道徳的動物日記

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伝統を守ればいいというものではない(『啓蒙思想2.0』読書メモ②)

 

 

 前回の記事で書いた通り、理性とは不自然なものであり、せいぜいが適応の副産物に過ぎず、その力は限られている。

 たとえば、野球でボールがフライとなったとき、外野手は空を見上げながらボールを追っているうちに直感やヒューリスティックによってボールがどこに落ちるかがおおむねわかって、大体の場合にボールをキャッチしてアウトにすることができる(人間や動物には、さまざまな物理現象に関して考えなかったり仕組みがわかっていなかったりしても対応できるヒューリスティックが存在しているからだ)。一方で、「ボールがどこに落ちるかをまず割り出して、そこに向かって全速力でダッシュすれば、取りこぼしなく確実にボールがゲットできる」という考えは、机上の空論であり現実には確実にうまくいかない。バットで打たれたボールがどこに落ちるかを即座に計算できるほど、わたしたちの理性は高度ではないためである。

 また、植民地経営や開発援助の歴史では、現地人が伝統的に行ってきた農業や慣習について西洋人が善意から「そのやり方は非合理的だから、こうやったほうがうまくいく」とアドバイスした結果、状況がめちゃくちゃになる、という事例に事足りない。たとえば、ヨーロッパでは土壌浸食を防ぐために畝を作ることは有効だが、アフリカのマラウイの土壌で畝を作るとシロアリが侵食したり雨季には逆に土壌浸食がひどくなってしまった、など。ある地域や共同体に(畝を作らない、特定の作物を栽培しない、などの)「伝統」が残っている場合には、「理由」があるものと考えられる。日本でも、地名には災害の記録が残っているとか神社の鳥居は災害から安全な場所の目印となるとかいったことはよく言われている*1

 

…まったくのよそ者が複雑な生態系に入り込んでいき、どのように事態をまとめるのが最善かを基本的原則から考え出せる可能性は、ほとんどない。ところが、これこそ合理主義者が性懲りもなくなくくり返してきたことなのだ。

近代の保守主義はこうした啓蒙思想の傲慢への反動として誕生した。そのことはG・W・F・ヘーゲルの力強いがあいまいな「現実的なものは合理的」という命題に、見事に要約されている。つまり理にかなわないように思える場合にも、よく見れば、ものごとがそうなっている理由はたいがいあることがわかる、ということだ。人々はそれがどういう理由かを説明できないかもしれず、結局それは最大の理由ではないかもしれないが、現状をいじくる前に、ましてや解体し再建しようとする前に、その理由が何なのかを理解することが必要だ。こうして保守主義の気質は、どうすれば元に戻せるか、いわんや改善できるかを知らずに事物を分解する啓蒙思想の合理主義的傾向に対する、伝統の擁護として生まれたのである。

(p.97)

 

 第三章「文明の基本:保守主義がうまくいく場合」でヒースが取り上げるのは、『フランス革命省察』を著したことで有名なイギリスの思想家、エドマンド・バークだ。

 バークは革命に反対して伝統を擁護したが、その主たる論拠は、伝統的に存在する制度や慣習というものは長年にわたってなされてきた多くの微調整の産物であり、その制度や慣習が存在する理由をはっきりと述べることはできない場合でも、実際には存在するに至るなにかしらの理由が存在すると見なすべきである、というものだ。「こういう制度を作ったらみんなが幸せになるだろう」と頭で考えてイチから制度を作ろうとすると、思わぬところで非効率や不均衡などが出てきて、うまく行かない可能性が高い(というか、歴史上、理性でイチから社会を建設しようとしてうまくいった事例は存在しない)。それよりも、うまくいかないところの改善や問題への対策が蓄積されている、現状の社会と伝統を守ればいい、というのがバークの主張だ。

 ヒースによると、バークは伝統に従うことを支持するための合理的な議論を提出している。バークの主張は根っからの反合理主義というわけではなく、一種の新伝統主義であるのだ。

 

 理性がうまくいかない場面は多々ある。たとえば、因果関係を見つけにくいような物事や、介入から結果が出るまでに長時間かかるような物事は、理性よりも伝統や監修にしたがったほうがいい。インプットとアウトプットの相関が不明な物事においては、アウトプットを理性によってコントロールすることはほぼ不可能だ。子育てはこの最たる事例であり、大半の人が子育てに関しては保守的になる(また、子育ての経験によってその気質も保守的になる)。自分が親に育てられた方法を自分の子どもに実践しつつ、自分が嫌いだった部分や明らかに逆効果だった部分だけは取り除いたり変更したりする、という新伝統主義を子育て中の親たちは実践しているのだ。また、プラトンの時代から合理主義者やユートピア主義者は「家族」という制度を嫌っていたが、家族制度を廃止して集団的な子育てシステムを生み出そうとする試みは常に失敗してきたのである。

 社会を効率的に機能させるためには人々の協力が不可欠になるが、狩猟採集民の小規模な社会に適応して進化してきたわたしたちは、一定の人数を超える見知らぬ人たちが関わるなかで協力行動を行うようには進化してきていない。そのため、社会が機能するためには、集合行為のジレンマ報復感情フリーライダーの問題に対処しなければいけない。そして、諸々の制度や慣習は、人に自己利益や抜け駆けを諦めさせて協力へと誘導するために存在するのだ。たとえば、学校でのクラス分けやナショナリズムや宗教とは、部族主義バイアスを社会のために利用するクルージである。そして、家族という制度を廃止できないのと同じように、ナショナリズムを廃止しようとする試みも失敗してきた。

 裁判制度も、報復感情に基づく行動を禁じさせて、フリーライダーに対する処罰の権限を国家に独占させることで、社会を機能させるものだ。

 

もし文明の根本原理と呼ぶにふさわしいものがあるとすれば、それはこれ(引用注:裁判制度)だろう。実際、社会が乗り越えるべき大きなハードルの一つが、部族社会から階級社会への移行である。部族社会でとても高度な強力システムが組織されたとしても、そこで達成できる複雑さのレベルには明らかな限界がある。あらゆる主要な世界文明は、部族への忠誠を、広く階層的に組織され、実力行使の独占を要求する国家に従属させてはじめて発展したのだ。

(p.175)

 

 啓蒙思想家のなかにはベンサムやカントのように「道徳とは理性的なものだ」と主張する人もいればヒュームのように「道徳とは感情的なものである」と主張する人もいただ。が、そのどちらにせよ、道徳とは個人の内側に見出されるものだという考えを持っていた。しかし、ヒースによると、道徳も外的な環境を抜きには機能しないのである。

 

…周知のとおり、人々は伝統のくびきから解き放たれたら、おのずともっと大きな自由や平等に惹かれるわけではない。道徳的に行動するよう自分を動機づけるため多様な環境的クルージを駆使するのは、さほど驚くことではないだろう。ショッキングな発見は、道徳的な問題の判断までも環境に依存しきっていることだ。もっと協力的に行動すべきだと合理的に洞察している場合でも、実際にそのようにする意欲は、他者はどうするかの予想にあまりに大きく依存している。ほかのみんなが賄賂を受け取っているなら、収賄は「たいしたことじゃない」し、そのうえで個人が差し控えるのは無駄なことだと思う。そしてほかのみんなが囚人を拷問し民間人を殺害しているなら、やはり囚人を拷問し民間人を殺害することは「たいしたことじゃない」と考えがちなのだ。

したがって、道徳は私たちの心や頭のうちに存するではなく、複雑な文化的人工物であり、時間をかけて再生産・修正され、もともと個人間の相互作用のなかに「生きている」ものであると考えるほうがいい。これをはぎとったら、人々は本当に錯乱する恐れがある。

(p.122 - 123)

 

 しかし、伝統は「知恵」の積み重ねであるかもしれないが、見方を変えれば「偏見」の積み重ねでもある*2。たとえば、現代では女性に対する伝統的な態度は改められているし、その改変は失敗ではなく成功として判断できるだろう。伝統だからといって、何もかもを変えずに守ればいいというわけでもないのだ。

 さらに、現代の保守主義者たちはもはやバークのように伝統を擁護してはいない。代わりに彼らが擁護するようになったのは直感だ。直感は伝統と同様に理性と対立するものではあるが、理性とも伝統とも比べても、直感には欠陥が多い。そして、直感でも伝統でも不十分であって、理性が必要とされる場面というものは、やはり存在するのだ。

 

 第四章「直感が間違うとき:そして、なぜまだ理性が必要か」と第五章「理路整然と考えるのは難しい:新しい啓蒙思想の落とし穴と課題」で、ヒースは直感に備わる様々な欠点を挙げる。

 たとえば、信念の持続という現象により、わたしたちは一度抱いた印象やバイアスをそれが間違っていると途中でわかっても修正するのがこんなになる。また、わたしたちには様々なかたちで社会性が生まれつき備わっているが、上述したとおりそれは狩猟採集民の小規模な社会に最適化されたものであり、社会性や道徳に関して私たちに備わっている生身の感覚は、現代社会ではむしろトラブルの種になる。

 また、わたしたちは短期的な利益は考慮できるが長期的な利益は考慮できない将来の利益を割り引いて考えてしまう(双曲割引)、誘惑に弱い。確証バイアスによって自分の仮説にとって都合のいい証拠ばかりを集めてしまうし、逆に信念バイアスによって自分が間違っていると思った仮説については都合の悪いところばかりを目にしてしまうので、陰謀論疑似科学にコロリと騙されてしまう。

 そして、これらの問題に対処するうえでは、理性と制度、どちらもが必要となるのだ。

 

さて問題は、私たちが扱っているものをどのように区別すべきかだ。この場合には、瞬時の認識が見事に予知するか、それとも厄介きわまりない認知バイアスの元凶になるのか。実のところ、答えがどちらかも重要ではない。重要なのは、どのように答えを決めるかだ。なぜなら、この問いに答える唯一の方法は、それを合理的に考えることだから。そこにこそ理性と直感の決定的な違いがある。どちらの能力にも限界も強みもあるとはいえ、理性には自身の限界を対照実験などによって反省し認識できるが、直感にはできない。私たちは己の直感の限界を直感的に把握できないし、それどころか直感の信頼性の判断に用いているヒューリスティックには明らかに欠陥がある

(実際、直感は「正しくても正しくなくても、自分が正しいと告げる奇妙な本能」と評されてきた)。そのうえ、直感は自己補正できない。有効かどうかなど関知せずに同じ手を使いつづけるだけだ。

(p.128 - 129)

 

もちろん、限界の見きわめや欠点の修正に関して、理性は偉大だと言いたいのではない。それどころか、理性の歴史はほとんど過信と無理の連続であった。啓蒙思想1・0の欠陥のおおよそは理性の限界の認識不足から生じており、エドマンド・バークに代表される保守主義の反動はこの点の修正に役立った。自分の欠点と向き合うのは、いついかなるときにも困難な仕事である。理性の欠点はさておいて、大事なのは、この仕事をいくらかでもできる機能は理性だけということだ。だから限界を認識したあとでも、理性は直感よりよいという結論にとどまる。

(p.129)

 

だから結局、理性が最上位とされなければならない。すべての問題を片づけるのではなく、片づけ方を決めるという意味で。理性は、私たちがいつ直感に耳を傾けるか、いつ直感的反応を静止したり抑制したりするかの究極の決定者であるべきだ。無意識の働きがいかに目覚ましく印象深いものでも、私たちの乏しい論理思考がいかに不活発で偏向していても、人間の文化および社会の進歩の可能性は、まさしく理性の働きにかかっている。だから人類の幸福が多くの意味で論理的思考の能力によっていることは銘記すべきである。

(p.130)

 

 このあたりは、倫理学における「二層功利主義」の議論を思い出すところだ*3

 

 また、ヒースは伝統や制度が「袋小路」にはまり込む事例についても紹介している。

 たとえば、いったん警官たちが賄賂を受け取り出す状態になると、制度の細かい修正や漸進的な対策でこの状態を是正することは非常に困難だ。どんなルールを新たに制定してもそのルールの執行者は警官たち自身であること(強制力の問題)と、副収入が生まれることで警察の給料そのものの賃下げが起こってしまいそれまで賄賂を受け取っていなかった警官たちも賄賂を受け取るようになるということである(インセンティブの問題)。このような状況では、現状の警察制度の解体や総取っ替えなど、ラディカルで抜本的な対策が必要になる(実際に、2005年のグルジアでは交通警察隊の腐敗を一掃するために、30,000人の警察官全員を解雇するという手立てがとられた)。

 

したがって、社会変革はどのように起こるべきかという疑問への万能の解決法はない。バーク式の伝統への信頼とともに漸進的社会改革の効力がぴたりとはまるときもある。しかしまた、啓蒙思想の合理主義と急進的な改革が求められるときもある。例を挙げると、アメリカの警察制度は大きな権力の集中が生じないよう設計されている。その結果として、漸進的改革以外のことは非常に達成しがたくなってしまった。しかも漸進主義から生じる非効率は、時間が経つほどに蓄積されていくものだ。

(…略…)…アメリカの政治制度ではどうしても、何に対しても「オーバーホール」を行うことができない。

アメリカ人の多くはこれが自国のシステムの長所であると自分に言い聞かせているが、世界のどの国も模倣していないという事実が多くを物語っている。大きな問題には思い切った解決が要求されるときもある。これは経営者が理解に達したことだ。組織によって改革すればよいものもあるが、いったん解体して、まったく異なる原則に沿って組み立て直すべきものもある。「ボトムアップ」の解決法の力を尊重する必要はあるが、お互いの敵対心を自己拘束するシステムにすっかりはまって抜け出せない場合に備え、革新的で包括的な改革の余地も残しておかなければならない。だから理性の力を誇張しないことが大切である一方で、複雑なシステムの理解という点では、、ときに状況を進展させる唯一の方法は大きく野心的な改革計画であると心得ておくこともまた重要だ。しかし大きな計画は、合理的な能力を働かすことによってのみ、策定され実行されうるものである。

(p.178)

 

 ところで、「現実的なものは合理的」というヘーゲル - バーク式の「新伝統主義」は、現代のSNSの世界でも、ちょっとばかし知恵のついた保守主義者や差別主義者が好んで用いる論法であることには注意したほうがいいだろう。

 

企業や職場の様々に残る様々な旧弊的な制度、就活や飲み会などにおける謎のマナー、学校における部活や行事、地域共同体の慣習や因習…などなど、世の中には「非合理」に見える物事がありふれている。そして、往々にして、非合理な物事は誰かに負担をかけたり苦痛を与えたりなどの「危害」を生じさせるものだ。そのため、非合理的な物事は非倫理的であると批判されることが多い。

だが、誰かが物事の非合理性を批判したときには、必ずといっていいほど、別の「合理性」を持ち出すことでその物事を擁護する人があらわれる。「個人の観点からすれば非合理であるが、組織や規律の維持という観点では合理的だ」とか「短期的に見れば非合理だが、長期的に見れば合理的だ」などなどだ。

こういう議論について私はちょっとうんざりしているところがある。いかにも「理屈と軟膏はどこにでも付けられる」といった感じで、まったく説得力が感じられないことが大半であるからだ。

また、多くの場合には、対象の物事について最初に問題提起された「非合理性」から別の軸の「合理性」へと話をすり替えることで、その物事が誰かに危害を与えているという「非倫理性」についての告発が無効化されてしまうことになる、という点も気になるところだ。

「一見非合理的に見えるものにも実は合理的な理由がある」論について - 道徳的動物日記

 

 ヒースが、間違っていたものであり結果的に改められるにいたった伝統の例として「女性に対する伝統的な態度」を挙げているのは、やはり重要だ。

 たとえば昨今では夫婦別姓制度の導入に関する議論において、「合理的には理由は説明できなくても夫婦同姓の制度やイエ制度は長年守られてきた伝統だから、なにかの役に立っている可能性が高いから破壊すべきではないんだ」ということを主張する人が多々いる。しかし、ほぼ例外なく、彼らの主張においては(別姓を選択したいと思っている)女性の利益や幸福ということがまったく考慮されておらず、ふわふわした抽象的なものとしての「社会」や「国家」の利益しか考えられていない。実際のところは、「女の声によって物事や制度が変わるのがイヤだ」という反動的・差別的な感覚や意識を肯定するために「新伝統主義」の理屈を後付けで用いているに過ぎないのだろう。

 また、ヒース自身も、(部族主義バイアスを現代社会でうまく機能させるクルージとしての)ナショナリズムには好意的であるようだし、また、『反逆の神話』などでは「制服」という制度に対しての好意的な言及をしている。しかし、以前にも書いたように、ナショナリズムであろうが制服であろうが弊害は存在する*4。そして、ネットにおいて「制服必要論」を唱えたり賛同したりしているタイプの人々って、だいたいにおいて本人がおしゃれに関心がなく自由や自律も重視していなくて、「服装の自由」とそれに伴う利益が自分にとって無縁であるからその自由を制限するほうの考え方に手っ取りばやく飛びついているだけ、という風にしか見えない。「どの伝統や制度を守るべきか、どの伝統や制度を改善するべきか」という問題について考えるうえでは、それぞれの論者の気質やパーソナリティや関心や趣味嗜好とそれに由来するバイアスという点にも注意するべきだろう。

 …他人事みたいに書いているけれど、同様の問題は、わたしがよくやっている進化心理学の議論でも起こりがちなことであることには留意しなければいけない。

 

*1:

gendai.ismedia.jp

togetter.com

*2:ヒースは言及していないが、バーク自身は「偏見」という態度を好意的な意味で使っていたはずだ。

*3:

 

この問題に対して著者が提示する解決方法は「二層理論」だ。日々の生活や現場における直観レベルの道徳は偏っていて限定的であるくらいの方がうまく機能するので、その観点からすれば「ケア」のように偏りや不公平を含む倫理も認められる(自分の家族を他の人よりも優先すべき、など)。しかし、複雑な問題に時間をかけて対処したり制度設計をしたりなどの批判的思考が必要となるレベルにおける道徳は公平なものであらねばならない。そして、直観レベルにおけるケアの実践のあり方も、批判的のレベルの道徳(つまり、正義の倫理)による精査の対象とされなければならない。

ケアの倫理と二層理論/「アイデンティティ哲学」がつまらない理由 - 道徳的動物日記

 

 

davitrice.hatenadiary.jp

*4:

中学や高校で学ランを着せられていたわたしとしては、実はを言うとヒースのような論者による「制服必要論」にはあまり賛同しない。学ランは暑いし重苦しいし不潔だし、女子の学校制服には痴漢などの性犯罪を誘発する側面がやはりあるだろう。また、「制服がないことで学校の規律が乱れたり過度なファッション競争が繰り広げられたりすることよりも、制服によって個人の自由や自律が抑圧されることの方がよっぽど深刻な問題だ」という主張はそれはそれでもっともなものであると思っている。

現実の問題を解決することから遠ざかるラディカリズム(『反逆の神話』読書メモ:後半) - 道徳的動物日記