道徳的動物日記

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ケイパビリティとしての恋愛・結婚(読書メモ:『女性と人間開発 潜在能力アプローチ』)

 

 

 

 ヌスバウムによるケイパビリティ(潜在能力)アプローチの説明は、下記の通り。

 

ケイパビリティ・アプローチが問う中心的課題は、「バサンティ(引用註:とあるインド人女性)はどれほど満足しているか」ではなく、「彼女はどれほどの資源を自由に使えるか」でもない。そうではなくて、「バサンティは実際に何をすることができ、どのような状態になれるか」である。政治目的のために、人の生活において中心的な重要性を持つと考えられる機能の作業上のリストに立脚して、「その人にとってそれは実現可能かどうか」を問う。その人が行ったことから得られる満足について問うだけではなく、その人が何をするのか、何をできる立場にいるのか(彼女の機会や自由は何か)についても問わなければならない。そして、その人が利用可能な資源について問うだけではなく、バサンティが十分に人間らしい生き方ができるようにそれらの資源が役に立っているのかどうかを問わなければならない。

 

いまや私たちはこれらの問いに対する答えをいくつか見つけたので、このアプローチを二つの方法で応用してみよう。第一に、他の人と比較しながらバサンティの生活の質を評価するために、特定の核心的領域におけるケイパビリティを用いるということである。地域や階級や国家のレベルにおける生活の質の差を見るために様々な人々の生活に関するデータを集計していくとき、誰が最も貧しく、誰が十分な生活をしているかを定義し、その比較を行うのは常に中心的ケイパビリティに関してである。第二に、人間のケイパビリティの核心的領域において、公共政策が公正であるための必要条件は、すべての人に対してケイパビリティの一定の基本的水準を保障することである。もし人々が、これらの核心的領域において最低水準を満たしていないとすれば、それは、たとえ他の面ではうまくいっていたとしても、不公平で悲劇的な状況と見なされるべきであり、緊急な配慮が必要である。

 

このアプローチの背景には二つの直観的な考え方がある。第一は、特定の機能は、それを達成しているかいないかによってその人が人間らしい生活をしているか否かが分かるという意味で、人間の生活の中で中心的位置を占めているということである。第二に、マルクスアリストテレス哲学の中に見出したことだが、単に動物的な方法ではなく、真に人間的な方法でこれらの機能を満たすことには大事な意味があるということである。人の生活があまりにも貧しくて、人間の尊厳に値せず、人間らしい力を発揮することもできず、動物のような生活であるという状況に私たちはしばしば出会う。マルクスの例では、飢えている人は十分に人間的な方法で食べ物を食べることができないということであり、これによってマルクスが言おうとしたのは、実践理性や社会性を持った生き方であろうと私は考える。人は単に生き延びるために食料を得ているだけであれば、食べるという行為は社会的理性的要素の多くを伴っていない。しかし、たとえ適切な教育や、娯楽や自己表現のための余暇や、他の人々との貴重な交際によって人間としての感覚が磨かれていないとしても、人間の感覚は単に動物のレベルでも働きうるとも論じている。マルクスはおそらく認めないだろうが、私たちはさらに表現や連帯の自由や信仰の自由といったいくつかの項目もこのリストに加えるべきだろう。その核心的概念は、「群れをなす」動物のように人生が受身的に形作られ、世の中に流されて生きていくのではなく、他の人々と協力しあい互いに助け合いながら自分自身の生活を築いていく、尊厳を持った自由な存在としての人間である。真に人間らしい生き方とは、一貫して実践理性と社会性という人間らしい力によって形作られるものである。

 

(p.84 - 86)

 

 引用文にもあるとおり、ヌスバウムのケイパビリティ・アプローチはアリストテレス的なものだ(「ユーダイモニア=繁栄・開花(Flourishing)」の考えに基づいている)*1。また、「人間の主張な力には物質的な支えが必要」(p.87)であるという認識も、アリストテレスマルクスから得られたものだ。そして、彼女によると、ケイパビリティ・アプローチは「ひとりひとりが価値を持つ者として、そして目的として扱われる」(p.87)という点でカント主義的なものである。

『女性と人間開発』という本の目的は、インドを主とする非西洋諸国(発展途上国)における女性差別について、「その国や文化に口は出せない」「その地方の慣習だから仕方がない」といった相対主義的な批判を棄却して「どこの国や地方のものであっても女性差別は問題である」と論じて是正の必要性を主張することである。このことから、ヌスバウムがケイパビリティ・アプローチを提唱する目的のひとつが、「普遍的な価値の擁護」となる。ケイパビリティが保証されることは、西洋やアメリカなどの特定の社会に限定されず、すべての国や地方の人間にとって必要なことだと彼女は主張するのだ。

 

 ヌスバウムによる、ケイパビリティのリストは以下の通り*2

 

  1. 生命
  2. 身体的健康
  3. 身体的保全
  4. 感覚・想像力・思考
  5. 感情
  6. 実践理性
  7. 連帯
  8. 自然との共生
  9. 遊び
  10. 環境のコントロール (政治的環境と物質的環境に分かれる)

 

 また、ケイパビリティを保障するといっても、全ての人が全てのケイパビリティを達成することまでは期待されない。

 

私のリストの項目には、ジョン・ロールズが「自然的財」と呼んだもの、すなわち、「その獲得に運が重要な役割を果たす財」が含まれる。政府は全ての人々を健康にし、情緒的な安定をもたらすことはできない。なぜなら、こうした状態は持って生まれたものや運に左右されたりするからである。これらの領域で政府が目指すべきは、これらのケイパビリティの社会的基礎を提供することである。つまり、ケイパビリティ・アプローチは、初期時点での資源や権力の差によってもたらされる格差を埋め合わせるように努力すべきであると主張する。しかし、それでも社会が確実に与えることができるのは良い生活の社会的基礎であって、良い生活そのものではない。女性の情緒的な健全性について考えてみよう。政府は全ての女性を情緒的に健全な状態にすることができるわけではない。しかし、情緒的な健全さに寄与するために、家族法や強姦防止法や治安といった分野で適切な政策を採ることによってきわめて多くのことができる。似たようなことは、全ての自然的財についても当てはまる。ある人たちは、私たちには制御できない要因によって十分なケイパビリティを達成できないでいるかもしれない。生活の質の相対的尺度としてケイパビリティを用いるとき、私たちは観察された差異についてその理由を問われなければならない。国家間あるいはグループ間の健康の差は、公共政策によって取り除くことのできる要素もあれば、そうでないものもある。もし人々がこれらのケイパビリティの十分な社会的基礎を与えられたならば、基本的政治原理はその役割を果たしたことになる…

(p.96)

 

  また、重要なのはケイパビリティの基礎が保障されることであり、個々人は自分の意思で一部のケイパビリティを達成しないことを選択するのは認められる。社会は人々が飢餓に苦しまないようにするべきであるが個人が断食するのは自由であるし、個人が禁欲するのは自由であるが女性器切除などによってセックスの機会(と禁欲を選択する機会)を奪うことは不正である、ということだ(p.103)。

 ……とはいえ、ケイパビリティ・アプローチは通常のリベラリズムに比べてパターナリズム的(温情主義的)であったり、パーフェクショニズム的(完成主義的)であったりはすることはたしかだ。ケイパビリティのリストとは、要するに、「(ほとんど)どんな人についても、これらが満たされるほうが、そうでないよりも善い」という物事を具体的に指定するものであるからだ。

 ヌスバウムは「温情主義だ」という批判に反論しながらも、以下のようにも論じている。

 

「温情主義からの議論」が示しているのは、他人の自由が同じように護られる限り、人が価値あるものと認めることを追求する自由を認めるような普遍的規範を私たちは志向すべきだということである。それは、すべての普遍的規範を拒絶せよというのではなく、自由だけではなく、自由を実現するために決定的に必要な様々な経済的エンパワーメントをも含む普遍的規範を構築することが正しいということを示している。

(p.65)

 

 さて……わたしは、すこし前から、ヌスバウムのケイパビリティ・アプローチと「ポジティブ心理学」との接点を考えるようになった*3

 なにしろ、マーティン・セリグマンやジョナサン・ハイトが行っているようなポジティブ心理学の議論では、ヌスバウムと同じようにアリストテレスのユーダイモニア論が参照されている。ポジティブ心理学でも「"人間らしい"生き方をすることが、その人のとっての幸福につながる」ということが主張されるし、幸福(や徳)について国や文化の垣根を超えた普遍的な基準が提示される。とくにハイトの『しあわせ仮説』は、完成主義的な価値観を主張する著作だと読むことができるだろう。

 そして、ポジティブ心理学やその他の幸福に関する心理学的な議論では、恋愛結婚が個人の人生に対してプラスの影響を与えることが示される場合も多い。

 通常の(ロールズ的な)リベラリズムであれば、「個人が恋愛したり結婚したりすることについて、社会は支援するべきだ」と主張することは困難であるだろう。だが、ケイパビリティ・アプローチなら、恋愛(交際)することや結婚することも「人間らしい生活」を過ごすためには欠かせないものだとして、それが達成される「社会的基礎」を保証することを要求することが正当化できるかもしれない。

 

 ヌスバウムのリストのなかで、恋愛や結婚に関わりそうなものは、下記の三つ(強調部分はわたしによるもの)。

 

(3)身体的保全*4 自由に移動できること。主権者として扱われる身体的境界を持つこと。つまり性的暴力、子どもに対する性的虐待家庭内暴力を含む暴力の恐れがないこと。性的満足の機会および生殖に関する事項の選択の機会を持つこと。

(p.93)

 

(5)感情 自分自身の回りの物や人に対して愛情を持てること。私たちを愛し世話してくれる人々を愛せること。そのような人がいなくなることを嘆くことができること。一般に、愛せること、嘆けること、切望や感謝や正当な怒りを経験できること。極度の恐怖や不安によって、あるいは虐待や無視がトラウマとなって人の感情的発達が妨げられることがないこと(このケイパビリティを擁護することは、その発達にとって決定的に重要である人と人との様々な交わりを擁護することを意味している)。

(p.93)

 

(7) 連帯

A  他の人々と一緒に、そしてそれらの人々のために生きることができること。他の人々を受け入れ、関心を示すことができること。様々な形の社会的な交わりに参加できること。他の人の立場を想像でき、その立場に同情できること。正義と友情の双方に対するケイパビリティを持てること(このケイパビリティを擁護することは、様々な形の協力関係を形成し育てていく制度を擁護することであり、集会と政治的発言の自由を擁護することを意味する)。

(p.94)

 

 ……とはいえ、おそらく、「恋愛関係を築けることや結婚できることもケイパビリティだ」と主張することに対して、ヌスバウムは渋い顔をすると思う。

『女性と人間開発』はフェミニズムの本であり、第4章の「愛・ケア・尊厳」では家族の内側における女性差別や女性への暴力が取り上げられて、ロールズなどの論者が家族の問題について取り上げなかったことが批判される。フェミニズムの議論でよくあるように、男性の学者たちが「家族(のなかで行われる女性のケア)を評価してこなかったこと」と「家族の内部に存在する女性差別を無視してきたこと」が同時に批判されるのだ。

 この章のなかで、ヌスバウムは愛やケアの価値について肯定的に論じてはいる。しかし、ロマンチック・ラブ的な恋愛観や家族観に関しては、普遍的なものではなく近代西洋に固有のものとして退けられる。「…インド全国のヒンドゥー寡婦に関する広範囲な研究は、ほとんどすべての寡婦が再婚する意思を示さず、多くの者が男との生活を終えて喜んでいることを示している」(p. 307)。そして、インドや南アジアの女性がロマンチックな男女関係の代わりに「女性たちの相互支援のためのグループ」を築いて維持することにエネルギーを注いでいることを指摘したうえで、以下のように主張するのだ。

 

家族にはたった一つの形しかないという意味で自然発生的であるとは言えないことが明らかだとすると、特定の家族形態が必然で不可避だとは言えないことも明らかだろう。多様な家族形態が見られることから、西洋の核家族のみが生物学的傾向に基づく形態などとは言えそうにない。そのような生物学的傾向は時間とともに多くの異なった形で現れてくる。独立した規範的考察を行わずに、特定の家族形態が「女性らしさの領域や機能に属する」正しく適切な形態であるとする根拠はさらに薄弱である。

 

(p.309)

 

 だが、この主張には反論できるかもしれない。

 まず、異常で特異なのは西洋のロマンチック・ラブ・イデオロギーではなく、インドのほうである可能性は指摘すべきだろう。なにしろ、(すくなくとも1990年代以前の)インドが女性差別的な社会であり、家庭のなかでも男尊女卑が蔓延していることは、『女性と人間開発』の一冊にわたって示されている。逆に言えば、インドが女性差別的な社会でなければ、ヒンドゥー寡婦たちも男との生活を終えたことを喜ぶのではなく悲しんでいたかもしれない。

 そして、人間がロマンティック・ラブを願望することには生得的な面があること、一夫一妻制の家族形態が他に比べて"自然"なものであることは、人類学や進化心理学や生物学の文献でも示されていることではあるのだ*5

 実際、日本のように男女平等が(インドのような国と比べれば)すすんだ国では、男女ともに恋愛や結婚を求めている人が多く、「人間らしい生活」にそれらが欠かせないと考えている人も多い。

 それは理想化された願望とは限らず、実際に恋愛や結婚を経験している人が「以前に比べて人間らしい生活を過ごせているなあ」と思うことや、恋愛や結婚が破局してしまった人が「以前に比べて人間らしい生活じゃなくなってしまったな」と考えることもあるだろう。すくなくともわたしはそうだし、他にもそういう人はいる。

 もちろん、アロマンティックの人をはじめとして恋愛に興味がない人や恋愛を重視しない人もいれば、モノガミーを求めない人もいるし、恋愛に興味はあっても結婚に興味はない人もいる。とはいえ、「それを求めない人もいる」というのは他のケイパビリティの大半に当てはまることだ。

 そして、例外的な人については「興味はないんだったら追求しなくていいよ」と容認しつつ、そのケイパビリティを求める大半の人を支援する(「社会的基礎を提供する」)ために公的に資源を投入することを正当化できること、正義論風に言えば特定の「善の構想」を優遇できることこそが、ケイパビリティ・アプローチの特徴であるはずだ。

 

 ……もっとも、ケイパビリティ・アプローチであっても、「ひとりひとりは目的として扱われる」。恋愛や結婚をケイパビリティとして認めたとしても、それが他のケイパビリティと異なるのは、達成されるためには特定の相手が自由意志に基づいて了解することが必要になるということだ(「連帯」は不特定多数のだれかが了解したり何らかの集団に加わることで達成できるだろう、「自然との共生」には動物と関わることも含まれるが、大半の犬や多くの猫は自発的に人間と関わってくれる)。他のケイパビリティと比べて、公金などの資源を投入してナントカできる程度がかなり限られているのである。

 というわけで、「社会的基礎を提供する」といっても、せいぜいのところ街コンや婚活支援のようなものにしかならないかもしれない。それは現状の社会でも多かれ少なかれ行われていることだ。

 ほかにも、男性も女性のどちらも多数派は恋愛や結婚を求めているとしても、それらを求めていない少数派の割合には男女差があるだろう(恋愛を求めていない女性の数は、恋愛を求めていない男性の数よりも多いように思われる)。その場合、片方の性別を優遇することになってしまう危険性はあるだろう。

 

 このように問題は多々あるし実効性にも乏しいのだけれど、恋愛や結婚をケイパビリティに含めることができれば、すくなくとも、「恋愛したい」「結婚したい」という要求や願望に正当性を認めることはできる。

 そして、だれかが恋愛できなかったり結婚できなかったりするせいで苦しむことを、「不公平で悲劇的な状況と見なされるべき」と言えるようにはなるのだ。

 

 余談だが、「結婚したほうがそうでないよりも幸福になりやすい」ということに限らず、ポジティブ心理学ではリベラル的というよりも保守的に分類される見解が提出されることが多い。きっと、「人間らしさ」を重視する議論や完成主義的な議論は、順当にいけば保守的なところに落ち着くものだろう。

 むしろ、ヌスバウムが「人間らしさ」を強調しながらも一部の保守的な見解を排除していることについて、リベラリストフェミニストであることと両立させるために不都合な要素についてあえて目を瞑っている、という疑惑を抱けるかもしれない。「人間らしさ」について論じているのに生物学や進化論の文献をあまり参照しない(『女性と人間開発』だけでなくそれ以降の著作でも)のも気になるところだ。それは政治哲学の世界でやっていったりフェミニストとしてまともな主張をしていくためには必要なことかもしれないけれど、そういう束縛から解放されている心理学者たちのほうがより真を突いた見解を提出することができる、という可能性もあるかもしれない。

 

*1:

davitrice.hatenadiary.jp

*2:「現在のもの」という但書はされているが、2000年刊行の『女性と人間開発』と2011年刊行の『正義のフロンティア』とで、その内容はほぼ変わっていない(訳者が違うので訳語が異なっていたりはするけど)。たぶん2022年の時点でもヌスバウムは同じリストを挙げているだろう。

*3:といってもさほどオリジナリティのある発想ではなく、ググってみると、心理学や教育学などの観点から両者の接点について論じた論文はいくつかあるようだ。

*4:英語ではBodily Integrity

ja.wikipedia.org

*5:この議論の詳細は以下の本の第9章「ロマンティック・ラブを擁護する」に書いている。