道徳的動物日記

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「非モテ」は「モテないからつらい」、ではない?(読書メモ:『「非モテ」からはじめる男性学』)

 

 

 第一章で提示される、本書のねらいは以下の通り。

 

……登場してから二〇年以上もの間、「非モテ」論は主にネットを中心として議論と考察が繰り返されてきた。その蓄積に敬意を払うと同時に、私は「非モテ」論が限界に立たされているとも感じている。それは、これまで見てきた「非モテ」論の多くが「モテない」こと、つまり恋人がいないことや女性から好意を向けられないことが問題の核心であるという前提に立っているという点にある。

(…中略…)

果たして本当に「非モテ」男性はモテないから苦しいのだろうか。時に暴力にまで走ってしまうほどの苦悩の説明を「モテない」という状況にだけ求めてしまっていいのだろうか。本書で問おうとするのはここである。

ところで杉田[俊介]は『非モテの品格』の中で、性愛的挫折がトラウマのように残り続ける原因として、非正規雇用の問題や男性がケアから疎外されている現象が背景にあることを指摘している。また、本田[透]は恋人のいない苦痛を中心的に論じているが、婉曲的に経済格差やルッキズム(外見や容姿に基づく差別)の問題を示唆している。

つまり、この「モテない」という声を上げる個人の苦悩は、実は恋人がいないという状態や挫折に限らず、あらゆる事象が絡み合って生起しているのではないか。「非モテ」という問題はただ表層として現れただけであって、その奥深くには、男性をめぐるさまざまな問題体系が潜んでいるのではないか。「モテない→苦しい」という単純な因果論から抜け出すためには、多様な角度から「非モテ」男性の世界を分析する必要がある。

本書では、以上の仮説を念頭に置きつつ、「非モテ」男性が抱く苦悩に着目した「非モテ」論の再構築を試みる。そのために、既存の言説に縛られることなく「非モテ」に悩む男性たちの生の語りに焦点を当てながら、苦悩の内実や、苦悩の背景にある複雑なメカニズムを見つめていこうと思う。

(p.29 -31)

 

 本書では、著者の西井が主催する「ぼくらの非モテ研究会」に参加している「非モテ」たちへのインタビューに基づきながら、非モテの人たちが感じている「苦悩」について分析したり表現したりすることが試みられる。

 だが、引用した文章に書かれているように、西井は"「モテない→苦しい」という単純な因果論"を用いることをよしとしない。

 結果として本著で提示されるのは、非モテ男性のつらさは男性集団からの「からかい」や「排除」を受けることやそれによって自分に「非モテ」というラベルを貼ることに起因する、という理論だ。

 

第三章では、「非モテ」男性が男性集団内で追い詰められ、そして自分で自分を追い詰めていく過程を描いた。<集団内の中心メンバー>から、<からかい>や<緩い排除>を受けて周縁化される「非モテ」男性は、被害を受けているにもかかわらず、彼らとの親密な関係性を維持するために、自ら<いじられ役>を引き受けていく。また、<男らしさの達成>をしようとしても、中心メンバーは別の要素を見つけてからかい続けるために、「非モテ」男性はいつまでも「自分は一人前の人間ではないのではないか」という<未達の感覚>と<疎外感>を抱き続けることになる。このゆるい排除と<仲間入りの焦燥>という絶え間ない往還の果てに、「非モテ」男性は自分自身を否定的な存在として見出す<自己レイべリング>に至る。

(…中略…)

以上の分析を通じて、男性たちに苦悩をもたらす「非モテ」とは、「からかいや緩い排除を通じて未達の感覚や疎外感を抱き、孤立化した男性が、メディアや世間の風潮などの影響を受けながら女性に執着するようになり、その行為の罪悪感と否定された挫折からさらなる自己否定を深めてく一連のプロセス」として描き出すことが可能となった。「モテない」という一要素だけで「非モテ」男性の苦悩はもたらされているわけではない。

(p.165 - 168)

 

 さて、ここに引用した理論には、説得力があるだろうか?

 すくなくとも、わたしにはほとんど説得力が感じられない。

Amazonレビューや西井へのインタビュー記事についたはてなブックマークなどを見ると、説得力を感じている人もいるようだ*1。だが、非モテ(弱者男性)として有名な「すもも」氏のように、非モテのなかにも西井の理論に対して違和感を抱いている人は多いようである。

 

 

 

 

 わたしが違和感を抱いているのは、本著のなかでは「男性集団からの周縁化」が非モテのつらさの一因ではなく主因であるかのように論じられているところだ。

 これが一因として論じられているのなら、まだ受け入れられる。たしかに、高校生や大学生の男子集団においては(コミュニティによっては社会人になってからも)、性体験の有無や彼女の有無をネタにしていじりあったりからかいあったりすることは定番の光景である。そのなかで一部の男子がそのいじりやからかいを真に受けたり傷付けたりして悩んだり拗らせたりすることも、よくある事態だろう。わたし自身もいじったりいじられたり、からかったりからかわれたりしてきた経験がある。みんなから童貞いじりされていた人が、その場ではおどけて受け答えしていたが、「実はかなり傷付いていた」と後から打ち明けることもあったものだ。

 しかし、西井の著書や、他の社会学ジェンダー論の本を読んでいると、人間というものの苦悩や幸福はなにからなにまで人の目によってつくられているかのように錯覚させられそうになる。

 

 たとえば、本書の序盤でも触れられている伝統的な「ホモソーシャル」理論によると、男性が女性を求めることは「男性集団で一人前と認められるため」であるからとされる。たしかに、そういうところもあるだろう。男子学生のグループでは他の連中よりも先に彼女を作った男が「格上」と見なされる場合はあるだろうし、社会人になっても配偶者の有無が「有能さ」や「まともさ」の指標として機能させられることもあるだろう。

 だが、ホモソーシャルに属していようが属してなかろうが、男性集団から周縁化させられていようが周縁化させられていなかろうが、大半の男は女を欲求する。これはもう生物学的・人類学的な事実だとしか言いようがない(ので、「そうでない事例もある」とか「欲求が生得的なものだとは証明できない」といった反論は相手にしない)。

 そして、欲求が充たされないとき、わたしたちは多かれ少なかれつらさを感じるものだ。

 欲求とは「食欲」や「性欲」などのシンプルなものだけでなく、社会関係に紐づくものもあることは重要だ。たとえばわたしたちは人の輪に所属することを欲求するし、他人から指図されるのはなく指図する側にまわることを欲求する。だから、孤独であったり、「底辺」であったりすると、つらさを感じる。

 そして、ヘテロセクシュアルの男性であれば、セックスとコミュニケーション関係との両方の面で、女性のパートナーを獲得して保持することを欲求するものだ。だから、彼女や配偶者がいない人は、そうでない人に比べると、パートナーの獲得・保持に関する欲求が充たされないことによるつらさを感じている。それは、腹が減っている人や孤独な人や底辺の人が、それぞれに対応する欲求が充たされないことでそうでない人よりもつらさを感じているのと同じことだ。もちろん欲求の多寡には個人差があるだろうが、それが充たされないと大小に応じてそれぞれのつらさが生じることには変わらない。

 

 わたしは人生において恋人がいる時期を何度か経験してきているので、本書に出てくるような「非モテ」ではない。とはいえ、もちろん、わたしにだって恋人がいなかった時期もある。

 そして、わたしが「恋人がいないこと」によるつらさをもっとも強く感じていたのは大学院を卒業した後に数年間フリーターをやっていた時期だ。同時に、この時期は、学生であったそれまでの時期とは違い「ホモソーシャル」に所属していない時期でもあった。アルバイト先の人たちとはそれなりに親しくしていたが、学生時代の友人関係のようには親密な関係を築いていたわけではないし、恋人の有無とかセックスに関する話題が出ることもほとんどなかった。

 その時期に親密に関わってよく喋りあっていた相手としては、高校からの友人と大学からの友人がひとりずついたけれど、前者は童貞の非モテであり後者もこの時期には彼女がいなかった。ついでに言うと、両者ともその時期はニートであった(後者は途中から同じバイト先で働き始めてフリーターになったけれど)。

 ポイントとなるのは、この時期のわたしには、自分に恋人がいないことについて比較対象となる相手もなければ、気になる「人の目」もなく、からかってきて周縁化してくる相手もなかったということだ。

 だが、それでも、恋人がいないことはつらかった。それは、同時期にニート/フリーターであった私の友人たちも同じことだ。

「フリーターやニートになる前の大学時代まではホモソーシャルに所属していたので、その時に周縁化された経験や内面化した価値観が、その後にも影響を与えて、つらさを生じさせた」という解釈も、しようと思えばできるかもしれない。しかし、それはわたしの実感にまったくそぐわない。「恋人がいなくて寂しいなあ」とか「ハグとかセックスとかしたいなあ」とか「一緒にデートする相手が欲しいなあ」とか思うときに、若い頃にやったりやられたりしたいじりやからかいとかを思い出したりするわけじゃないのだ。恋人がいないから充たされない欲求と、その欲求が充たされないつらさは、わたしの内側から生じていた。恋人がいないことによって生じている問題や、その状況が恒常化した非モテになることで生じる問題の原因とは、内在しているものであるのだ。

 これはごく常識的で当たり前の発想でもある。むしろ、個人の欲求ではなく、男性集団からなされた周縁化や排除などの外側に問題があるとすること(すくなくとも、問題の主因が外側にあるかのように論じること)のほうが、不自然でおかしいはずだ。

 西井が問題を外在化させている理由については、以下のように書かれている。

 

……何かしら問題が起きた時、それが起きたのは自分のせいだ、と考えることを「原因の内在化」といい、いや相手のせいだ、と考えることを「原因の外在化」という。前者の場合、問題を解決するには自分を変化させなければならないということになり、当事者は今の自分を否定することになってしまう。一方後者の場合、自分を苦しめずに済むが、他人や社会はすぐには変わってくれないので問題はなかなか解決されないままになる。

それに対し「問題の外在化」は問題の原因を問わない。個人の抱える問題を何かの原因に帰属させるのではなく、問題そのものを個人から切り離して、一つの現象として捉えるのである。またその際、現象に名前をつける作業が重要となる。

(…中略…)

個人の中に問題があると見なすのではなく、距離を置いて眺めることで、問題を生起させているメカニズムや、問題が個人に与えている影響などを整理して考えることができる。そうして、問題に対して自分ができることと、できないことの見通しもたってくる。

(…中略…)

さて、ここまでのことを「非モテ」の議論に当てはめてみる。「非モテ」という苦悩の原因を内在化させた場合、それは第一章で確認した「ラベリングとしての非モテ」のように、自分の身体や性格の特徴や傾向が苦悩をもたらしているという説明になる。もしかしたらそのせいで、過度な劣等感に苦しむことになるかもしれない。

一方、「女をあてがえ」論のように自分の苦しさをもたらすのは女のせいだ、と決めつける論理は「原因の外在化」と言えるだろう。当然ながら女性の意思を無視してパートナーシップを結ぶなど不可能であり人権侵害的な論理なので、なんの展望も見込めない。

その点、この「問題の外在化」という手法を応用すれば、自身の苦悩の原因を特定の説明に還元してしまうという危険性を回避しながら、「非モテ」の苦悩の背景や、発生のメカニズムを細かく探れるのではないか。

以上のような「問題の外在化」(当事者研究)の実践の蓄積と思考をもとに、私は「非モテ」男性同士が主体的に自己を探る共同研究の場を立ち上げた。

(p.37 - 39)

 

 率直に言うと、わたしには、西井の言う「問題の外在化」とは「問題のごまかし」でしかないように思える。

 西井が「原因の内在化」および「原因の外在化」を否定しているのは、「それらは正確な原因でないから」といった事実に基づく理由ではなく、「それらがよくない結果や結論をもたらすから」という規範に基づいた理由であることに注意してほしい。

 たとえば、ある人が非モテであることの原因はその人の「身体や性格の特徴や傾向」にあることが事実だと仮定しよう(というか、実際問題として、多くの非モテの原因はそこにあるでしょう)。たしかに、その事実を当人に突きつけたら、当人は「劣等感に苦しむことになる」だろう。そして、事実を突きつけたところで当人がそれを改善することが不可能であるという場合には、無用に当人を苦しめるだけというだけになる。だから、当人には事実を伝えないということも、規範的な選択としては全然アリだ。むしろ、「問題の原因はあなた自身ではなく、男性集団から排除を受けたことにあるんですよ」と言ってあげるほうが、当人としては気休めになってよいかもしれない。……でも、事実は事実であり、劣等感に苦しませることを避けるために別の原因を強調したところで、その事実が消えるわけではない。

 あるいは、ある人が非モテであることの原因は、女性側の選択にも原因があるかもしれない(かもしれないじゃなくて、原理的に、女性側の選択は、ある人が非モテである/恋人がいないという状況を構成する一因である)。そして、西井が危惧しているように、「女性側にも原因がある」という指摘は「女性側にも責任がある」という発想に飛躍して「女をあてがえ」論に結びつきがちではある。でも、それは、原因(事実に関する問題)を責任(規範に関する問題)に飛躍させて論じる人が短絡的で間違っているというだけの話だ。それはそれとして、女性側には責任はなくても原因があることが事実だとすれば、その事実にはごまかさずに目を向けるべきだ。

 あるいは、どちらも事実ではなく、非モテの苦悩の主因はほんとうに「男性集団からの周縁化」などにあるかもしれない。しかし、それを主張するためには、一般的な通念や自然な発想からして「主因である可能性が高そうだ」と思われる他の原因(男性の身体や性格に関する特徴、女性の選択など)が、実際には主因ではないということを示す必要がある。わたしが読んで判断した限り、『「非モテ」からはじめる男性学』ではそのような作業が充分になされていない。

 とはいえ、これは西井の論じ方とか書き方とかが特に悪いというよりも、ジェンダー論や社会学一般に、そして近頃のサヨク的言説一般に見受けられる傾向だ。つまり、「自己責任論はダメだ」「女性に原因があると示してはいけない」といった一連の規範があらかじめ定められており、その規範に抵触する可能性のある事実について明言することも避けながら、許されている範囲内で議論を展開する。こういう議論は、間違っているとか正しいとか以前に、わたしにとってはまったく面白くない。

 それでも、問題について細かく・複雑に・繊細に分析することで、これまで見過ごされていたなにかしらの原因が発見されて、それに応じた新しい対策も考案できるなら、そういう議論にも意味や価値はあるだろう。とはいえ、「問題の繊細で複雑な分析」と「問題のごまかし」の境目は曖昧なものだけれど。

 

 また、一般的な「男性集団」を悪しきものとして描き、それに対比するかたちで「ぼくらの非モテ研究会」を良いものとして描く傾向も散見される。どちらかといえば一般的な「男性集団」のほうに所属しつづけてきたわたしとしては、これはあまり愉快ではない(というか、イラッとする)。

 

……「非モテ」男性はこれまで所属した男性集団の中で些細な傷つきを蓄積しながら疎外感を抱いてきた。そこは構成員同士でお互いにまなざしを向け合う閉鎖的な空間であった。しかし、ボランティアを始めたり、学校の外に目を向けたりすることで偶然たどり着いた新しいコミュニティで、これまでとは違う他者との関わり方に遭遇する。語りや活動が否定されずに受け入れられ、その語りや活動そのものによってつながること。この関係性がもとになったコミュニティの中で、「非モテ」男性の苦悩は和らいでいく。

(…中略…)

非モテ男性が「仲間入り」しようとした集団は人間に序列をつくる競争関係にあり、そこに身を置き続ける限り、男たちは常にお互いを見比べて劣等感と疎外感にさらされるか、もしくは他者を貶める危険性を孕む。しかしここで語られた同じ方向を向きながら共有体験を重ねる仲間関係は、彼らの苦しさを解放し、新たな対人関係のあり方を開く。

(p.160 - 161)

 

 実際のところは、一般的な男性集団であっても、みんながみんな互いに貶めたり劣等感を抱きあったりするものではない。競争的な男性同士でも互いに序列を作るとは限らず、「あいつはこれができてすごいし、おれはこれができてすごい」と言った感じに互いの良さを見つけ合う関係性に落ち着くこともある。互いに競争することで切磋琢磨しあって成長しあうことのメリットも否定できない。いじりあったりからかいあったりすることにすら、それについていける人であれば「楽しさ」を感じられるものだ。

 そのような男性同士の自然な人間関係(≒友情関係)を否定して、代わりに、疎外されたものが「語りあう」ために集まった人工的なアジールのような関係性が持ち上げられることには、わたしにはどうしても違和感が残る。

 

 とはいえ、「男性同士のケア」が流行っている昨今では、『「非モテ」からはじめる男性学』で描かれている非モテ同士の関係性は、ウケが良くて好意的に評価されるんだろうことは想像に難くない。

 昨今の日本における男性学では、澁谷知美や江原由美子などによる「男はつらいよ男性学」批判を想定しながら、「男性特権が実在する」や「女性のほうが男性よりも社会的に抑圧されたり周縁化された集団である」といった前提を真として、女性の受けている差別や抑圧について幾度も触れながら、隙間を縫うようなかたちで「男性のつらさ」を語らなければならない*2。西井はこの作業を上手に完遂しており、澁谷からも太鼓判をもらうことができている*3

非モテの苦悩を「男性集団からの周縁化」に着地させることは、たしかに、フェミニズム的には百点満点の回答にはなっているだろう。主流派の男性集団(そしてその集団を構成する個々の一般男性たち)を「悪い」ことにしてしまえば、そこから漏れている男性たちの「辛さ」を語ることは、フェミニズムでも許容されるからだ。

 だからこそ、わたしは、女性読者たちのほうにチラチラと目配せしてお許しを伺いながら書かれているかのような言い訳がましさを『「非モテ」からはじめる男性学』に感じてしまうのだ。同じことは、ここ数年に出版されたその他のニューウェーブ男性学の本たちに対しても感じているけれど。

 

*1:

b.hatena.ne.jp

*2:たとえば、この本の直前に読んだ『マジョリティ男性にとってまっとうさとは何か』もそうだった。

 

 

*3: