道徳的動物日記

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デュルーケム流功利主義とダーウィン左翼(『社会はなぜ左と右にわかれるのか』読書メモ②)

 

 

 

 前回の記事ではジョナサン・ハイトによる「道徳基盤理論」をかなりディスって、『社会はなぜ左と右にわかれるのか』という本自体についても辛めの評価をしてしまっていたけれど、読み返していて「再発見」したところも、もちろんある。

 この本の中盤からでは、社会学者のエミール・デュルケームの名前がたびたび出てくる。『社会はなぜ左と右にわかれるのか』は三部構成となっており、第一部では「理性は直感を正当化するために使われる」ということ、第二部では「道徳の感覚は多様である」ということ、第三部では「人間には集団主義的な本能がある」ということが、それぞれ論じられる。そして、ハイトは、第二部と第三部のどちらでもデュルケームの議論を持ち出すのだ。

 

 まず、「ケア」と「公正」(と「自由」)しか重視しないリベラルによる「狭い」道徳観をJ・S・ミルに、六つの道徳基盤のすべてに目を配る保守の「広い」道徳観との対比をデュルケームに代表させることで、ハイトは二つの道徳観を対比させて描く。

 

まず社会を、相互利益のために結ばれた社会契約として考えてみよう。社会のすべての構成員は平等であり、誰もが可能な限り自由に移動し、才能を開花させ、望み通りの人間関係を築けなければならない。契約社会の守護聖人とも言える人物はジョン・スチュアート・ミルで、彼は(『自由論』で)「文明社会のいかなる構成員に対しても、彼の意思に反して権力を行使しても正当と見なせる唯一の目的は、他の構成員に及ぶ危害の防止である」と述べている。ミルの見方は、多くのリベラルとリバタリアンに訴える。ミルの理想とする社会は、さまざまな人々が、互いの権利を尊重し、(オバマの求める「統合」のように)自由意志に従って協力関係を結びながら、助けの必要な人を支援し、社会の利益のために法を改善する、平和で創造的な開かれた場所なのである。

(p.262 - 263)

 

さて今度は、社会を、構成員間の同意としてではなく、人々が共に暮らし、協力関係を結び、互いの私利私欲を抑え、また、グループの協力関係を破壊し続ける異常者やフリーライダーを罰するための手段を発見するにつれ、時間の経過に従って組織的に形成されていくものと考えてみよう。この場合、個人ではなく、階層的に構造化された家族が社会の基礎単位をなし、他の制度のモデルになる。このような社会では、各人は、自立を根本から制限する、強力で制約的な関係の網の目のなかに生まれてくる。結束を重視する、この道徳システムの守護聖人とでも言うべき社会学エミール・デュルケームは、アノミー(無規律な状態)の危険について警告し、一八九七年に「自らが所属すべき上位の実体を何ら認めない人は、高い目標を持つことも、規則に服することもできない。すべての社会的な圧力からわが身を解放することは、自己の責任を放棄し、道徳的に堕落することに等しい」と書いている。デュルケームが理想とする社会は、自由に振る舞わせると浅はかな肉体的快楽に溺れてしまいがちな個人を社会化し、作り変え、ケアする、互いに包含したり一部が重なったりする多数の集団から構成される、安定したネットワークを築き上げる。また、自己表現より自制を、権利より義務を、そして外部の人間に対する関心より自集団への忠誠を重視する。

(p. 263 - 264)

 

 ハイトは、デュルケーム的な社会は階層的・懲罰的・宗教的であり、男女の役割を含めて伝統的な考え方を擁護する、とも論じている。要するに、かなり保守的な社会だということだ。当然のことながら、リベラルはこのような社会を嫌悪する(わたしだってイヤだ)。

 とはいえ、ジョセフ・ヒースの『啓蒙思想2.0』や諸々の進化心理学の議論を読んだ後では、ミル的な社会が想定している人間像はあまりにも理性的で自律的であり、現実とかけ離れている、ということも理解できる。ヒースが述べるように、人間とは外部の環境が整ってはじめて理性を行使できる存在であり、パターナリズムや諸々の保守的で抑圧的な社会制度は、人間が人間らしく生きるためにはむしろ欠かせないものだ*1。人々の間に起こるトラブルを防ぎながら、人々が積極的自由を経験して幸福感や充足が得られる社会とするためには、「危害原則」だけでは不充分である。多少(あるいは、かなり)の抑圧を受けたり自由を侵害されたり義務を負わされたりすることは、ある意味では、人間の条件とも言えるのだ。

 そして、デュルケームといえばマックス・ウェーバーとともに「社会学の開祖」と言われる存在であり、社会学者のロバート・ベラーが『善い社会』でおこなった議論や同じくロバート・パットナムが諸々の本で展開している社会関係資本についての議論も、多かれ少なかれデュルケーム的なものだ(最近だと忘れられがちだけれど、社会学って、けっこう保守的な議論を展開することもある学問なのである)。ミルの議論がいまでも尊重されており権威を持っているのと同じように、デュルケームの議論にも権威がある。そして、リベラルな人たちの価値観がミルと共鳴するのと同じように、保守の人たちの価値観がデュルケームと共鳴するのであれば、保守の人たちを「病理」として扱って切り捨てるのは間違っているのだ。

 

 話がややずれるが、『社会はなぜ左と右にわかれるのか』のなかで、ハイトは自身が学生であったときには大学教授や大学院生はリベラルな価値観を身に付けていることが当たり前に過ぎて、道徳心理学においても、道徳の発達に関する研究は「子どもはどのようにして正しい道徳観(=リベラリズム、カント的な理性に基づく義務論)を発達させるか」という観点からしか、そして保守の道徳観については「なぜ保守の人々は誤った道徳観を身に付けてしまったのか(変化に対する恐れ、自己の存在に対する不安、単純な世界観への固執、両親の厳格な教育などが原因とされる)」という観点からしか言及されていなかった。自分たちのリベラルな価値観を普遍的なスタンダードと見なしていたために、リベラルな志向を保守的な思考と並置して研究する発想や、リベラリズム以外のかたちで道徳感が発達していく可能性について考えていなかったのである。

 現在でも、TwitterなどのSNSでリベラルな学者たちからポロッと漏れる「本音」では、彼や彼女が保守的な価値観や志向を「病理」や「欠落」と見なしたがっていることが露呈している場合が多い(とはいえ、保守の人たちにも、リベラリズムに対して「病理」や「欠落」のレッテルを積極的に貼りに行っている傾向は見受けられるのだけれど)。このような偏りやバイアスに対して果敢に反論している点は、『社会はなぜ左と右にわかれるのか』の明確な美徳である。

 

 さて、デュルケーム「ホモ・デュプレックス」という考え方を提唱しており、ハイトは「ミツバチスイッチ」仮説を論じる第三部でデュルケームのことを強調している。

 

デュルケームは、個人の事実には還元できない「社会的な事実」が存在すると主張している。愛国主義や自殺率などの社会的な事実は、人々の交わりを通して生じる。それは(心理学の対象たる)個人の心理と同様に現実的なものであり、(社会学の)研究対象として大きな意味を有する。マルチレベル選択と「主要な移行」の理論はデュルケームには知るよしもなかったが、彼の社会学はこれらの理論に不思議なくらい一致する。

デュルケームは、個人の心理と二者間の関係のみに基づいて、道徳や宗教を説明しようとするフロイトらの同時代人をたびたび批判している(「神は単なる理想の父親像だ」とフロイトは言った)。それに対して彼は「ホモ・サピエンスはホモ・デュプレックス、つまり個人と、より大きな社会の一部という二つのレベルで存在する生き物だ」と主張する。そして宗教の研究を通して、人は、これら二つのレベルのそれぞれに関して、まったく別の「社会感情」のセットを備えていると結論する。第一のセットは、「個人を仲間の市民に結びつけるもので、共同体における日常の関係のなかで発言する。それには、互いに対して感じる名誉、尊敬、愛情、恐れの感情などがある」。これらの感情は個人レベルで作用する自然選択によって簡単に説明できる。ダーウィンが述べるように、人はそれらを欠く者をパートナーに選ぼうとはしない。

しかしデュルケームは、「人々は、それとは別の一連の情動を経験する能力を持っている」とも言う。

 

第二のセットは、自己を社会全体に結びつけるもので、社会同士の関係のなかで発現し、ゆえに「社会間のもの」と呼べる。第一のセットは、個人の自立と人格にほとんど影響を及ぼさない。それは確かに自己を他者に結びつけるが、自己は独立性を大して失うわけではない。しかし第二のセットに影響を受けて行動する場合には、自己はまったく全体の一部になり、その行動に従い、その影響に身を委ねる。

 

(現実世界の)集団が「社会間の関係」に対処することを手助けする、新たな一連の社会感情が存在すると示唆し、マルチレベル選択の論理に訴えるデュルケームには驚嘆の念を禁じ得ない。これら第二レベルの感情は、ミツバチスイッチをオンにして自己をシャットダウンし、集団志向性を活性化する。かくしてその人は「まったく全体の一部」になるのだ。

(p.349 - 350)

 

 デュルケームが言うところの「第二レベルの感情」のなかでもハイトが特に重要とみなすのが、集団的な儀式によって引き起こされる「集合的沸騰」だ。また、熱狂的な踊り・自然に対する畏敬・メキシコの先住民が使用していた幻覚剤・ロックコンサートにおける「レイブ」などである。これらはいずれも「一から全につながる」的な感覚を生じさせる、とハイトは述べる。……とはいえ、自然に対する畏敬は社会的な感情とは別のものであるような気がするし、幻覚や興奮の感覚が個人と社会との結びつきにどれだけ貢献しているかも怪しいもので、ハイトによる「ミツバチスイッチ」論には全体的に「ほんまかいな」という疑いがつきまとう。集団への帰属の感覚にせよ部族主義にせよ、もっとじわじわしたものだとわたしは思うのだ。

 また、ミツバチスイッチの適応的な役割や起源についてミラーニューロンや集団淘汰の理論を持ち出して説明しているところもじつに胡散臭くて、このあたりはハイトがほかの進化心理学者から批判されたり軽んじられたりする原因にもなっている。以下の箇所だって、「集団間の競争」を抜きにしても説明できるものじゃないかと思う。

 

人間が有する二重の本性には集団志向性が含まれるということをひとたび理解できたなら、なぜ幸福はあいだからやってくるのかがわかるはずだ。私たちは集団を形成して生きるように進化してきた。私たちの心は、集団内ばかりでなく、集団間の競争に勝つために、自グループの他のメンバーと団結できるように設計されているのだ。

(p.378)

 

 そして、『社会はなぜ左と右にわかれるのか』の終盤でハイトが展開するのが、「デュルーケム流功利主義だ。

 

…ジェレミーベンサム以来、功利主義者は意図的に個人に焦点を絞り、各人の欲するものを提供することで社会福祉の改善に努めてきた。それに対し、デュルケーム流の功利主義は、人類の繁栄には、社会秩序と帰属が必要とされるという点を認めている。それは「社会秩序は途方もなく貴重であり、その達成は困難である」という前提から出発し、「健全な社会では、人々を結びつける道徳基盤、すなわち<忠誠><権威><神聖>の三つの基盤が大きな役割を果たす」という可能性を受け入れる。

個人の生活に適用するには、規範倫理のどの理論が最適かという点については、私には何とも言えない。だが、民族的、道徳的な多様性をある程度抱えた欧米の民主社会における法の制定や公共政策の実施を考えるにあたっては、功利主義以外に説得的な見方はないと思う。法や公共政策は、最大の善の実現をおおよその目標にすべき、と主張するジェレミーベンサムは正しい。とはいえ、私たち皆に、そして立法者に最大の善を実現する方法を講釈する前に、まずベンサムデュルケームを読んで、私たちがホモ・デュプレックスであることを認識しておくべきだった〔デュルケームベンサムの死後に生まれており、著者の空想的な願望である〕。

(p.419)

 

 言わせてもらうと、ハイトは「デュルケーム功利主義」を論じる前にピーター・シンガーの「ダーウィン左翼論」について目を通すべきだった*2。ハイトに言われずとも、功利主義者であれば、進化心理学社会学などの知見が蓄積されて「人間の幸福には社会秩序や集団への帰属が影響する」と判明したら、その知見に基づきながら「最大多数の最大幸福」を実現するための諸々の方策を検討することだろう。まず「最大多数の最大幸福」というゴールが明確に決まっているがゆえに、「幸福」に関する知見がどう変わったところで柔軟に対応できること、つまり手段にとらわれず目的に目を向けつづけられることこそが、ほかの倫理学理論にはない功利主義の強みであるからだ。実際、ヒースが『啓蒙思想2.0』で展開している議論も「ダーウィン左翼」論や「デュルケーム功利主義」論の具体的な実践バージョンであるといえる。

 その一方で、ハイトが『社会はなぜ左と右にわかれるのか』の前半でちらっと触れているように、「忠誠」「権威」「神聖」を重視するような伝統的・権威主義的・保守的(でデュルケーム的)な社会では、マイノリティに対する差別や抑圧が恒常的に発生する、ということもやはり見逃してはならない。グリーンやシンガーをはじめとして功利主義者たちが結局は「社会はリベラルであるべきだ」という主張をするのは、デュルケーム的な社会はマジョリティに対してそれなりの幸福を提供する一方で少数者に対してはかなりの苦痛を生じさせることになるからだ(多くの場合、苦痛の回避は幸福の獲得以上に重要なことである)。

 そして、いまよりもマイノリティに対する抑圧がさらに深刻であった時代に生きていたミルやベンサムなら、仮にデュルケームの議論を読んだとしても、やはりリベラルな社会を追い求めたことだろう。伝統的な社会で生じるマイノリティに対する苦痛を発見して、だれよりも先に女性や動物の「権利」を擁護したことこそが、功利主義の大いなる歴史的意義の一つであることを失念してはいけないのだ*3

*1:

 

davitrice.hatenadiary.jp

davitrice.hatenadiary.jp

*2:

s-scrap.com

数年前にTwitterでハイトがシンガーの「ダーウィン左翼論」を目にして「これなら同意できる」と呟いているのを目にしたことがあるから、遡及的に、『社会はなぜ左と右にわかれるのか』の執筆時点では「ダーウィン左翼論」の存在を知らなかったことがうかがえる

*3:

davitrice.hatenadiary.jp