道徳的動物日記

倫理学、社会科学、時事問題、世相などについて論じます。

読書メモ:『尊厳ーーその歴史と意味』

 

 

 海外の哲学者が「尊厳」という概念について主にカントとカソリック哲学を参照しながら解説した本の邦訳。新書本ではあるが、内容はそれなりに専門的で、なかなか堅い。

 この本は「尊厳」という概念についての入門であると同時に、カント倫理学の考え方についてもある種の入門となっている。

 著者は、カントの尊厳論について、以下のように要約している。

 

カントが道徳性を展望する際の基本的な出発点は、私たちが自らのうちに「無条件的で比較できない」価値をもつ何ものかーー「人格性」あるいは「人間性の尊厳」ーーを抱えているということである。その価値は手段としてではなく「目的」として扱われなければならない。 しかし、それは人間の行動によって増加したり、人間によって達成されるべき目標として機能したりするものではない。それは、私たちの「動物としての生命」と同一のものではないし、私たちが物理的な破壊から守るべきものでもないーー逆に、それは私たちに、自分の命を犠牲にすることを要求するかもしれないのである。したがって、人間性の尊厳は私たちの振る舞いの指針として機能するが、それはあまり直接的なものではない。それは私たちに、人格のなかの人間性に「名誉」を与えたり「敬意」を払ったりするように振る舞うことを求めるのである。「私たちの人格のなかの人間性」は、それ自体として追求されるべき、あるいは増進されるべき目的ではないが、カントによれば、それを敬うことは、特定の目的ーー「自己の感性と他者の幸福」ーーを追求することを、そして、自然だとされる特定の目標(評判がよくない例をあげれば、自らの性的能力を「不自然に」使用しないこと)に従うことを、私たちに求める。もちろん、私たちはまた、適切に普遍化されうる原理や、「利己心、意地悪さ、他者の利用、他者の権利の無視」を確実に禁止するような原理にもとづいて行動することが求められる。しかし私は、この種の自己中心的な振る舞いこそが「カントの不道徳な振る舞いのモデル」だするコースガードには同意できない。それどころか、そのような義務は、カントにとって、他のより基本的な要件の文脈において生じてきたものとして理解されるべきである。

(p.198 - 199)

 

 カントは「人間が自らの内部に侵しがたく有しているような、法をつくる道徳性の機能」(p.35)こそが敬うべき対象であり、人間に尊厳を与えるものだと論じた。わたしたちが「法をつくる」能力を持っていることは、他人を敬う義務を基礎づけるだけでなく、自分自身のなかに崇高さを感じて自尊心を抱くべき根拠ともなっている。

 また、フリードリッヒ・フォン・シラーは『優美と尊厳について』という著作のなかで、「自発的に立派に行動できる能力」を「優美」と、「自らの自然な傾きの抵抗にもかかわらず立派に行動できる能力」を「尊厳」と定義付けた。カントは「よい行動をしようとする自発的で反省に欠ける気質」には道徳的価値はないと論じたが(カントは「傾向性」にはいかなる場合にも道徳的価値はないとみなしているからだ)、シラーは「優美な人とは、ただ正しいことをするだけでなく、内的葛藤や苦しい選択の過程なしにそれを行う人のことである」と論じることで、傾向性にも道徳的価値が含まれる可能性を主張した(p.45)。けっきょくカントはシラーの「優美」論を否定するのだが、「尊厳」論に関してはカントもシラーも主張は似通っている。どうすれば道徳的に生きれるかということを自分の頭で考えて道徳的に行為をするためのルールを作ったり、自分のなかに生じた欲求や自分の性格や気質に備わっている欠点に抗いつつ道徳的に行為しようとしたりする有り様のなかに、わたしたちの尊厳が見出されるということだ。

 カントの尊厳論は、現代でも、人間が権利を持つことの根拠として持ち出される定番の議論となっている。

 また、現代のカント倫理学者たちは以下のような主張をしている。

 

[クリスティン・]コースガードと[オノラ・]オニール(ともにジョン・ロールズの弟子である)のふたりは、カント的な道徳理論の最も洗練された今日的提唱者である。人間それ自身を目的として扱うことが何であるかについての彼女たちの説明は、合理的な行為主体としての人間の性質に結びついているーーコースガードの場合、それは、ものに価値を与える合理的な選択の力に結びついているし、オニールの場合は、諸個人が(合理的に)同意できるような方法でかれらを扱う必要性に結びついている(もちろん、これらの説明が相互補完的であることは容易に理解できる)。どちらも大まかにいえば、人間それ自身が目的であることが何であるかについて、主意主義(voluntaristic)な説明をしていることになるーーもちろんそれは、恣意的な選択によるあれこれの行動が絶対的な価値をもつという意味ではなく、人間には、一般的な意志の力と、自分たちの望みを理性の原理によって制限する力の両方を有することによって、内在的な価値がそなわっているという意味である。

(p.114)

 

 

 社会における具体的な問題のなかで「尊厳」という概念が特にキーとなるのは、医療に関する諸問題(安楽死インフォームド・コンセントなど)、そして戦争や刑罰などの「本人たちが望む扱いとはかけ離れた方法で人びとを扱うことが正しいとされる事例」(p.161)だ。つまり、敵国の兵士だろうが犯罪者だろうが、かれらを殺したり行動を制限したりすることは認められても辱めたり貶めたりすることは認められない、ということだ。ときと場合によっては、人の尊厳を傷付けることは、人を殺すことよりもさらに重大な道徳的問題を引き起こすのだ。

 そして、わたしたちは生きている人間だけでなく死んでいる人間に対しても尊厳を見出す。この本の第3章では、「だれかの遺体を埋葬せずに放置することも尊厳の侵害になるはずだ」という問題意識から出発して、そのような事例ではわたしたちはだれの尊厳が侵害されていて、わたしたちはだれに対して義務を負っているのか、という難題に挑まれる。この章では進化心理や功利主義、内在主義や外在主義に義務論などの様々な倫理学理論が答えの候補として取り上げられては却下されるということが繰り返されており、にわかに応用倫理学っぽい内容になっている。

「尊厳を傷付ける」という行為の問題点についての著者の最終的な見解とは、そのような行為は人から「人間性」を奪って「動物的」なレベルに貶めようとするものであるから許されない、というところであるようだ。

 

人間に対する侮蔑をどのように表現するかは、当然のことながら、文化や文脈によって異なる。しかし、そこには一定の目立った共通のテーマがある。人間の間に社会的な地位の顕著な区分がある(あった)場所において誰かの尊厳を奪う際には、表現あるいは象徴として、かれらを、典型的に非常に低い社会的な地位に位置づけるようなやり方で扱うことになるのだーーかれらは、文字通り、貶められるのである。もうひとつの特徴的な区分(それは、すでに見たようにキケロの『義務について』にまでさかのぼる)においては、人間の尊厳は、人間と動物を区別する振る舞いーーたとえば、直立して歩く、衣服を着用する、テーブルマナーに沿って食事をとる、プライベートな空間で排泄し、性行為を行うーーによって表現される。拷問者や殺人者は、ここに狙いをつける。大量虐殺のプロパガンダのレトリックは、週刊誌『シュテュルマー』のユダヤ人を昆虫にみたてた漫画から、ルワンダのフツ人がツチ人を「ゴキブリ」に見立てた描写まで、その犠牲者の人間性を否定するという点では、まったくもって似通ったものになっている。

シラーが認識していたように、人間性に対する敬意は、私たちが動物的な存在であるという紛れもない物質的な事実を避けることができない場合においてさえーー死や苦しみといった文脈においてさえーー(あるいは、実際、そのような場合においてこそ)、私たちに人間の価値を際立たせることを求める。そこで、私がとても感動した(そして勇気づけられた)カントについての有名な話でこの本を締めくくりたい。それは彼の死の九日前のことだった。その偉大な男は年老いて、絶望的に衰弱していた。にもかかわらず、彼は客人(彼の医者)が先に席に着くまで、自分が座ることを拒んだ。最終的に座るよう説得されたとき、カントはこう言ったという。「人間性の感覚はまだ私を見捨てていない」、と。

(p.206 - 207)