道徳的動物日記

『21世紀の道徳』発売中です。amzn.asia/d/1QVJJSj

「特権」概念の不毛さ

 

somethingorange.biz

 

 上記は海燕氏によるブログ記事。

 二週間前の記事だけど、下記について、思うところを書いてみよう。

 

つまり、「ホワイト・フラジリティ」とか「マイクロ・アグレッション」とは、ある体制において特権を持つマジョリティ(この場合は白人)は、たとえリベラルな反差別意識を持っていても、ただ生きているだけで差別主義者であり、その自覚をもって体制を変えていく責任を有する、と告発するための言葉なのだ。

 上の青井ケイさんのツイートでは、ラーメン評論家もまたラーメン業界において不正な権威を持つ存在である以上、たとえ自身が差別やハラスメントを行っておらず、それどころかそれらの行為に反対していてさえ、一定の責任を持つことになるのだ、だから「自分はやっていない」などとイイワケせずに業界の健全化を行え、といいたいのだと思う(たぶん)。

 さて、どうだろうか。あなたはこういった主張をどう考えられるだろうか。正直、ぼくは「ホワイト・フラジリティ」という言葉に初めてふれたとき、強烈な違和感をぬぐい去ることができなかった。

 ある集団におけるマジョリティはすべて何らかの特権を有しているのだから、その差別的な構造を是正する責任を持つ。それくらいならわかる。納得できる。

 しかし、「ある集団におけるマジョリティは生まれながらにして、ただ生きているだけで加害者であり差別主義者なのであり、その構造があるかぎり責任を逃れることはできない。このことを自覚し構造の是正に奉仕せよ」とまでいわれると、さすがについていけないものを感じる。

 『ホワイト・フラジリティ』によれば、そういった「抵抗」を感じることそのものが「心の脆さ(フラジニティ)」なのであって、マジョリティはそれを乗り越えていくべきだとされているのだが、どうだろう、ほんとうにそうだろうか。

 

 前提としてことわっておくと、わたしはまだ『ホワイト・フラジリティ』を読んでいないし、『ホワイト・フラジリティ』が立脚しているらしい「批判的人種理論」についてもちゃんと勉強したことはない*1

 とはいえ、「特権(privilege)」という概念は、『ホワイト・フラジリティ』が翻訳されたり刊行されたりする前からいろいろと議論の的になっている。このブログでも、4年前に、数学者ジェームズ・リンゼイ(James A. Lindsay) と哲学者のピータ・ボゴシアン(Peter Boghossian)による「特権」概念の批判記事を紹介している。……彼らによる元記事はいつの間にか消失しちゃったのだけれど。

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

 わたしは男性であり、なおかつ白人でもあるため、「特権」概念についてはなかなか語りづらいところもある*2

 しかし、冒頭で紹介した海燕氏をはじめとして、人種や性別を問わず、「特権」概念に違和感を抱いている人はかなり多くいるはずだ。

 

 わたしが「特権」概念について問題だと思っている点は、以下のようなものである。

 

1・現状についての新しい発見を促す概念ではない。

 

 たとえば「マイクロ・アグレッション」という概念は、これまでには「差別」や「攻撃」だとみなされてこなかったような些細な言動が人を傷付けたり加害になったりすることを示す概念だ。マイクロ・アグレッションという概念もさまざまなところで批判されているが*3、それはそれとして、これまでに注目されてこなかったような物事や現象(些細な言動による加害)を「発見」して、名前を付けて定義を与えることで、その物事や現象に人々の注目を促すことのできる概念であることはたしかだ。

 

 一方で、「特権」概念にそのような「発見」的な機能があるかどうかは疑わしい。

 ある社会のなかでマジョリティ人種や男性はマイノリティ人種や女性に対して相対的に有利な状態にいる、マイノリティ人種や女性が受けている様々な加害や苦痛をマジョリティ人種や男性は回避できている、ということ自体はずっと前から言われていたことである。マジョリティ人種や男性は相対的に有利な立場にいるがゆえに、マイノリティ人種や女性が被っている差別や被害を減らすために尽力する道徳的義務を負う、という規範的な主張ですら以前から言われていたものだ。

 

「差別」という言葉を用いたこれまでの議論に対して、「特権」という言葉を用いた新しい議論では、同じ現象を記述する際に焦点が「被害者/マイノリティ」から「加害者/マジョリティ」に移行している、とはいえるだろう。つまり、新しい発見を促すための概念というよりも、すでに発見されている現象の記述を変えるための概念であるかもしれない。

 それ自体は問題ではないかもしれないが、「特権」概念には下記のような問題もある。

 

2・ネガティブであり、内輪向けな概念である。

 

これに関しては過去の記事でも(リンゼイやボゴシアンの主張の要約として)書いている。

 

左派が注目すべきなのはマジョリティの"特権"という抽象的な空想的な概念ではなく、マイノリティが実際に様々な場で受けている差別である。現在の社会に深刻な差別が存在していることは確かなのだから、個々の差別を解決するためにはどのようなことをすればいいか、マジョリティはどのようなことをしなければならないか、ということについて具体的で積極的な解決策を論じる必要があるのだ。平等を達成するためには差別問題を解決して不当に低い立場からマイノリティを解放するというポジティブな方向を目指すべきであり、"特権"という概念を主張することでマイノリティがマジョリティを攻撃したりマジョリティ自身が自分の罪について罪の気持ちを抱くようにさせるというネガティブな方向で運動をしても、実際の差別問題が解決することも平等が達成されることもないのである。

 

“マジョリティとは「気にせずにすむ人々」である”というクリシェとも関連してくるが*4、マジョリティの「特権」として指摘されるものの多くは、マイノリティが得られていない利益を不当に得ていることではなく、マイノリティが被っている不利益を被っていないことである。

 でも、本来、「だれかが(不当な)不利益を被っていること」は不当な事態であり改善されるべきことであるとしても、「だれかが(不当な)不利益を被ってないこと」は不当な事態ではなくて望ましいことである。理想的な状況とは、「みんなが(不当な)不利益を被らないこと」であるだろう。

 そして、この理想的な状況を目指すうえで「特権」という概念を持ち出す必要はなく、「差別」という概念だけで事足りる。つまり、「だれかが(不当な)不利益を被っていること」は差別であるとみなして、そのような事態を無くすために努力すればよい、ということである。

 ここにおいて、「だれかが(不当な)不利益を被ってないこと」について言及する意味はとくにないのだ。

 

「特権」概念がポジティブな意味を持つとすれば、「自分はニュートラルな状態にいる」と思っていたマジョリティが、自分の状況のことを「自分は不利益を被らずに生きているが、マイノリティは不利益を被って生きていることをふまえれば、自分は不当に優遇された状態に生きている」と「反省」して、マイノリティが被る差別を解決するために運動したりアライになったりする……という時であろう。というか、そもそも、「特権」概念は反省を促すために創出された言葉なのであると思う。

 しかし、実際には、自分の特権を自覚して反省するタイプの人々のうちの大半は、特権概念が創出される以前からもともと反省しているように思える。つまり、「白人特権」や「男性特権」という言葉に興味を示して、その概念について学んで理解して、反省にまでつなげられるような人は、もともとがリベラルで差別問題に対して意識が高く左派的な社会運動に同調的でマイノリティのアライな人々であるように見受けられるのだ。言うまでもなく、そういう人は少数派であるが。

 そして、差別問題についてそこそこ以下の意識しかなかったり左派的な社会運動に同調していない人がいきなり「特権」概念を突きつけられたところで、それを理解して受け入れることは稀であるように思える。

 そもそも、だれかの考え方を変えたり自分の意見に同調させようとするときに、相手の「罪」を指摘して批判・非難したりすることはまったくの逆効果しかもたらさない。原則として、人は自分のことを非難されたくないものであり、非難されたら自己正当化の心理がはたらいて非難者の意見を拒絶するようになるものであるからだ*5。だから、「特権」概念は、差別問題について意識の低い人や鈍感な人にも「反省」を促してアライの輪を拡張するという目的に対しては逆効果にしかなっていないように思える。

 日本語圏のSNSを見ていても、せいぜいのところ、「特権」概念は他人に対する糾弾に使われるか(これについては後述する)、内輪向けの「美徳シグナリング」に使われるかのどちらかであるようだ*6。つまり、男性であったりシスジェンダーであったりネイティブ日本人であったりなどの「マジョリティ」な人が、女性であったりトランスジェンダーであったり在日外国人であったりなどの「マイノリティ」な人々に向けて「自分の特権について反省する」というパフォーマンスをおこなう、ということである。いつも眺めていて思うのだけれど、あれでなにがどう事態が改善したり物事がよくなったりするのか、さっぱりわからない。

 別の言い方をすれば、「特権」概念とは、「内輪」のみで共有されている道徳的価値観を反映したシグナリングをおこなうことで「内輪」の団結を固めるためのもの、というフシがある。

 団結が固まることは、それはそれでよいかもしれないが、ジョナサン・ハイトによる「道徳は人々を結びつけると同時に盲目にする」という名言も忘れるべきではない。それは後者の「糾弾」の問題と裏表でもあるのだ。

 

3・他者に対する糾弾のために用いられて、対立を招く概念である。

 

 これについても過去の記事で書いている。

 

日本のTwitterを眺めていると、トランス女性の側は生物学的女性の「シス特権」をあげつらい、生物学的女性の側はトランス女性の「トランス特権」をあげつらうことで、不毛な非難の応酬となっている様子がうかがえる。

この状況については、「特権」概念は他者を非難する武器として使うだけなら便利で強力なものであるが、妥協点を発見したり利害を調整したりする必要がある場合には逆効果しかもたらさないものである、ということが影響しているだろう。「特権」概念にかかると、「ある属性が経験している困難や感じている苦痛を経験したり感じたりせずに済む属性は、特権を持った存在である」とされる。特権を指摘された人は、本人がどう振る舞っていて他人に対してどう接しているかに関わらず、反省すべき加害者側であり、弱者である属性に対して譲歩を行なうべき存在であるとされてしまうのだ。特権を指摘された人のなかでも真面目であったり気が弱かったりする人は罪悪感を抱いて、実際に反省や譲歩を行うかもしれないが、大半の人はムッとなってしまい、相手の側に対する反感をむしろ強めてしまうものだ。そうなると妥協や合意は遠ざかってしまう。「白人特権」や「男性特権」といった言説ですら逆効果をもたらしてきたものだが、人種の問題や男女の問題と比べても生物学的女性とトランス女性との間における問題では被害や不利益の状況が複雑に入り組んでいるからこそ、特権概念の悪影響はさらに強くなるのだろう。

読書メモ:『ジェンダーの終わり:性とアイデンティティに関する迷信を暴く』(1) - 道徳的動物日記

 

 また、海燕氏による下記の疑問も、もっともなものだ。

 

たとえば、前述の杉田氏は著書『マジョリティ男性にとってのまっとうさとは何か』のなかで、すべてのマジョリティ男性は、たとえリベラルな平等思想を抱いていても性差別主義者であるという意味のことを書いている。

ぼくにもこれはあまりにも過剰で不当な意識に思える。このような主張は、逆に差別の重さを軽んじさせるものではないのか。

これを読まれているあなたはどう思われるだろうか。白人は、男性は、ラーメン評論家は、あるいは日本人全員でも一定以上の資産家みんなでも良いが、そういった人間はただその立場に生まれたというだけで、マイノリティから何とののしられても我慢しなければならないのか。それがリベラルな「まっとうさ」なのか。何かがおかしくはないか。

ラーメン評論家ははんつ遠藤によるセクハラの責任を負うべきなのか? - Something Orange

 

 言うまでもなく、マジョリティ人種であろうと男性であろうと、大半の人は、個人としての辛さを抱えているものだ。

 とくに性別に関しては、女性にも男性にもそれぞれの性に顕著・特徴的な悩みというものが存在しているのであり、それは非対称なものではあるだろうが、ゼロサムゲーム的なものでもない。たとえばキャリア形成における構造的不利益や性的加害・ハラスメントの受けやすさという問題は女性の側に顕著である一方で、キャリア形成へのプレッシャーや孤独や自殺リスクなどは男性の側に顕著な問題だ*7

 いま現在、キャリア形成へのプレッシャーや孤独に苦しむ男性が「男性特権」を糾弾されたら、反発を抱くのも当たり前であるだろう。そうやって糾弾すること自体が非倫理的である、とすら主張できるように思える。

 

 こうやっていろいろと考えていくと、差別について新しい社会学用語や社会運動用語を用いて論じたり考えたり主張したりすること自体を一旦ストップしてもいいのではないか、と思えるようになってきた。

 いまこの世の中に存在する差別の問題や、不正義や不道徳って、既存の用語だけでも十分に論じたり考えたり主張したりすることができるはずである。もちろん、差別や不正義や不道徳の問題は一朝一夕に解決できるわけではない(完全に解決することは未来永劫ないだろう)。だからこそ、漸進的で地道なアプローチが必要とされるはずだ。

 ……しかし、どうにもみんな新しい用語や概念を作りたがるし、新しい概念を作れば問題の理解だけでなく問題の解決にもつながるに決まっている、と認識しているフシがある。でも、たぶん、その認識は誤りなのだ。

 

 

 

*1:

diamond.jp

“White Fragility”でディアンジェロは、批判的人種理論(Critical Race Theory)にもとづいてきわめて明快な主張をしているが、それは日本人(とりわけ「リベラル」)にとって容易には理解しがたいものだ。

*2:とはいえ、上のリンクにある橘玲氏の記事によると「白人特権」は「アメリカ(or欧州)で生まれ育った白人」のみに当てはまるようなので、わたしは「白人特権」は持たないということになるかもしれない。

*3:

davitrice.hatenadiary.jp

*4:

note.com

*5:

 

社会運動について、「相手の心を変える」ことで成果につなげる実践的なテクニックを紹介するこの本のなかで、とくに強調されていたことだ。

*6:

…それは、「自分の集団の連携を保持して、敵対する集団の連携を破壊しようとする心理的適応」である。これは、左派の場合にはジェンダーの平等や社会正義の達成など、"集団において望ましいとされている目標に自分がコミットしていること"を他人に広く知らしめるために主に用いられる行動であり、心理学的には「Virtue Signalling(美徳のシグナリング)」と呼ばれるものだ。

進化心理学はなぜ批判されるのか? - 道徳的動物日記

*7:

gendai.ismedia.jp

gendai.ismedia.jp