道徳的動物日記

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ネットリンチと「非難」の問題

 

 

 

『ルポ ネットリンチで人生を壊された人たち』から引用する*1

 

最初に何人かが「ジャスティン・サッコは悪人だ」と意見を述べた。その何人かに対して即座に称賛の声があがった。かのローザ・パークス(訳註:バスに白人席と黒人席があった時代に、運転手に注意されても白人に席を譲らなかった黒人女性)のように、差別に敢然と立ち向かった人として扱われたのだ。すぐに「称賛」というフィードバックがあったことで、称賛された側はそのままの行動を継続する決断を下した。

(p.480)

 

「称賛」というキーワードは、ネットリンチやキャンセル・カルチャーが起こる理由を理解するうえで重要なポイントになるように思える。

 

 インターネットの世界では忘れがちだが、わたしたちが生きる日常の世界では、「非難」とは必ずしも褒められる行為ではない。

 どんな集団であっても、手や足を動かして何かをしている人や、グループやチームのリーダとなってみんなをまとめる人のほうが、他人を非難ばかりしている人よりも価値があるとされる。非難という行為は何かを生み出せることもできなければ、物事を前に進められることもないからだ。

 ここにおいては、非難者のクレームの内容が正確であったり、非難される人が実際に非難に値する行為や言動をしたかどうかということは別問題だ。日常世界の道徳とは法律ではない。原因や理由があったとしても、ただちに告発や制裁が行われるようには運営されていないのである。

 ひとつの理由は、些細なことによる非難がいちいち認められて制裁がくだされていたら、生産性や効率性といったものが全く失われてしまうからである。

 もうひとつの理由は、「万人の万人による闘争」という状況を防ぐために、「お互いさま」という観点が必要とされることだ。人間とは実に独善的な存在だ。「他人の目のなかのおが屑は見えても、自分の目のなかの丸太は見えない」という状態こそが、道徳心理のデフォルトである。大概の場合、非難をする人は、相手の罪や問題を実際よりも過大に評価している。そして、自分の側にもなにかしらの欠点や落ち度があったり、別の場面や将来の場面では自分も非難されるような行為や言動をしている可能性について、考えをめぐらせない。したがって、非難する人の告発をそのまま認めずに、なあなあに済ませたり「手打ち」が行なわれたりされることは、非難する人のためでもあるのだ。

 また、非難によって相手に制裁を与えようとすることは、手段は間接的であれど「加害行為」であることには違いない。だから、非難行為に暗黙のリスクが課されているのは、正しいことだ。たとえば、日常世界では、非難の内容が間違っていたり勘違いであったり過剰であったりした場合には、非難された側ではなく非難した側が評判を下げて白い目で見られることになるだろう。その事態を避けるために、非難をしようとしている人は、非難の内容が正当であるかどうかについて冷静に考えることになる。考えた結果「やっぱり自分にも落ち度があるかもしれない」「これくらいのことで非難するのは時間や労力の無駄だ」と判断して非難を取り下げるのならそれでもよいし、覚悟を決めて非難を実行するならそれでもよい。

 覚悟を決めたうえで、その非難の内容が客観的にみても正当であった場合には、それは称賛に値する行為と認められるかもしれない。

 

 しかし、言うまでもなく、SNSでだれかを非難するときには「覚悟」は必要とされない。そもそも、SNSにおける非難は身内に対してではなく縁もゆかりもない人に対しておこなわれることが大半だ。そして、その非難の様子を眺めているオーディエンスたちのほうも、非難している人とも非難されている人とも関係のない部外者である。

 このような状況では、日常世界の道徳におけるバランス機能は消失してしまうようだ。

 おそらく、大概の場合において、オーディエンスの大半は非難者に対して「文句ばっかりつければいいってもんじゃねえだろ」「そう言うお前のほうは他人を非難できるほど立派な人間なのかよ」などなどとネガティブな心証を抱いている。しかし、そのネガティブな心証をわざわざ表明して本人に伝える人はごくわずかだ。ふつうの人々は、自分と関係ない人たち同士の揉め事についていちいち口を出したりコメントをしたりしないものなのである。

 だけれど、ふつうでない人々が、口を出したりコメントをしたりする。したがって、SNSで非難をした人は、自分と同じ属性やイデオロギーを持つ人の非難行為や"弱者"による非難行為を目にしたらほぼ自動的に賛同するタイプの人々による「称賛」を受けとれることになるのだ。

「称賛」という報酬に酔ってしまったせいか、だれかを非難することでしか自分の価値や徳を示せなくなっていて、非難を通じてしか社会にコミットメントできなくなっている人は、SNSの至るところにあらわれている。

 でも、だれかの発言や行動をあげつらって批判する文章を140字以内で書き込むことは、どう考えても、ローザ・パークスの行動とはまったく別物だ。そこにはリスクがなく、覚悟も必要とされない。信念だってほとんど存在しないだろう。

 

 まとめてしまうと、インターネットやSNSでは、「非難」という行為に対するコストが少な過ぎて、報酬が多過ぎる。これが、ネットリンチやキャンセル・カルチャーがいつまで経ってもなくならず、今後も増加し続ける理由だ。

「キャンセル・カルチャーには弊害があるかもしれないが、これまではいじめやセクハラの被害者は黙って耐え忍んでいて加害者がのうのうと生きていた状況が不正なのであり、キャンセル・カルチャーによってその状況が是正されるのならそれはよいことだ」と言った種類の擁護意見はよく目にする。わたしもちょっと前までは「たしかにそういう面もあるな」と思っていたが、いまではほとんど賛同できなくなっている。

 まず、キャンセル・カルチャーやネットリンチが発生した時点で、対立の構図は「被害者:加害者」から「集団:個人」に移行する点は看過されるべきではない。そこで弱者となるのは、いじめをしていたりセクハラをしていたりした人である。さらに、社会的制裁とは法廷でないから弁護士がつかないし、そもそも裁判官も存在しない。いるのは検察官だけだ。先述したように、日常道徳というバランサーや調節弁も失われている。…この状況の不正さはちょっと異常なものだ。

 そして、「非難」に覚悟が必要とされなくなって、だれもがお手軽に他人を非難できて、他人を非難したらチヤホヤされて気分が良くなれるような世の中は、あまりにみっともなさすぎる。結局のところ、非難はおこなわないほうがよい行為であり、どうしてもという場合に仕方なくしかおこなうべきでない、というくらいに位置付けられているがちょうどいいのだ。わたしたちが自分の徳を示して人から認められようと思うなら、他人を非難するのではなく、自分で価値を創造したり、他人を支援したりするべきなのである。

 

 余談だけど、先の引用部分の引き続き。

 

ジャスティン・サッコの「事件」が起きてからすぐ後、私は友人のジャーナリストと話をした。その人は、ジョーク好きで、際どい、少しわいせつなことをよく言う人だ、その考え方は「穏当」という言葉からはほど遠い。彼は「もうインターネットに何かを書くことはしない」と言っていた。

SNSって何だか、とても用心して歩かなくちゃいけない場所になっちょね。いつ、何の理由で怒り出すかわからない。心の平衡を失った親にいつも見張られているみたいで、とにかく、何が原因で攻撃されるかわからないから、怖いよ」彼はそう言う。

名前を出さないでほしいと言われたので、ここに彼の名前は書かない。名前が出て、また何か騒ぎの原因になるのが嫌だという。

彼も私も協調性がない方の人間である。そう認めざるを得ない。だが今は、協調性があり、体制に順応する人にばかり居心地の良い、極端に保守的な世界ができつつあるように思う。「私は普通ですよ」「これが普通なんですよ」と皆が終始言っている。

普通とそうでないものの間に境界線を引き、普通の外にいる人たちを除外して、世界を分断するーーそんな時代になりつつあるのではないだろうか。

(p.481 - 482)

 

 ここで提示されている問題は、ジェフリー・ミラーによる「ニューロダイバーシティ」論とも関係しているだろう。

 

davitrice.hatenadiary.jp