道徳的動物日記

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社会性の収斂進化、「社会性」は「善」であるのか?(読書メモ:『ブループリント:「よい未来」を築くための進化論と人類史』)

 

 

 この本のメインの主張である「青写真(社会性一式)」に関する議論などは先日の記事で紹介したので、今回は、感想とか気に入った部分の引用とかだけで済ませよう。

 

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・副題には「進化論と人類史」とあるが、基本的には進化論の話がメイン。下巻の後半からは文化進化論の紹介が多くなるが、歴史の議論がそこまで詳細にされるわけではない。内容としては、人間と動物(特に霊長類やゾウなどの社会性の高い動物たち)との共通点を示しながらも、人間には他の動物たちよりも際立った「文化」があることも強調しながら、人間の生物学的側面のなかでも善い部分に根付いた社会は「善い社会」となり得る点……といったことが主張される。

 最終章では規範的な議論が展開されるが、えらいことにいろんな倫理学者たちについて紹介しながら、著者なりの主張がバシッと示される*1。人間の生物学的傾向を強調し、さらには「生物学的傾向に従うのが善い」という部分まで含む著者の主張は「自然主義的誤謬」との批判を容易に招きかねないもであるから、その想定される批判に対して先回りした反論が展開されているのだ。

 ……とはいえ、先日の記事でもちらっと触れたが、著者と同じように人間の生物学的傾向の存在を認めたり生来的な利他性についても認識したりしながらも、最終的には「生物学的傾向に従うのではなく、理性に従うことが真に善い社会を築くためには必要だ」という結論を出す一部の功利主義者たち(ピーター・シンガーとかジョシュア・グリーンとか功利主義者じゃないかもしれないけどジョセフ・ヒースとか)の議論がほとんど紹介されないのは気になるところだ。わたしが見たところ、著者の議論にとって最も手強い論敵になるのは、「自然主義的誤謬だ!」とやいのやいのと文句を付けてくる人文学者や社会構築主義者などではなくて、進化心理学を理解したうえで生物学的傾向よりも理性の優位性を強調するタイプの論者であるはずだからだ。

 また、規範的な議論が展開されるのはほぼほぼ最終章だけに限られていることもあって、突き詰めが足りていない感じもする。

 

 とはいえ、最終章から印象に残った箇所を引用。

 

道徳的判断は世界を叙述するものではなく、規定するものであるから、これに反証は不可能であり、したがって道徳的判断は科学的でないというのが一般的な感覚だ。地球は平らだという主張が正しいとか誤っているとか言うことはできるにしても、殺人は悪いことであるという主張に対して同じように客観的な見解を述べることはできない。にもかかわらず、倫理には何かしら客観的なものがあるようにも見える。ヒュームが論じたように、たしかに倫理は私たちが世界に見出す客観的なものごとの状態に関係しているが、そこにはまた別の、「感情によって決定される」何かも含まれている。

(p.274)

※以下、引用はすべて下巻から。

 

第二次大戦後には、イギリスの哲学者リチャード・マーヴィン・ヘアの提唱による一連の考えても出てきた。ヘアは一九四二年に捕虜になってから、クウェー川に沿っての長い行軍と日本軍の収容所生活を生き延びていた。人間は自由に価値観を選択できるとの認識を保持しながら、同時にヘアは、その選択は制約に抗ってなされるものだとも論じた。個人の倫理は、あちこちに揺れ動きながらも、最終的には数々の根本的な制約に突き当たる。その制約は、何か客観的なもの、みずからの外にあるもの、言い換えれば、自然によって課されている。少なくとも倫理のある部分は、突き詰めれば自然なものだと言えるのだ。

この論は、次のように展開される。何をもって時計であるとするか(それは時間を正確に告げるものである)を理解すれば、時計の果たす機能が善いのか悪いのかを判断する立場に立てる。同様に、何をもって人間であるとするかを理解すれば、人間のなす経験が善いのか悪いのかを判断する立場に立てる。

たとえば愛する資質を欠いた人間は、人間であることを完全に満たしてはおらず、それは悪いことであると言えるかもしれない。この見方からすると、一連の自然な制約と定義は、それがなかったら果てしなく続く相対主義的な道徳の後退を止めることができる。社会が構成員の幸せや生存を強化するのなら、そのような社会は善いものだと言える。そうした制約に対して、進化も倫理も無縁ではない。これもまた古い考えで、少なくともプラトンアリストテレスまでさかのぼれる。

(p.275 - 276)

 

同じように、優しさや勇気といった人間の徳についても語ることができる。これらの徳は「自然な優秀性」であり、その反対は「自然な欠陥性」だ。〔フィリッパ・〕フットは「道徳的な行動は合理的な行動である」と論じ、倫理は人類の本性によって課される制約によって決定されうると説明した。人間の場合、「合理的」であるとは、人間は社会的に生きているときこそ善いということを意味する。人間は自然にそうするよう強いられているからだ。善い社会をつくることに関連するかぎりにおいて、人間が完全に人間であることを可能にする倫理は、人間の進化的過去に導かれている。

(p. 276 - 277)

 

・この本では、人間ほどではなくてもそれに準ずるくらい複雑な社会を築く動物たちーー霊長類、クジラ類、そしてゾウーーには、人間に準ずるような個体識別能力やアイデンティティ認知能力があって、彼らはときに利他的な行動をおこない、仲間とのあいだに友情を築いたり仲間が死んだら悲しんだりする、ということが示されている。

 霊長類はともかくゾウやクジラは進化的には人間からはずっと縁遠い存在であるが、それでも彼らは人間に類比できるような社会性を持っているのだ(その能力は、人間性や道徳性と呼ばれることもあるものである)。

 この不思議を、著者は「収斂進化」によって説明する。ゾウもクジラも人間も、ほかの動物たちに比べて高度な社会を築くようになるにつれて、同様の能力を身に付けることを要請された。自然環境だけでなく、自分たちが集団生活を営むことで身を置くようになった社会的環境にも適応する必要が生じたからだ。

 

私たちが目の構造をタコと共有できるとすれば、友情を結ぶ能力はゾウと共有できる。霊長類、ゾウ、クジラには社会性一式の要素が見られる。なぜなら、それらの動物たちは七五〇〇万年以上前に共通の祖先から枝分かれしたという事実にもかかわらず、環境が課した困難に対処するため、そうした形質を別個に、かつ収斂して進化させてきたからだ。当初、環境による困難は外的なものだった。しかし、やがて、動物たちがつくった社会的集団もまたその環境の特徴になり、彼らの社会的行動をさらに形成し強化していった。動物は社会的集団に身を置く頻度が高まるにつれて、社会的生活がうまくできるように進化していくのだ。

(p.58)

 

集団で生きることには、単独で生きる場合とはもちろん、一夫一妻で生きる場合ともまた違った難しさがある。人間は生存戦略として集団生活を採用した。そして、その(社会的)環境でできるだけうまく生きていけるように、たくさんの適応を(身体的形質や本能的行動も含めて)果たす一方で、単独生活に適した適応は放置した。このトレードオフにより、人間は地理的にとてつもない範囲に広まって、地球上の支配的な種になることができた。

自分の生きる物理的環境をそっくり背負って移動するカタツムリと同じように、人間もまた、友達と集団からなる社会的な生息環境をどこに行くときでも保持している。この社会的な保護殻に包まれていればこそ、私たちはとんでもなく多種多様な条件下で生存できるのだ。つまり私たち人類という種は、友情、協力、社会的学習に依存するよう進化したわけであるーーたとえこれらの麗しい資質が、烈火のような競争と暴力から生まれたのだとしても。

人類という種に見られるこれらの形質がまさしく普遍的であることは、第7章で見たように、これらが霊長類からゾウにいたるまで、ほかのさまざまな社会的動物に偏在していることからも証明される。連携を築いたり認識したりする能力は、社会的動物にとって必須のものであり、ある個体を友か敵か、自分の集団の部内者か部外者かに類別する能力は、正しく連携をとるのに絶対に欠かせない認知技能なのだ。

(p.108)

 

・わたしが思うに、「人間と一部の動物たちは、収斂進化によって同様の社会的な感情を身につけるに至った」という考え方は、動物倫理学にも示唆をもたらすものである。

 この考え方が正しいければ、ウシやブタやニワトリを殺すことよりも、あるいはイヌやネコを殺すことよりも、チンパンジーやゾウやイルカを殺すことはという主張は正当化される可能性が高い。社会性の高い動物は、自己アイデンティティ認知能力が高いためにほかの動物たちよりも「自分の生命」に対する利害が強いだけでなく、仲間たちのアイデンティティも認知できて仲間たちと絆を紡ぐことができるために、ほかの動物たちよりも「仲間の生命」に対する利害も強いと見なすことができる。……つまり、一匹を殺せばほかの仲間たちがその死を悼むような動物を殺すことは、殺される一匹だけでなく残された仲間たちにとっても危害となる、というわけだ。

 功利主義だけでなく、カント的な義務論や徳倫理でも、それぞれの理路において「社会性の高い動物を殺すことはとりわけ悪い」ということは説明できそうだ。

 さらには、自己に関する認知能力は高そうだが他者に関する認知能力はそれほど高そうでもなさそうな鳥類と、霊長類やクジラ類とを区別する論拠にもなるだろう*2

 

・この本で展開されている議論はやや総花的であり、文化進化論ならジョゼフ・ヘンリック、社会性とか集団的な道徳心理に関わる部分はジョナサン・ハイト、一夫一妻制に関する議論はラリー・ヤングで動物の社会性に関する議論ならフランス・ドゥ・ヴァールと、進化論や心理学に詳しい人ならそれぞれ別の学者の著書でもっと深く展開されている主張が浅口なかたちで短めに紹介される、という場面が多い。いちおう、著者のオリジナルな主張である「社会的ネットワーク」に関する議論も紹介されるのだが、ここの部分だけ言っていることが大したことなく感じられてあまり面白くない。他の学者たちの議論と「社会的ネットワーク」に関する議論がうまく接続できているかどうかも、正直に言うと微妙なところだ。最終章における規範的な議論との接続は、輪をかけてうまくいっていない。

 実際のところ、最後まで読んでも、著者の主張のどこがどのように目新しいのかはわたしにはよくわからなかった。人間は複雑な社会に適応するための諸々の特徴を備えていることはずっと前から進化心理学で言われていることだし、生物学的特徴をあまり無視したコミュニティはうまく行かないという話もそりゃそうだとしか言いようがないし、文化進化論や自己家畜化論だってもはや常識になりつつあるし。

 さらに、著者には「人間性」を「社会性」に還元して、さらにそれと「善」を早急に直結させたがる、という悪癖があるようだ。そのために、内集団バイアスについても「みんなが思っているほど危ないものではない」とばかりに論じられていて、なかなか危うい(たとえば、わたしたちに「友を愛し、敵を憎む傾向がある」ことよりも「私たちは友好的であり、親切であり…他人と協力し、互いに教え、教わることができる」という点に注目しよう、という主張がなされているのだが(p.109)、いやいや昨今の情勢で「敵を憎む傾向」が引き起こす問題点を無視することは無理でしょう)。

 

 

*1:『怒りの人類史』の著者にも見習ってほしい。

*2:ここら辺の議論はこちらを参照。

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