道徳的動物日記

倫理学、社会科学、時事問題、世相などについて論じます。

「そんな動物みたいなことするなよ」

 

 

『性と愛の脳科学』はたしか2015年の前半に英語版の原著(The Chemistry Between Us: Love, Sex, and the Science of Attraction)を半分ほどまで読んでいて、面白いと思いつつ途中で手が止まって放置していた、それで、6年経った今年になってようやく邦訳版で読了したわけである。

 

 この本では、わたしたちが抱く「愛情」や「性欲」といった情動、あるいはフェティシズムや母性といった性や愛にまつわる様々な現象や状態について、脳や化学物質(ホルモン)などの観点から分析される。人間を用いた心理学実験が紹介されることもあるし、進化心理学的な理論もところどころで参照されるが、ほかの類書とこの本とを分ける最大の特徴は、ラットを用いた実験から人間の性行動について類比的に語る議論がメインになっているところだろう。とくに、大半の人間たちと同じように一夫一妻制で生活する動物である、プレーリーハタネズミを用いた実験に基づいた議論が豊富に展開されている。著者たちは、メスとオスのハタネズミたちに様々なホルモンを投入してその行動を観察することで、私たち人間の性愛の根底にはどのような生物学的・脳科学的メカニズムが横わたっているかを解き明かそうとするのだ。

 もちろん、著者たちも、ネズミと人間を同一視しているわけではない。人間とは理性や文化を持つ生き物であり、その行動は(ネズミほどには)生物学的メカニズムに支配されるものではない、ということにはこの本のなかでも何度か留意されている。……とはいえ、ハタネズミを用いた実験を根拠として提示される仮説はかなり大胆なものであるし、読者によってはギョッとなったり「人間の愛情についてそんな簡単に言い切れるものなのか」と不愉快になったりするかもしれない。

 著者らの仮説については後日に本格的に紹介する。その前に、今回は、『性と愛の脳科学』の本筋の主張とはあまり関係がないのだが印象にのこるエピソードを、要約して紹介させてもらおう(このエピソードは本のなかではかなりまわりくどく書かれているので、わかりやすさのために細部をはしょったり改変したりしている)。

 

 この本の第二章「欲望の化学」では、スーザンという名前の女子大生を被験者にした、とある実験が紹介されている。

 心理学実験でありがちなことだが、スーザンは実験の本当の意図を聞かされていない。彼女は、「双子の兄弟が二組いて(ペアAとペアB)、各ペアの片割れと会話した二週間後に、各ペアのもう片方と会話する」という実験だと思い込んでいる。しかし、実際には、ひとりの俳優がペアAの双子を、もうひとりの俳優がペアBの双子を演じているのだ。

 この実験のキモは、各俳優はそれぞれ二通りのタイプの男性……恥ずかしがり屋で誠実な「エディー(真面目くん)」タイプと、抜け目がなくて女性経験豊富な「キャド(卑劣漢)」タイプ……を演じていることだ。1回目の会話では、ペアAの俳優はエディーを、ペアBの俳優はキャドを演じた。その二週間後の2回目の会話では、ペアAの俳優はキャドを、ペアBの俳優はエディーを演じる。

 俳優たちには台本が渡されており、エディーを演じているときにせよキャドを演じているときにせよ、恋愛に関する会話をするように決められている。ただし、AもBも、キャドを演じているときには、会話のテクニックや性的なアピールを駆使しながらスーザンを誘惑する。そして、エディーにせよキャドにせよ、会話の最後には、スーザンにボーイフレンドがいるかどうかをさりげなく聞き出すのだ。

 さて、スーザンには実際にボーイフレンドがいる。そして、1回目の会話では、エディーに対してもキャドに対しても、自分にはボーイフレンドがいるという事実を正直に答えた。このときのスーザンはキャドからの誘惑に流されなかったのだ。

 しかし、2回目の会話では、スーザンはエディーにはボーイフレンドの存在を伝えたが、キャドには伝えなかった。また、スーザンは2回目のキャドと会話しているときにのみ、髪をかき上げたり、小首をかしげたり、イヤリングをもてあそんだり、前のめりになって座ったりしていた。胸に注意を惹きつける、性的なアピールを無意識にしてしまっていたのだ(ネズミのメスは自分が発情していて性的に受け入れ態勢にあることを独特の姿勢によってオスに示すが、著者らは、スーザンのこの行動をネズミのそれに類比している)。要するに、2回目のキャドとの会話においてのみ、スーザンは誘惑に屈して浮気をしかねない状態になってしまっていたのである。

 では、1回目と2回目との違いはなにか?それは、2回目の会話はスーザンの排卵におこなわれたことだ。

 

排卵の直前、最中、そして直後は〕女性が妊娠可能な、限られた唯一の時期なのである。そして、女性の脳はそのことを知っている。つまり、こうしたホルモンの変化は、女性の生理的な側面に影響するばかりではない。生殖的な無駄が起きないよう、彼女たちの脳にも働いて、卵が受精する機会を最大化する方向へと行動を変化させ得るのである。

(p.70)

 

私たちはしばしば、〔性欲が行動に与える〕影響を無視する。例えば、「排卵前後になると、より強い性的欲求を感じるか」と聞かれると、多くの女性はノーと答える。ところが、排卵付近の時期に、ここ数日の間にセックスをしたり、セックスに誘ったりした回数を数えるよう言われると、妊娠可能性が低い時期に聞かれた場合に比べ、多くの出来事を挙げるのである。女性は排卵時、その月の他の時期に比べてポルノをより楽しむ。爽やかで快い男性ではなく、たくましく精悍な男性に惹かれやすくなる。自分の父親を避けがちになり、カロリー摂取量が減り、服やセクシーな靴に比べて、食べ物に使う金額は少なくなる。女性はまた、自分の現在の相手ではない人物とのセックスを夢想する頻度が〔排卵期に〕高くなる。

ドゥランテが説明するように、エディーは誠実で、一生懸命で、真面目な関係を求めているが、こうした特徴は理性的な脳に対して訴えかけるものであるーー理性的な脳は、遅れて得られる見返りを、長期的な利益として見積もる。こうした計算は、脳の中で一番大きな領域である、大脳皮質で行われる。しかし、ホルモンはスーザンの脳内にある他の領域を動員して、その声を増幅する。今日、スーザンは短期的な利益のことしか考えていない。そして、もじもじして、結婚を望んでいる、英語専攻のピッツァ配達の青年は、彼女の目下の望みを満たさないのである。

 (p.71 - 72)

 

……また、キャドは単にそこにいて、逢瀬に応じられるという点でも有利である。スーザンのボーイフレンドは彼女の視界の外にいて、意識の外にあるのだ。

キャドは大げさな自慢屋だが、勝者のように見える。そして、男性にとっての揺るがぬ事実は、あなたがいかに良い奴であろうと、最も妊娠しやすい時期の女性(どんな種の生物のメスも)は、勝者のタイプの男性を評価するということである。ラス・ファーナルド率いる、スタンフォード大学の研究チームは、メスの魚が、交配相手の適応度〔繁殖によって残せる子の数の期待値〕を示す社会的手がかりをどう処理するかを調べた。彼らは、抱卵中のメス(体内にたくさんの卵をもち、放卵の準備ができている。すなわち、排卵期の女性とおよそ同様の状態である)が、好みのオスが別のオスとの戦いに勝つのを見ると、脳内の内側視索前野〔性的二型核が見つかった領域〕が興奮することを発見した。メスの性的行動を直に調節する、視床下部腹内側核もまた、興奮していた。端的に言えば、お気に入りのオスが戦いに勝てば、メスは、脳内にある生殖と性的誘惑の中枢が活性化されるのである。

ところが、お気に入りのオスが戦いに負けてしまうと、彼女の脳内で、不安を生み出す回路にスイッチが入り、ストレスを経験したような様子を示す。人間の場合の言葉で言うと、彼女は、自分の子供の父親として負け犬のボーイフレンドを選んだのではないかと、不安になったように見えるのである。

(p. 72 - 73)

 

 

 さて、言うまでもなく、このような文章を読むときには注意が必要だ。

 まず、著者らも本のなかで言及しているように、排卵期の女性がパートナー以外の男性に惹かれたり浮気をしやすかったりするとしても、それはあくまで傾向でしかない。先述したように人間には理性があるのだから、キャドが本気で手を出そうとしてきたときには、スーザンも「ボーイフレンドを裏切ってはいけない」という道徳律を思い出して彼を拒むかもしれない。また、人間の行動は性別とかホルモンとかだけでなくパーソナリティにも影響される。浮気をするかどうかは各個人の外向性や経験への開放性にも左右されるのであり、排卵期になっても浮気にほとんど興味を持たず実行しない女性だって、もちろんいっぱいいるのだ。どのような状況や状態のときにどのような行動をとるかは最終的には個人ごとにちがうものであり、「女性とはこういうときにはこういう行動をとる生き物なのだ」と決めつけられるものではないのである。

 また、そもそものスーザンの実験がどれだけ科学的に正確であるかなんて、わたしを含めた『性と愛の脳科学』の読者の大半には判断がつかないことだろう。もしかしたらスーザンの行動の変化は排卵日とは異なる理由があったのだが実験ではそれを発見することができなかったのかもしれないし、著者らはスーザンの行動を誇張して読者に伝えているのかもしれない。実験に再現性があったかどうかも調べてみなきゃわからないし、その調べ方すらよくわからない。

 そして、「排卵期には女性は浮気しやすくなる」という著者らの主張が正しいとしても、それについて男性は女性に文句を付けられる立場にはない。たとえば、男性は女性が排卵期であることを無意識に察知して誘惑をしやすくなる、という傾向もこの本のなかでは紹介されている。なにより、「隙あらばパートナーを裏切って、他の異性と性的に関わる機会をねらいたがる」という傾向は女性よりも男性の方がずっと強いのだ。男性とは常に浮気しやすい存在であるとすれば、女性が排卵期に浮気しやすくなることを非難される謂れはないだろう。

 

 ……とはいえ、頭では上記のような理屈をわかっていても、スーザンの実験について紹介された箇所を読んでいるとわたしはかなりゾワゾワしてしまう。最初で英語で読んだときにもゾワゾワしたし、日本語で読み返したときにも変わらずゾワゾワした。

 わたしに限らず、キャドのようなたくましさとか会話テクニックとか自信とかを持たないエディーのようなタイプの男性は、上記のような文章を読んだら大なり小なり不安や恐怖や虚しさを感じるだろうと思う。「そんな不安とか恐怖とか、ぜんぜん感じないよ」と言う人は、自分のパートナーなり想い人なりがバーでキャドのような男性に誘惑されているところをじっくり想像してみるがいい。

 人間の行動……とくに性や愛に関する行動を、ネズミや魚と類比しながら「動物的」な次元に落とし込める議論は、多くの読者にとっては負の感情を誘発したり刺激したりするものであり、だからこそ面白く、そして危険でもある。

 これらの議論がわたしたちに与える影響は、いわゆる「虹の解体」だけで済むとは限らない。性や愛についてなにかしらの理想や願望を抱いている人は、男性にも女性にも多いはずだ。だからこそ、上述のような文章を読んだときには「性や愛の背景にはこんな生物学的メカニズムがあって、こういう風に合理的に説明できるんだなあ」と感心するだけには済まされずに、裏切りや失望の感覚を抱いてしまう可能性もある。それは、ある種の復讐心や逆恨みにもつながり得る。

 他のところでも書いたように、議論というものは物事を認識する枠組みを変えさせて、それを通じて実際の行動にも影響を与えるものだ。「自分がどれだけ誠実で優しくあっても、女性は排卵日になったらキャドみたいな男性に誘惑されるのだとしたら、誠実で優しくあるだけ損をしてしまうし、自分もキャドみたいに女性をモノ扱いした方が得だ」と思ってしまう男性は、まあ確実にいるだろう。一部の男性がナンパや「百人斬り」を通じて自己実現をしようとしたり、恋愛工学に惹き付けられたりする背景には、単なる性欲だけでなくコンプレックスとそれに由来する復讐心も存在するはずである、とわたしは推察している。

 

 とはいえ、じゃあ性とか愛とかに関して脳科学だとか進化心理学だとかに基づいて論じる言説をすべて駆逐して封殺すれば「女性なんて動物なんだ、誠実さや優しさに報いるとは限らないからモノ扱いするくらいがちょうどいいんだ」と思ってしまう男性があらわれることを防げるかというと、残念ながらそうでもないだろう。

 脳科学進化心理学は人間のすべてを明らかにしているわけではないし、これらの分野で提唱される人間観には独特の偏りや歪みや浅薄さは存在するが、それでも、一面の真実を突いていることは否定できない。

 脳科学進化心理学の言説に触れたことがなくても、生活をしたり恋愛をしたりしているうえで起こる出来事や経験を通じたり、あるいは友人や知人の経験談を聞いたり他人同士のトラブルを遠まきに眺めていたりするうちに、これらの分野が指摘するような事象やメカニズムの存在を理解してしまう人は一定数いるものだ。わたしたちは人生を通じて「男ってこういうものだよな」「女の人ってこうであるらしい」ということをなんとなく学習していく。脳科学進化心理学の言説が魅力的であるのは、わたしたちが想像もしなかった驚愕の事実を知らせてくれるからではなく、わたしたちが薄々ながら気付いている事実について一貫性のある理論で説明を与えてくれることにあるだろう。

 

 また、性や愛は多くの物語で扱われる題材でもある。恋愛の理想や純愛を描く作品も存在する一方で、性愛の背後にある理不尽さや無情さを題材にした作品も多数ある。世間的には純愛ものの方が人気を博して売れる傾向にあるかもしれないが、批評家に好まれて高く評価されるのは、性愛のリアリティや生々しさを描いたものの方であるだろう。そして、そのような作品は実際に面白い。もちろん読んでいてイヤな気持ちになったり悲しくなったりすることはあるのだが、そのような負の感情を超えて、わたしたちは性愛の負の側面を描いた物語に惹きつけられる。おそらく、性愛や人生に付きまとう「理不尽さ」は、それ自体がわたしたちがひどく興味を抱いてしまう対象である。他人事としての物語にとどまっているうちは、わたしたちはその理不尽さを楽しめてしまうことができるのだ*1

 

 この記事のタイトルは、『テラフォーマーズ』という漫画のなかでアドルフ・ラインハルトというキャラクターが吐き出した「そんな動物みたいなことするなよ……」というセリフに基づいている。アドルフの妻ローザは夫を裏切り、別の男の子を身ごもって出産してしまったのだ。

 登場人物がいろんな動物に変身しながら人型のゴキブリと戦う漫画である『テラフォーマーズ』では、血で血を洗うバトル描写の合間に、動物や昆虫に関する蘊蓄も豊富に挿入されている。そして、アドルフがローザに受けた仕打ちについても、カッコウがおこなう托卵と類比しなら描かれていた*2

 わたしたちが理性だけに基づいて生きることができれば、ネズミや魚やカッコウに類比されてしまうような行為なんてすることもなく、だれも裏切ったり傷付けたりすることもなく、性や愛を健やかに楽しむことができるだろう。そして、わたしたちは自分のパートナーや自分の想い人に対しても、動物ではなく人間であることを望むはずだ。しかし、残念ながら理性のみで生きている人はこの世にはいない。どんな人であっても、どこかのところまでは動物であるのだ。

 古来から、わたしたちが動物であるということと、動物であるからこそ他人を傷付けてしまうということは、物語によって描かれてきた。そして、わたしたちの動物性は知的にもあまりに興味深いことであるために、過去の哲学者や現代の科学者は批判や制止を振り切って人間の動物性について研究し続けているのである。

 

 わたしたち個人がどう生きるかということを考えるうえでも、人間の動物性をあまり過大に捉えることは間違っているが、動物性から目を背けてそれが存在しないものであるかのように捉えることもまた間違っているだろう。だれかのことを理性を全く欠いた動物扱いすることも、完全な理性を持った存在として扱うことも、相手についてただしく理解したうえでひとりの生身の人間として接することを放棄しているという点では、同等に的外れであり非道徳的な行為であるのだ。ではどういう塩梅で人に接することが正解であるかというと、それは簡単に言えるものではないのだけれども。

 

*1:性愛や人生の理不尽さを扱った文学作品のなかでも、わたしにとって特に印象に残っているのはサマセット・モームの『月と六ペンス』だ。

 

月と六ペンス (光文社古典新訳文庫)

月と六ペンス (光文社古典新訳文庫)

 

 

*2:記憶頼りに書いているので、もしかしたら詳細は違ったかもしれない。