道徳的動物日記

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生物学者に「道徳」は語れるか?(『社会はなぜ左と右にわかれるのか』+『社会はどう進化するのか』読書メモ)

 

 

 

〔ジョシュア・グリーンによる「カントの魂の密かなジョーク」論文に関して〕

これは統合知の格好の例である。ウィルソンは一九七五年に、「倫理学はすぐに<生物化>され、脳における<情動センター>の活動を解釈するものとして再構築されるだろう」と予言したが、この考えは、当時の支配的な見方に真っ向から逆らうものだった。何しろコールバーグらの心理学者によって、倫理学の中心は情動ではなく嗜好であるとされていた頃のことだ。当時の政治的な風潮は、進化思考が、人間の行動を探求するための妥当な方法だとあえて示唆するウィルソンのような人物に対し、きわめて辛辣だった。

しかし、それから三十三年後にグリーンの論文が執筆される頃には、すべてが変わっていた。多くの研究分野の科学者は、情動を含めた無意識的なプロセスの力と能力を認識するようになり、進化心理学は、すべての学問領域においてとまでは言わずとも、少なくとも道徳研究の学際的なコミュニティでは尊重されるようになった。そして、ウィルソンが一九七五年に予言した「新たな総合」は、最近になって現実のものになりつつある。

(ハイト、p.122)

 

 上記はエドワード・ウィルソンに関する文章。そして、『社会はなぜ左と右にわかれるのか』の後半でハイトが「新たな総合(Consilience)」の一例として挙げているのが、マルチレベル淘汰説を提唱した進化心理学者デイビッド・スローン・ウィルソンによる諸々の業績だ。

 

 

 

 

 ウィルソンの主張の一部を、抜き出して引用してみよう。

 

…調和や秩序は、高次の選択が低次の選択を抑えられた場合にのみ期待できる。…(中略)…グループ内では、私たちが悪に結びつけている特徴が、善に結びつけている特徴に勝利する。それに対抗するグループ間選択の力は、そのような状況を大逆転できるほど強力ではない。…

…しかし、…(中略)…グループ間の選択の圧力がグループ内選択の圧力にまさり、私たちが善に結びつけている特徴が選好される場合があるのだ。社会的生物の多くは、グループ内選択によって個体群内で維持される特徴と、グループ間選択によって維持される特徴という両タイプの特徴が混合したモザイクを形成している。とはいえ両タイプの選択のバランスは一定ではなく、それ自体が進化し得る。まれには、破壊的形態のグループ内選択の圧力を大幅にそぎ、グループ間選択を、その生物のほとんどの特徴を生み出す主たる進化的力に仕立てるメカニズムが進化することがある。すると奇跡が起こる。非常に協調的なグループが進化し、それ自体が高次のレベルの有機体へと変容を遂げていくのだ。

この変容は、進化における主要な移行と呼ばれている。

(ウィルソン、P.121 - 122、強調は引用者による)

 

 ウィルソンが「グループ進化」によって引き起こされた「主要な移行」の例として挙げているのが、最初の細菌細胞の進化、多細胞生物の進化、昆虫のコロニーの進化などだ。

 

どのケースでも高次の組織は、内部からの破壊的な選択圧力を抑制することで生物としての特徴を進化させている。生命の起源それ自体でさえ、同様に協調的に相互作用する多数の分子から成るグループとして説明できるかもしれない。

(ウィルソン、p.123)

 

 そして、主要な移行の最新の事例としてウィルソンが挙げるのが、わたしたちホモ・サピエンスだ。

 

私たちは、進化における主要な移行の最新の事例なのである。人類を他の霊長類から分かつほぼすべての能力は、グループ間選択によって進化した協調形態として説明できる。人間における協調の進化は、グループ内選択の破壊的な力を抑える能力に大きく依拠している。ほとんどの霊長類の社会では、グループのメンバーはある程度までは協力的だが、それと同時にグループ内の争いに明け暮れている。しかもたとえ協力関係が見られたとしても、それは同じグループ内の別の仲間集団と争う仲間集団という形態をとることが多い。現時点での最善の知識に基づいて言えば、多細胞生物ががん細胞を抑制する手段を進化させたのと同様、私たちの遠い祖先はチームワークが生存と繁殖のための第一の手段になるべく、弱い者いじめなどの、グループ内の利己的で破壊的な行動を抑制する能力を進化させたのである。

ここで道徳の問題が戻ってくる。…

(ウィルソン、p. 125 - 126)

 

 ウィルソンは、倫理学者のサイモン・ブラックバーンに対して進化論と道徳の関係についてインタビューしたことに触れながら、以下のように述べる。

 

この、〔ブラックバーンによる〕進化への言及のない道徳の定義はまさに、進化における主要な移行に由来すると考えられるシステムに言及している。私たちの道徳心理は、多細胞生物におけるがんを抑制するメカニズムと同等の社会的構築物なのである。道徳の強制的な側面は、グループ内の自己利益を追求する破壊的な行動を抑制するために必要になる。ひとたび抑制的な側面が確立されれば、他者につけこまれる恐れを抱くことなく、グループのメンバー同士が自由に助け合うことができるようになる。

ブラックバーンは、既存の道徳の理解と、進化論の観点から見た道徳の理解の一致を見逃していない。インタビューの残りでは、進化論の観点から見た、人間の道徳性に関するより堅実な研究から得られる洞察について検討した。私たちの持つ道徳的な力と弱さの奇妙な混合、善悪をめぐる直感的な理解、有徳な行動と他人を騙そうとする衝動、他者による規則の審判を監視し罰しようとする熱意、有徳な行動の対象を「彼ら」を除外して「私たち」に限定しようとする傾向について、ここまで切り込んだ理論は他にない。正しい理論のレンズを通して善の問題を見れば見るほど、それだけ現代という時代に適応した道徳的な共同体を築くことができるようになるだろう。

(ウィルソン、p. 126 - 127)

 

 さて、ハイトやウィルソンが支持するような「マルチレベル淘汰理論」やその前段階の「グループ淘汰理論」は、進化生物学者のあいだでは多数派からの支持を受けているわけではなく、むしろ異端に位置する理論だ。そのことは『社会はどう進化するのか』の訳者あとがきでも留意されている(そして、賢明にも、訳者は「自分は専門家ではないから是非の判断はしない」と述べている)。

 インターネットと進化心理学の両方が好きな人であれば、id:shorebied氏のブログ「進化心理学中心の書評など」は読んでいることであろう。そして、10年近く前から、氏のブログではグループ淘汰やマルチレベル淘汰をめぐる英語圏の論争について、紹介されている。

 

shorebird.hatenablog.com

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 わたしとしては、2013年頃に『社会はなぜ左と右にわかれるのか』の原書を読んだ当時としては、「よくわかんないけれど、グループ淘汰とかマルチレベル淘汰とかも、あってもおかしくないんじゃないの」と思っていた。そして、実のところ、進化論についてはいまだに「よくわかんない」ままだ(だってわたしは文系だし、数学と統計学はさっぱりわかんないし、だけれど本格的な進化論や生物学や心理学の議論では数式とか統計とかがいっぱい出てくるらしいし)。

 とはいえ、進化論に関する本や、経済学や倫理学などのなにかしらのかたちで「合理性」について扱った本をいろいろと読んできた経験をふまえて、改めて『社会はなぜ左と右にわかれるのか』を再読したり『社会はどう進化するのか』を読んだりしてみると、たしかに、彼らの議論は怪しいものだと思えるようになってきた。

 素人目から見ても、ハイトやウィルソンの議論は駆け足気味であり、段階を踏まえていない。スティーブン・ピンカーが批判しているように、「個人間の淘汰(グループ内淘汰)」でも説明できそうな現象や特徴に対して、無理くりに「グループ間淘汰」で説明を与えているものだと感じられるのだ。つまり、既存のスタンダードな理論の限界や矛盾を充分に指摘して論駁できていないうちに、新しい理論を打ち立てようとしている。一般論として、このような議論には警戒するべきだ。また、ジェリー・コインによる「グループ淘汰はスピリチュアリティと親和性が高くて世間ウケもいい"道徳的"な理論だから提唱したがっているんだろ」という(対人論証的な)批判にも、共感できなくはない。

 ピンカーによる以下の批判にも、わたしは同意する。

 

ピンカーはここで「新しいグループ淘汰」主唱者たちが「善」・「徳」を「グループのための自己犠牲」と定義する傾向にあることを思いっきり皮肉っている.もしそうなら「ファシズム」こそ至高の善であり,「人権」は最低の利己主義になるではないかということだ.ピンカーは彼等は簡単な可能性を見逃しているのではないかと主張する.「善」は「属するグループのための自己犠牲」ではなく.「他人に優しくすること」と考えればいいだけではないかというのだ.

Steven Pinkerによるグループ淘汰理論へのコメント「The False Allure of Group Selection」 - shorebird 進化心理学中心の書評など

 

 ニコラス・クリスタキスによる『ブループリント:「よい未来」を築くための進化論と人類史』ではマルチレベル淘汰やグループ淘汰が直接的に扱われているわけではなかったが、あちらでも、倫理学的な前提や議論の手順などをすっ飛ばして、生物学的な「社会性」や「集団志向」を「善」と直結させる自然主義的誤謬が犯されていた*1

『社会はなぜ左と右にわかれるのか』や『社会はどう進化するのか』が出版された2010年代より遥か前には「社会生物学論争」があり、生物学的な社会性を道徳と直結させる発想も、社会生物学論争の主要登場人物であるエドワード・ウィルソンに端を発している。そして、ウィルソンの議論の問題点は、1981年の時点で、倫理学者のピーター・シンガーの著書『輪の拡大』によって喝破されていた*2。しかし、2010年代にデイビッド・スローン・ウィルソンやクリスタキスが行なっている議論には、エドワード・ウィルソンの主張に含まれていた問題点がほとんどそっくりそのまま残っているのである(また、エドワード・ウィルソン自身も、現在でも「生物学と人文学を統合したConsilience」を提唱しているようだ)。倫理学の分野ではシンガー以降にも「進化倫理学」が発展して、進化論が倫理学についてどのような含意を持つか、進化によって倫理は語れるか否かといった論点についてのハイレベルな議論が展開されている*3。しかし、両ウィルソンのような生物学者やクリスタキスのような人類学者は、進化倫理学の議論をフォローできていない可能性が高い。

 さいきんは批判されることも多いピンカーだが、『暴力の人類史』のなかで『輪の拡大』の議論を手に入れて、生物学や進化心理学の領分と倫理学やその他の人文学の領分との境目をきっちり理解できているところはやはり慧眼であり、センスが優れていると思う*4

 

『しあわせ仮説』などで(とくに古代ギリシャの)哲学の議論をおおいに参照しているハイトも、『社会はなぜ左と右にわかれるのか』でベンサムやカントなどのビッグネーム倫理学者たちのことを批判的に取り扱っているが、規範と記述の違いを明確にして規範についての判断は自分の専門ではないという断りをいれたうえで、「道徳」に関する記述的な定義を与えたり「デュルケーム功利主義」というオリジナルな規範論を提唱したりしている。わたしはハイトの議論にはもう同意できないところも多いが、倫理や道徳に関して議論するときのハイトの手付きは、ウィルソンやクリスタキスのそれに比べてずっと丁寧だ。このあたりには、動物ではなく人間を研究対象にする心理学者であるピンカーやハイトが、なんだかんだいいながら哲学に精通しており人文学を尊重してもいることがあらわれているだろう。

 

『社会はどう進化するのか』については、たとえば社会科学者のエリノア・オストロムによる「共有地の悲劇」を回避するための「八つの中核設計原理」について、「この設計原理がなぜ有効に機能するかは、マルチレベル選択理論によって説明できる」という主張がなされるんだけれど、「だからどうした?」という感じ。

 本の後半では「これからの社会を良くするための、マルチレベル選択理論に基づいた提言」みたいなものがなされるんだけれど、もう社会科学や心理学などの領域で散々なされている提言と似たり寄ったりな内容で、わざわざ「マルチレベル選択理論に基づいて」提言する意味がほとんど感じられない。

 「ホモ・エコノミクス」で「ブランク・スレート」的な人間像は事実に則していないから、生物学の知見でアップデートされた人間像に基づいて規則や政策を考慮しましょうね……程度の物言いならわたしも同意できるのだが、そんなもんピンカーなり行動経済学者学者なりがずっと前から言っていることだ。

 道徳が「部族主義」に陥りがちであることに気をつけるべきだ、というハイトの警告は盲点をついているところがあり、有益なものであると思う。……だが、それ以上の複雑なポイントに関するウィルソンの主張は、どうにも上滑りしていて地に足がついていない。けっきょく、生物学者に「道徳」を語るのは難しいということなのだろう。

*1:

davitrice.hatenadiary.jp

さらに、著者には「人間性」を「社会性」に還元して、さらにそれと「善」を早急に直結させたがる、という悪癖があるようだ。そのために、内集団バイアスについても「みんなが思っているほど危ないものではない」とばかりに論じられていて、なかなか危うい(たとえば、わたしたちに「友を愛し、敵を憎む傾向がある」ことよりも「私たちは友好的であり、親切であり…他人と協力し、互いに教え、教わることができる」という点に注目しよう、という主張がなされているのだが(p.109)、いやいや昨今の情勢で「敵を憎む傾向」が引き起こす問題点を無視することは無理でしょう)。

*2:

econ101.jp

*3:

davitrice.hatenadiary.jp

図書館で借りたやつだけど、きちんと読み直したいから買ってくれたら嬉しい

*4:ちなみに、「社会性」ではなく「他人に優しくすること」という意味での、(ピンカー的な定義における)道徳の進化を扱った最近の本としては、下記のようなものがあるらしい。

 

 

ぜひわたしに買って欲しい。