道徳的動物日記

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ファストフードとゲームは依存を悪化させて健康と時間を奪う(『啓蒙思想2.0』読書メモ⑥)

 

 

啓蒙思想2.0』の主なテーマは「非合理化する政治」であるが、現代社会では、政治に限らずわたしたちの「生活」全般が、非合理なものとなっている。

 

 これまでの記事でも述べてきた通り、わたしたちには様々な非合理的なバイアスや心理的な傾向と衝動が備わっていることを前提としたうえで、それらのバイアスや衝動が原因で起きる可能性のある問題を事前に回避してわたしたちの生活の質を向上させるためにこそ、「文明」が存在する。人間そのものは非合理であるかもしれないが、様々な制度や取り決まりのおかげで、長期的な観点からみて自分にとって得になる合理的な選択へと促されるように、わたしたちが生活する環境が整えられているのだ。

 通常、生物にとって「環境」とはどうしようもないものであり、生存と繁殖を左右するプレッシャーを一方的に与えてくるものだ。しかし、人間は、まず集団的に環境をコントロールすることで、個人にとって環境を友好的なものへと改造する力を持つのである。

 しかし、資本主義的な消費社会では、もはや環境はわたしたちにとって友好的なものであるとは限らない。むしろ、文明は、ある点では自然状態よりもさらに個人にとって敵対的な環境を生み出してしまう。

 

現代社会の不自然な特徴の多くはーー私たちの自然な問題解決ヒューリスティックを混乱させ、まずい決定へと導く特徴はーーまさにそれが私たちを誤った方向へ進ませる傾向のために開発され、普及してきている。ここから生じる認知の失敗は、偶然の産物ではなく主目的なのだ。

(p.195)

 

 ヒースが具体例としてあげるのは、「洗濯洗剤」のキャップだ。洗剤のキャップは、一回の洗濯に必要なぶんよりもずっと多くの洗剤が入るようになっており、適量を示す目盛りはわざと見づらくされて、さらに液体の量に関する錯覚を起こさせるために幅を伸ばして高さを低くした形状に作られている。これにより、洗濯をするときには、よっぽど注意深い人でないと、ほぼ必然的に必要以上の量の洗剤を投入してしまうことになるのだ。ではなぜ洗剤を作る会社が消費者に対してそんな仕打ちをしてくるかというと、もちろん、洗剤の消費量を増やして利益を稼ぐためである。

 ……これはアメリカやカナダの話であり、もしかしたら日本の洗剤のキャップはそんな悪意のある設計にはなっていないかもしれない。しかし、どこぞのコンビニの弁当とか、どこぞのコンビニのサンドイッチとか、どこぞのお菓子とか、実際よりも多くの量が入っているかのようにわたしたちを「錯覚」させることを意図して開発されている商品は日本にもごまんとある。

 ヒースは、このような商品は「人を愚かにするという課題に絶妙に適合した人工物」であるとして、ディセプラー(欺くもの)と表現している。

 

こうしたディセプターのすべてに共通するのは、直感的な問題解決ヒューリスティックを失敗させることだが、そのことは本来の目的から外れてはいない。これらはまさしく意思決定力を損なう手だてだからこそ成功したデザインとなっている。

(p.197 - 198)

 

 現代社会では、環境の「逆適応」が人為的に引き起こされているともいえる。

 

 

(アンディ・)クラークはこのように、私たちの性質や行動習性に反応して周囲のものが進化する過程を表現するのに、逆適応という言葉を使っている。私たちが自己複製するために環境の要素に依存しているのと同様に、環境の要素のなかには自己複製するために私たちに依存しているものもある。このように、いつしか環境に対処するように体と脳が適応するのみならず、環境のほうでも人間に対処するよう、さまざまにーー全体としても細かな面でもーー適応しているのだ。この種の逆適応は人間のためになるものもあるが、そうでないものが多い。

(p.200)

 

 自然界で起こる逆適応の代表的な例は、「人間に食べられやすくなるために、果実がどんどん甘く、無毒で、色鮮やかになっていく」というものだ。そうしなければ、他の果実との競争に負けて、人間に食べられなくなって種を撒くことができなくなってしまうからだ。

 人間の文化のなかでは、言語や物語や歌などにも逆適応がはたらいている。ある言語は他の言語に比べて使用されやすくなるように、ある物語は他の物語に比べて記憶されて語られやすくなるように、人間の性質にあわせて「進化」する。果実のあいだで競争がはたらいているのと同じように、言語や物語や歌のあいだでも競争がはたらいてきた。そして、マクドナルドのハンバーガーやケンタッキーのフライドチキンも、他の料理との競争のなかでわたしたちの普遍的な味覚を適切に刺激するように「進化」してきたからこそ、生き延びてきた。ファストフードやチェーン店の食事は逆適応の産物であるのだ。

 Twitterの「バズるレシピ」ではごま油やチーズやめんつゆが過剰に使われがちであり、ほかの食材を使った繊細な味付けの料理はなかなかバズらないのも、Twitterのレシピがバズるかどうかはまさに「競争」の産物であるからだろう。ネット民は「サイゼリアが成功した理由」をあれこれと語りたがるが、「安くて味が濃い料理は、競争で有利になる」という大前提を忘れてはならない。

 

だから周囲の世界を、特に構築された環境の諸要素を見るとき、もとからこうなのだと、私たちの生活の背景にすぎないと思ってはならない。それは逆に私たちに合わせて絶えず変化し適応している。このことは重要な問題を提起する。文化のなかで作動する逆適応の過程は、人間の意思決定の質にとって、より有益な環境か、より有害な環境か、どちらを生み出しそうであろうか?

(p.203)

 

 現代社会の問題のひとつは、大量の「依存性物質」に対処しなければならないことだ。歴史上、たいていの社会は、対処する必要のある依存性物質はひとつかふたつであった(ヨーロッパにはタバコがなく、アメリカ大陸にはアルコールがなくて、アジアの人は主にアヘンを吸っていた)。しかし、近代以降の国際貿易によって、どこの国でもタバコとアルコールの両方(とアヘンやコカインなどの麻薬)がお店に並ぶようになった。技術の発展は、メタンフェタミンを用いた覚醒剤アルカロイドを用いたオピオイド鎮痛剤などの新たな依存物質を量産することを可能にした。

 食べ物やギャンブルも、わたしたちを「依存」へと向かわせるように進化している。スナック菓子は、その味付けだけでなく形状までもが、ひとくち食べたときの辛味や甘味などの刺激を最大化する代わりに後味を味気なくすることで「もっと食べたい」と思わせることを目的として創造されている。そして、コンビニやスーパーでレジの前にミニサイズのお菓子が並べられていることも、ほんとうは欲しくもないものに対してつい「買ってもいいかな」とわたしたちの思わせるための環境的な戦略だ。

 ギャンブルでも、パチンコやスロットマシンを見ればわかるように、ギャンブラーの射幸心を煽るためにありとあらゆるテクノロジーが費やされている。さらに、カジノやパチンコ店では、照明や音楽や絨毯を工夫して、無料の飲食物を提供して、窓や時計を店内に置かないことで、環境そのものが「ギャンブルを止める」という選択を妨害するように設計されている。

 インターネットで表示される広告には性的な画像や生理的不快感を催す画像、下品な文字列や低俗なストーリーが溢れているが、それだって、そういう広告のほうがそうでない広告よりクリックされてきたという「自然淘汰」の産物である。また、電子メールやFacebookのメッセージ機能には中毒性があることは以前から指摘されてきたのであり、携帯電話でネットが使えるようになってから人々のメッセージ依存はさらに悪化した。Twitterのプラットフォームはメッセージ依存を最大化させることに特化している。ビデオゲームは「進化」をつづけてきたが、それが意味するところは、わたしたちのゲーム依存が悪化させられつづけて時間が奪われつづけてきたということである。そして、スマホでゲームができるようになったことにより、電車のなかでもトイレのなかでも人は本や漫画を読んだりする代わりにゲームをするようになってしまった。そして、インターネット依存やゲーム依存は、睡眠時間を奪うことで、わたしたちの健康を直接的に害しているのだ。

 

分けて考えれば、これらの流行はどれも害のない楽しみだと主張することはたやすい。しかし事実上すべてが罠であり、人間心理の弱みにつけ入るように設計された環境を組み立てることが個人に与える、グローバルな影響を認識することは必要だ。私たちは自分の創造する環境がしだいに身体的に心地よくなるのは当然だと思いがちだが、こうした環境は絶えず心理的有害になりつつあることに充分な懸念を呼び起こせていない。世界が正気をなくしたーーいや、もっと控えめに言えば、現代社会全般で理性が低下したーーと考える理由を探っているならば、理論の要素は手元にそろっている。私たち人間は正しい論理思考をするために環境に大きく依存しているが、環境はつねに進化し、人間の不合理性につけ込むような文化遺物に味方する逆適応の過程を経ている。だから時とともに、私たちはますます努力しなければならない。直感的な問題解決策はだんだん不適切になっていくからだ。そして失敗するヒューリスティックを抑えるのに必要な認知資源は元来不足しているから、私たちはいよいよ遅れをとることになる。

(p.211 - 212)

 

  いちおう、依存にはセルフコントロールという対抗策がある。しかし、依存性物質の数がますます増えていき、依存させるテクニックがどんどん巧妙になっていく現代社会では、個人のセルフコントロールはあまりに無力だ。どう考ても、現状に責任があるのは個人を依存させようとしてくる諸々の商品の環境の側にあり、標的にされている個人の側ではない。

 

anond.hatelabo.jp

 

togetter.com

 

 ソーシャルゲームにおける「ガチャ」のシステムは、射幸心を煽って依存させて不必要な高額の消費を誘導するという点で、パチンコやギャンブルと同等の悪質さを持つものだ。しかし、パチンカーが「パチンコ道」を語りたがったりギャンブラーがギャンブルを「文化」だと言い張りたがったりするのと同じように、オタクやゲーマーはゲームというものが「人を依存させて、時間を奪う」ことに特化して設計されていることをなかなか認めたがらず、自分たちが金と時間を浪費している物事は「価値」のあるものだと思い込もうとする。そのために、「ガチャ」で自己破産してしまった人が出るような事例でも、「問題なのはゲームの側ではなく、自己破産してしまった個人の側にある」と自己責任論を唱えて、ゲームを擁護しようとするのだ。

 ……わたしからすれば、「ガチャ」なんて百害あって一利なしなものに決まっているし、「ガチャ」に手を出したことのない良識のある大人たちの大半もわたしに同意するだろう。逆に言えば、いちどでも「ガチャ」に手を出してしまったことのある人は、自分が有害で悪質な環境に操作されて愚かな行為をしてしまったことを認めたくないから、認知的不協和を避けてアイデンティティを維持するために、「ガチャ」を擁護せざるを得なくなる。

 そして、「ガチャ」やゲームに限らず、有害であったり無益であったりするはずの物事を高尚で有益な文化であるかのように装ってそれらを正当化することは、様々な場面で見かける。おもしろサイトやエンタメ系のブログでしょうもないWebライターやブロガーがゲームやファストフードの提灯記事をせっせと書くこともこの有害な環境を構築するのに一役買っているし、もしかしたら、ゲーム会社やファストフード会社は全て見越したうえで「文化」を人工的に作り上げているのかもしれない。でも、それは有害なのであり、わたしたちの貴重な時間と健康(とお金)を奪っていることを、見逃してはならないのだ。