言われるかもしれないが、そんなことは知らない。すくなくともわたしは1年間半なら上記のような関係を続けられた経験がある……漫然としたパートナー関係を5年くらい続けた経験もあるが、その結果として得られたのは「やっぱりパートナー関係って漫然とさせるものではないよなあ」という教訓だ)。

 それと同時に、パートナー関係は友人関係とちがって利害関係の要素もずっと強いものだ。その利害は経済に関するものでもありえれば、家事の分担に関するものでもありえるし、セックスに関するものでもありえる。自分はいっしょに過ごしたいと思っているときに相手は友人と遊びにいきたいと思っていたりする、などの関わりたさの不均衡も、ある種の利害対立を招き寄せるだろう。この利害関係が存在することで、友人に対しては抱かないような負の感情や憎しみをパートナーに対しては抱くことがありえる。

 また、パートナー関係には排他的であるがゆえに責任が生じる。結婚をしていない状態であっても、不貞行為をおこなうことは道徳的責任を破る非道徳的な行為だ(法律的には問題ないのだけれど)。また、パートナーであるということは、そのあいだは他の異性と関係を結ぶ可能性を捨てさせて自分と関係を結んでいることを求めるということでもある。だから、相手の時間や可能性を無駄にさせないためにも、相手に有意義で楽しい時間や経験を過ごさせることはある種の義務となるだろう。そしてもちろん、相手の側にも同じような責任感や義務感を持ってほしいとも思うものだ。

 パートナーとは特別で大事な相手であり、責任を持つべき相手でもある。というわけで、パートナーを傷付けてしまうことの深刻さは、やはり、友人を傷付けてしまうことの深刻さに比べるとずっと大きい。そして、パートナ関係とは友人関係に比べて明示的に終わりえるものでもある。相手を傷付けてしまった(あるいは、相手に傷付けられてしまった)ことが原因で関係が終了してしまった場合には、友人を傷付けたときのようにリカバリーをおこなうこともできない。そうなると、後々まで悩んでしまうことになってしまう。

 上記のことを考慮すると、恋している相手やパートナーと友人は同じように大切だという考え方には、やはり賛同できない。プラトニックに過ぎると思うし、カマトトぶっているようにも思える。

 

 ところで、女友だちについてはどうか?

 基本的には、同性の友人と事情はだいたい同じになるだろう。ただし、前回の記事でも書いたように、男性による言動は様々なかたちで女性に対するハラスメントやバイオレンスになりえる。だから、友だちであっても、女性に対しては「親しき仲にも礼儀あり」というスタンスを保つことは必要であるはずだ。友人を傷付けることの深刻さは恋している相手やパートナーを傷付けることに比べれば小さいといえども、もちろん、傷付けないにこしたことはないからである。

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

 さて、恋している相手やパートナーに比べて友人の重要性を低く見積もるわたしの考え方は、それ自体が、かなり男性的なものだという自覚はある。詳細は上記の記事で説明したが、男性同士とは互いにケアしあうことが下手なものであり、そのために男性同士の関係性は特別で尊重すべきものにはなりづらいのだ。

 ここにはある種の集合行為的な問題がある。つまり、今日からわたしが考えを改めて「よし、これから男性の友人のことも異性の恋人と同じように大切に扱おう」と意を決しても、同じタイミングでわたしの周りの男性の友人たちがわたしと同じように意を決してくれない限りは、関係は非対等なものになってしまうのだ。その非対等さが存在すること自体が、友人関係を蝕むことにつながってしまうかもしれない。

 一方で、女性同士のあいだでは、恋人関係でおこなわれるようなコミットメントやパフォーマンスが友人関係でもおこなわれているようである(女性同士の関係のすべてがそうだというわけでもないのだが、一般論としてそういう傾向はあるようだ)。だから、女性同士の友人関係は、恋人同士のそれと同様に特別で大事で尊重すべきものとなりえる(そして、どちらかがどちらかを傷付けた場合には、傷付けた側が道徳的な悩みを深刻に抱くことになる)。しかしわたしは男性なので、そういう関係には縁がないということだ。

 

 また、前回や今回の記事でわたしが書いてきたことは、あまりにヘテロセクシュアル的でモノガミー的な考え方である、と批判することもできるかもしれない。

 それはそうかもしれないが、実際の問題として、大半の人はホモセクシュアルでもアセクシュアルでもなくヘテロセクシュアルであるのだ。そして、実際の問題として、ほとんどの人はポリアモニー的な関係に不安や抵抗や嫌悪を感じて、モノガミー的な関係を求めるものである。だから、「ロマンチックラブ・イデオロギーから脱却しましょう」とか「恋愛を捨てよう」とか「モノガミーに縛られずにポリアモニーを実践しよう」とか「コミュニケーションから逃避しよう」とか「ポリコレの時代には恋愛は消失する」とかあーだこーだ言われても、その大半はただの机上の空論な理屈に過ぎず、なんの助けにも解決にもならない。ほんとうのところ、そういうことを言っている連中の大半についても、彼らや彼女らが恋愛やコミュニケーションを完全に捨てられているようにはとても思えない(アセクシュアルの人は別)。自分に手が届かないものや自分が実践できないことを「酸っぱいブドウ」扱いしているだけなようにしか思えないのだ。

 道徳的な問題とかジレンマとかいろいろあることをわかったうえでわたしは(異性愛的でモノガミー的な)恋愛やコミュニケーションを求めているのであり、だからこそ困ったり悩んだりしているのである。それはわたしに限らず、かなり多くのひとが抱いている普遍的な悩みでもあるだろう。

 

 

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