この本の概要については先日の記事でさくっと触れているので、いきなり本題から*1。
この本でまず面白かったのが、第4章から第6章にかけて、女性と男性が異性に対してそれぞれに抱く愛情の質の違いを分析するところだ。
第4章の「母性を生む回路」では、自分が産んだ子供を世話したいと母親が思う感情、つまり「母性愛」の存在が脳科学の観点から説明される。端的にいえば、母性愛とはプロラクチンとオキシトシンというホルモンによって引き起こされる。オキシトシンが母親に与える影響の具体例は、以下のようなものである。
人の母親が赤ん坊を胸に抱いてやる時、母親は赤ん坊の顔と目を見つめ、赤ん坊もしばしば、母親の顔を見つめ返す。母親は赤ん坊の泣き声や、赤ん坊の声に耳を傾け、自分からも声をかけてやる。絶えず赤ん坊に触れ、髪を撫でてやり、抱きしめてやる。いくつかの研究では、血中オキシトシン濃度が高いほど、女性はこうした行動をとりやすい傾向があると示されている。赤ん坊からの信号が、母ヒツジの嗅球〔嗅覚情報を処理する脳領域〕から届くのか、人の母親の目や耳から届くのかという違いはあれ、脳にオキシトシンが流れこむことにより、扁桃体がこうした信号を受け取る準備は進む。母親にとって、赤ん坊からの信号は非常に目立つものになり、情動的な感覚と結びつくようになる。こうしたわけで、自分自身の赤ん坊に触れた母親の扁桃体は、特別な形で活性化されるのである。
ヒトとヒツジの母親も、ラットと同様に、赤ん坊の世話をする時に脳内報酬を受け取っており、そこには、ドーパミンによる同じ報酬系がかかわっている。母親は自分の赤ん坊の外見、におい、声を感じ取り、その感覚情報と、感情と、報酬を結びつける。この時、理性を司る前頭前皮質は口をふさがれてしまう。これらすべてが、母親の子育て意欲を高めるのだ。子育ては気持ち良い。それが自分の子ならなおさらだ。この報酬の効果により、新しく母親になった女性は子育てへの欲求を抑えられなくなる。
(p.164 - 165)
そして、第5章の「私のベイビー」では、女性が男性に対して感じる愛情もまたオキシトシンが大きな部分を占めること、つまり女性からの男性に対する愛情は赤ん坊に対する愛情と類似したものであるということが論じられるのだ。
著者たちによると、メスのプレーリーハタネズミや人間の女性がセックスをする際にはオピオイド、ドーパミン、そしてオキシトシンという三種類のホルモンがもたらされる。「愛」とは、これらのホルモンが組み合わさることで起動するものだ。
オピオイドはセックスの「気持ちよさ」そのものをもたらして、ドーパミンは「この人とセックスをしたら気持ちよくなるんだ」という学習を助ける。そして、オキシトシンは母性をもたらしたり他者への働きかけを促進するだけでなく、「社会的記憶」の形成とも関わっているホルモンだ。オキシトシンは、目の前にいる相手はほかの他人たちとは違って自分と関わりを持つ存在であるということを分別したうえで、その相手と関わりたいという意欲を生じさせる。セックスの際にオキシトシンが放出されることは、自分が「気持ち良い」と思った時に目の前にいる相手に対して、「強力で際立った、情緒を伴う記憶」(p.221)を生じさせることにつながるのだ。著者たちによると、一夫一妻制を実行するプレーリーハタネズミや人間における夫婦間の「絆」とは、このオキシトシンの作用によって形成されるものである。
そして、人間の身体は、自分がオキシトシンを放出して相手に対して愛着を抱くためだけでなく、相手のオキシトシンを放出させて自分に対して愛着を抱かせる……つまり、相手のなかにある「愛」の回路を利用することができるようになるためにも進化してきた。
たとえば、人間のオスが霊長類最大のペニスを持っている理由には諸説あるが、著者らの仮説は以下のようなものである。
ラリーは、ヒトのペニスが、女性のヴァギナと子宮頸部を刺激する道具として進化し、それにより、女性の脳内にオキシトシンが放出されるのだと考えている。ペニスが大きいほど、性交中にオキシトシンの波を引き起こすのに効果的だというわけだ。オキシトシンの奔流は、女性が抱きうる懸念や不安を和らげ、愛する人の情動的、社会的な手がかりを受け入れやすくする。彼女は彼の顔や目に引きこまれ、その情動的な状況を扁桃体に強く刻みこむ。おそらくは、ドーパミンとオピオイドが放出されているのだろう。彼女が、別の場面であれば相手を当惑させてしまうような形で、愛する人の顔をじっと見つめている間、彼女は喜びを感じ、その感覚を、母親が赤ん坊に対してするやりかたで、特別に彼と結びつける。ヒツジ飼いがメスのヒツジを手で刺激して、養子をとらせたことに比べると、これははるかにずっとエロティックで快い話だ。しかし、両者のしくみはほとんど同じなのである。
(p.237 -238)
また、男性が女性の胸に惹かれて、行為の最中には相手の胸を揉んだり乳首をいじったりしたがることも、オキシトシンと関係している。赤ん坊が母親の胸を触って吸うことは母親の脳内にオキシトシンを放出させて、赤ん坊に対する母親の愛を惹きおこす。本来は母子関係の絆を形成するために成立してきたこの機能は、男女間の愛を形成するためにも利用することができる。つまり、わたしたち男性は、女性に自分のことを赤ん坊のように愛させるために、彼女たちの胸に対する執着を進化させてきたのだ。
なお、オキシトシンの観点からいえば正常位がベストであることも、著者らは示唆している。なにしろ胸が揉みやすいうえに、互いの目を見つめあいながら行為することになるので、絆が形成しやすくなるのだ。
女性から男性への愛を特徴付けるホルモンが「母性ホルモン」とも呼ばれるオキシトシンであるのに対して、男性から女性への愛を特徴づけるホルモンは、「なわばりホルモン」とも呼ばれるヴァソプレッシンである。男性はヴァソプレッシンによって自分のテリトリーに対する執着を強くさせられて、部外者に対する攻撃性を高めさせられて、テリトリーを守るためにはだれかと戦って怪我することも厭わなくさせられる。
そして、セックスの際にヴァソプレッシンが放出されることで、男性は自分の恋人のことも自分のテリトリーであるかのように扱うようになるのだ。
ある実験では、ヴァソプレッシンを投与された男性は、ほかの男性たちの表情から彼らの感情を判断するのが苦手になった。一方で、ヴァソプレッシンを投与された男性でも女性の感情は問題なく判断できていたし、また女性はほかの女性たちについても男性たちについても感情を判断することができたのだ。
ヴァソプレッシンはネガティヴな顔を思い出すのに役立つかもしれないが、もし、誰かと戦わなければならない可能性がある場合、例えば、パートナーやなわばりを守っている時には、相手の正確な感情を気にし過ぎないことが一番だ。同情し過ぎれば、自分の命が奪われかねない。ハタネズミでも、サルでも、ヒトでもだ。
そこから導き出される結論は、私たちを少々不安にさせる。男性にとって、セックス、愛、そして攻撃性は、脳内で密接に絡み合っているということだ。ラリーの説に照らし合わせれば、なわばりやパートナーの防衛行動におけるヴァソプレッシンの役割をヒトが改変し、男性の脳内で、女性がなわばりの延長となったという話は、理にかなっている。もしラリーが正しければ、男性はパートナーと強い絆を結び、彼女を守るために攻撃的になる、というのもありうる話だ。
(p.281)
また、第3章の「欲求の力」では、フェティシズムについても脳とホルモンの観点から分析されている。男性にせよ女性にせよ、自慰や性交によって快感を得たら、関連する物事が「先行条件」として設定される。それにより、本来は性的でない物事に対しても、それを目にしたり匂いを嗅いだりすることで性的興奮が得られるようになるのだ。その先行条件の影響力が強くなり過ぎた場合には、それなしでは興奮することもできなくなってしまう。著者らは、メスやオスのラットたちに絵筆やジャケットなどの物品に対するフェティシズムを意図的に植え付ける実験を紹介したうえで、人間のフェティシズムはラットのそれと変わらないことを示唆している。
黒い下着やブーツにフェチを抱く男性にせよ、ロープで縛られたりムチで叩かれたりすることにフェチを抱く女性にせよ、それらの物品や行動とセックスによって得られる快感という「報酬」を学習行動によって関連付けさせているのだ。
さらに、特定のパートナーに対して愛着を抱くことも、その原理はフェティシズムと同じである、と著者らは説く。
例えば、あなたが、ボブという男性とのセックスで、二、三回オーガズムに達したとしよう。それらは、事後の笑顔と優しいキスを伴う、素敵な経験だった。進化的な観点からいえば、あなたが子供を作るためにボブは必須の存在というわけではない。相手は、ロドリーゴであっても構わないのだ。だが、今やあなたの欲求は、単にセックスをしたり、絶頂を味わったりするところに向いているわけではない。その欲求は、ロドリーゴではなく、特にボブとの間で経験するオーガズムに向けられているのである。ボブを好むあなたは、ロドリーゴを避けてしまう。ボブはあなたの扁桃体の中に根づいている。あなたは、パートナーとしてのボブに対する選好性をもっている。あなたはボブに対するフェティシストになったのだ。
ジャケット・フェチに何の進化的意義もないように(本物のジャケット・フェチは、ジャケットなしではセックスができなくなってしまう)、ボブ・フェチにも意味はない。どちらも、「繁殖の面で非効率的」なのだ。しかし、ジャケット・フェチのラットにジャケットを与えれば、彼らのセックスはそれでうまくいく。あなたにボブを与えれば、あなたもまた、うまくいく。あなたは恋に落ち始めているのだ。
(p.145 - 146)
この本で繰り返し強調されるのは、人間はプレーリーハタネズミと同様に一夫一妻制の志向をもっており、特定のパートナーとの絆を求める生き物である、ということだ。わたしたちはたしかにセックスから快感(オピオイド)を得られるし、それを求めてセックスをするが、セックスから得られるのはそれだけではない。セックスによって放出されるオキシトシンやヴァソプレッシン、それによって形成される「愛」も、わたしたちは必要としている。
とはいえ、第7章の「恋愛中毒」では、「愛」とは薬物に類似したものであるということも論じられている。パートナーとの絆の形成には意欲に関するホルモンであるドーパミンも作用するが、このドーパミンは、薬物乱用を引き起こす原因ともなっている。著者らは、薬物中毒者たちが薬物に対して抱く感情は、わたしたちがパートナーに対して抱く感情と酷似していることを指摘する(中毒者たちは、薬物に「恋い焦がれる」のだ)。そして、パートナーと離別したりパートナーを亡くしたりした人が経験する感情は、薬物の切れた依存者が経験する感情と同様であるとも論じられているのだ。
パートナーと絆を形成することは「ライフルに弾を込める」ことでもある。ストレス物質であるコルチコトロピンの放出因度は、パートナーを持っていなハタネズミに比べて、パートナーから引き離されて落ち込んでいるハタネズミとパートナーが側にいて幸せに暮らしているハタネズミとの両方で、急増する。絆を形成すること自体がコルチコトロピンを放出する原因となるのだ。とはいえ、ストレス物質が増えることと、ストレスにかかわる回路が発火することは同一ではない。パートナーがいるハタネズミは、そのパートナーを見失ったときには多大なストレス応答を引き起こされることになるが、パートナーが側にいる限りはストレス物質は鎮静しているのである。
ひと度、家に戻れば、別れによってもたらされた不安を和らげるために、オキシトシンが一役買ってくれるかもしれない。ライフルは火を噴くのをやめ、ストレス応答系は平常時の状態に戻る。
ヒトにとって、恋に落ちるのは頭に銃を突きつけるようなものだ。あなたは恋愛関係に誘いこまれ、その楽しみを満喫し、だがしかし、時が経てばその喜びは薄れ、強迫衝動がそれに取って代わる。
「そう、ある人が、初めは恋愛関係で素晴らしい感覚を覚えるという場面に、よく似ています。コルチコトロピン放出因子はおとなしくしていて、ドーパミンによる報酬系がその場を仕切っています」とボッシュは言う。「良い気持ちです。すべてが最高。すべてが素晴らしい。そしてしばらく経つと、自然のしくみが、パートナーとまだ一緒にいたいかと、あなたに確認するのです。パートナーの下を去るとすぐに、あなたはこのしくみによって嫌な気持ちになります。これが、起きていることの全体像というわけです」。
それはつまり、ハタネズミが巣に戻るのは、彼らが自分のパートナーと一緒にいたいという、前向きな意欲をもち続けているーー「好き」の状態にあるーーからだというのか、それとも、別離による苦しみを止めたいーー「必要だ」の状態にあるーーからだというのか。私たちはボッシュの考えを聞いてみた。
苦しみを止めたいから、と彼は答えた。
「私たちにも、この標準状態があるんですよ、その『標準』が何であるかはともかくとして。その嫌な気持ちが、あなたを家に戻らせるんです」
(p. 317 -318)
とはいえ、弾を込めたライフルを自分に向けることには、「パートナーと家庭を築いて一緒に子供を育てること」など、長期的な幸福を得られる道から自分がはみ出すのを防ぐという利点もある。また、パートナーに会えない状態が苦しみと感じられることで、彼や彼女と再会してセックスする際の快感は増大することになるのだ。このために、同じ相手と毎日するセックスや、ゆきずりの相手とたまにするセックスに比べて、遠距離恋愛のパートナーとたまにするセックスはずっと気持ちのいいものとなる(らしい)。
しかし、いざパートナーと別れてライフルの弾が発射されてしまうと、発火したストレス回路の影響力は深刻なものとなる。恋人を失った人は、自殺すらしかねない。また、パートナーと別れた直後の人が仕事に集中できなくなって、相手の痕跡(残された髪の毛やメモ、相手と一緒に行った場所や一緒に食べた料理など)に敏感になることは、薬物を禁止された中毒者の反応とそっくりであるのだ。ついでに言うと、いちど禁断症状から脱出できた人がわずかなきっかけで再び薬物にハマってしまうのと、いちど別れたカップルのやけぼっくいに火がつくのも同じようなメカニズムである。
なお、失恋によって受けるダメージは、一般的には男性のほうが大きい。女性は他の女性から感情的・社会的なサポートを受けやすいのに対して、恋人のいる男性は、自分の感情リソースのすべてを恋人に対して突っこんでしまう傾向があるからだ。逆に言うと、女性はパートナー以外の相手にも親愛の情を抱くために、男性に比べて傷付く頻度は高くなる。
メスは薬物の報酬や、薬物を摂取した場所についての選好性が強くなりやすいようだった。ボッシュの実験では、オスの仲間と引き離されたオスたちは、その別れを悲しんでいなかった。しかし、他のメスーー例えば、長く一緒に暮らしたケージの仲間や姉妹、つまり、互いを社会的に支え合ったメスであれば誰でもーーと引き離されたメスは、そのことを嘆き悲しんだのだ。オスは、自分の感情という資産をすべて、メスのパートナーという一つの銀行に預けてしまう。メスは、自分の母親、姉妹、仲の良いメスの友達、あるいはオスのパートナーを失うと、それぞれ落ち込んだ様子を見せる。うつに苦しむ女性の割合が、男性のおよそ二倍にのぼることの背景を理解する上で、こうしたことも手がかりになるかもしれない。
(p.320)
ところで、人間もハタネズミも一夫一妻制で暮らしているとはいえ、人間もハタネズミも浮気はする。
第8章の「浮気のパラドックス」ではこの問題が扱われるが、そこで強調されるのは、社会関係における一夫一妻制とセックスにおける一夫一妻制は異なるものである、ということだ。先述してきたように、愛のあるセックスからはゆきずりのセックスでは得られない種類の情緒を得ることができるが、それはそれとして、パートナーシップが長期化すると純粋な快感や情熱はマンネリ化によって衰えてしまう。性的な欲求や能力も減退していく。しかし、新規にセックスできる相手に出会えると、性的な欲求や能力は回復してしまうのである。この現象はクーリッジ効果と名付けられている(Wikipediaの記事にすらなっている)。
浮気を求める傾向は男女ともに備わっている(男性のほうが強いようであるが)。一方で、同じようなチャンスがあるときに浮気をするかどうかは、個人によって異なる。ある人が新しい相手とのセックスにどれだけの興味を持つかは、新奇探索性、冒険性、大胆さなどのパーソナリティに関する遺伝的な影響にも左右されるのだ。そして、言うまでもなく、わたしたちが生きる環境や文化も、浮気を実行するかしないかの判断に影響を与える。
文化は私たちの脳を反映し、しばしば、脳内での葛藤も反映する。社会関係上の絆は、確実に性的な欲求と衝突している。それゆえ、私たちは貞操帯を、ブルカを、女性器の切除を作り出してきた。結婚制度と、結婚生活を破壊したことに対する責任のとらせかたを定めた。離婚は高くつく。不倫が見つかるのに伴い、社会的に辱めを受けることは多く、キャリアへの悪影響もありうる。アメリカ軍では、統一軍事裁判法の姦通禁止条項違反で刑事告発されることがある。社会はこうした手段で、浮気のコストを高め、私たちの判断能力を活用することで、パートナー以外とのセックスに対する欲望を抑えこもうとしてきた。
こうした防波堤が必要だという事実からは、ヒトがまるで、自然の意図とは食い違ったことをしているように思えてくる。進化が、社会関係上の絆と性的衝動の間の、こうした力のせめぎ合いを、私たちの中に組み込んだのかもしれない。数百万年もの進化の過程の中で、男女は自己利益を巡る一種の戦争に身を投じてきた。メスは、常に自分の子孫のために、得られる中で最高の遺伝子を探し求めてきたのかもしれない。それに成功するためには、繁殖力を高め、同時に、パートナー以外の相手を探し、その繁殖力を活用するほどの大胆さも併せもつ必要が出てくるのだろう。その一方で、オスは自分のもつ精子をすべてばらまくよう、しかしまた、メスが他のどんなオスともーー特に、彼女たちの繁殖期にはーー交尾させるのを阻止するよう、駆り立てられているのかもしれない。そのため、私たちは嫉妬深く自分のパートナーを守り、配偶者防衛への自然な衝動を制度化するため、性的な一夫一婦制の文化的規範を構築する。私たちは、愛する者に一夫一婦制を求めるが、必ずしも、自分自身にもそれを求めるとは限らない。
(p.364 - 365)
普段は一夫一妻制でありながらもときとして性的な浮気をしてしまうのは、人間やハタネズミに限らず、ゼブラフィンチや皇帝ペンギンなどの鳥類でも同じことだ。
逆に言えば、わたしたちがときとして浮気をしたがるとはいえ、わたしたちは多夫多妻制を求めている、ということにもならないのである。
上述したように性的な一夫一妻制のある程度までは文化によって強制されるものであるが、それと同時に、わたしたちが自然に求めることでもある。人間にせよハタネズミや鳥類にせよ、長期的な性的パートナーシップを築いた個体の半分ほどは、浮気をおこなわない。また、セックスをほとんどしなくなったパートナーシップであっても、何十年も結婚生活を続けている人はそうでない人たちよりも人生に対する満足感が高く、健康に長生きする可能性も高いのだ。
ヒトは性的な一夫一婦制をとるように作られているのか、という質問に対する真の答えは、こうなりそうだ。「場合による。一部の人々はそうだ。他の人々は、それほどでないかもしれない」。
性的な一夫一婦制という問題は、人間や動物は〔全体として〕何をするようにできているかというよりも、個人・個体として、脳の影響によって何をしやすい傾向にあるかということにかかわってくる。スワッガート、バカー、そして、「今日のセックス・スキャンダルお騒がせ有名人」たちのような人々が、彼らを名声に導くだけではなく、パートナー以外との情事に向かわせてしまう傾向の性質をもっている可能性はある。だからと言って、そうではない他の人々が、心地良い、幸せな生活にこれ以上ないほど身を落ち着ける傾向があって、家庭以外でのセックスを本気で考えたことはまったくない、ということではない。ある人々が薬物に惹かれやすい、惹かれにくい、というのと同じことだ。
(……中略……)
社会関係上の一夫一婦制と性的な一夫一婦制、両方を受け入れることが最適だと感じる人々もいるだろうし、手持ちの札を混ぜて、新しいものを求める人々も出てくるだろう。遊びの関係についてパートナーと交渉する人々もいるだろうし、全面的に「聞かない、言わない」方針を打ち出す人々もいるかもしれない。
(p. 369 -370)
さて、ジェンダーの問題に関する著者らの見解は、以下のような箇所によく示されている。
ラリーの信念は、脳の観点から見ると、男性は女性の「ベイビー=赤ん坊」であり、女性は男性のなわばりの延長であるというものだ。これは、ヒトの愛について語る上で、政治的に必ずしも最良の配慮をもった表現ではない。多くの人々は、こうした認識は時代遅れのステレオタイプだと思いたがる。だが、そうではない。私たちはこの問題をごまかすこともできるが、最後に物を言うのは自然の摂理だ。
(p.289)
文化、遺伝子、養育、そして私たちの脳の間に、強力な相互作用がある。しかし、文化はジェンダーを作り出すことはないーージェンダーを反映するのだ。ジェンダーは、すべてのことに影響する。私たちが誰を愛するかということから、私たちがベッドの枠をプロレスのトップロープの金具に見立て、そこから飛び降りるのを面白がるかどうかに至るまで(アメリカの病院で、救急救命室にケガで運び込まれる人々の大部分が男の子である理由の一つが、ここにある)。しかしなお、多くの人々は文化がセクシュアリティを生み出すのだと主張している。なぜなら、その物語が彼らの世界観に合うからだ。
(p.402)
これは生物学者としては突飛でもない見解だろうが、人文系の学者や左派の多くからは鼻白まれるものだろう*2。また、母親の子育てが子どもの自閉症リスクを後天的に高める可能性など、最近ではタブー視されている話題にも切り込んでいる。条件付きとはいえ一夫一妻制度が自然なものであるという点を認めているところも、たとえば左派でラディカリストなクリストファー・ライアンが『性の進化論』で多夫多妻制を強調したことに比べれば、保守的な主張であると言えるだろう。
なので、どちらかと言えば、この本の内容は保守的で政治的に正しくなく、人によっては「右寄り」に感じられるものかもしれない。
とはいえ、先日の記事でも書いた通り、わたしは『性と愛の脳科学』は原著の出版時点からかなり面白く読むことができた。
「女性は男を赤ん坊扱いして、男性は女を所有物扱いする」という著者らの議論は、もしかしたら、社会のステレオタイプを素朴に反映してしまっただけの、事実に基づかない誤った主張であるかもしれない。しかし、もしかしたら、「女性は男を赤ん坊扱いするものである、男性は女を所有物扱いするものだ」というステレオタイプをわたしたちが抱いているのは、事実がそうであるからかもしれない*3。あるいは半分くらい正しくて半分くらいは正しくないかもしれない。いずれにせよ、生物学や脳科学の専門家ではないわたしたちには判断しきれないところだ。なので、この本の内容をすべて鵜呑みにするわけにはいかないかもしれない。だけれど、なんにせよ、面白い本であることは間違いないだろう。いろいろとタメになるし。