道徳的動物日記

『21世紀の道徳』発売中です。amzn.asia/d/1QVJJSj

賃金と「社会の認識」は関係あるのか?(読書メモ:『資本主義が嫌いな人のための経済学』②)

 

 

『資本主義が嫌いな人のための経済学』の第10章のテーマは「同一賃金」であり、「貧困に対策するためには最低賃金を上げなければいけない」や「男女の賃金格差を是正するためには、女性が多い仕事の賃金を上げなければいけない」といった、左派が提唱しがちな主張が批判されている。

 また、この本から10年以上後に出版されたデビッド・グレーバーの『ブルシット・ジョブ』やマイケル・サンデルの『実力も運のうち』、それらの著者が論じているような「エッセンシャル・ワーカーの賃金を上げよ」論に対する批判としても成立する議論とみなせるだろう。

 

 まず、ヒースは、右派の人々は市場は「自然的正義」という見方をとっていたことを指摘する。「競争市場でならば、稼ぎ手が組織にもたらす価値とまったく同等な賃金を各労働者に振り当てられると期待できた」(p.260)。しかし、実際には、賃金を決定する最大の要因とは、ある人が生み出す価値ではなく、その人が他の人とどれくらい交換可能か(=交換することが難しい希少性がその人にあるか)である。そのために、市場では人の価値や能力の差が賃金にそのまま反映される、ということにはならない。

 

それに対して、左派は「社会の認識」の誤謬とでも呼ぶべきものーー賃金率は「社会」が特定の労働に与える価値で決まるという考えーーの餌食となることがしばしばだった。現実には、賃金率は雇用主が労働者の仕事に与える価値で決まるのですらない。ましてや社会全体のそれでは決まらない。残念なことに、社会の認識の誤謬から多くの人たちが「ワーキングプア(働く貧困層)」問題は労働者の社会に対する貢献の認識を変えれば直せると考えるようになった。バーバラ・エーレンライクの著書『ニッケル・アンド・ダイムド』は、ジャーナリストが低賃金労働に潜入して発見を報告するという零細産業を生み出した。話の教訓はどの例でもほぼ同じだった。善良で勤勉な人たちが骨の折れる仕事をしていて、屈辱に耐えることを強いられながら悲惨なほど薄給ということだ。まったくそのとおり、肝に銘じておきたい。しかし、どうしたらいいのか?あからさまにも、暗黙のうちにも、一般に勧められるのは以下の二つ。その一、そういう人たちには親切に。これには異論はないと思う。その二、賃金を上げる。ここで議論が(たいしたことではないが)ややこしくなる。

勤勉で善良な人はかなりいい給料をもらうのが自然な考えのように思えるのに、資本主義ではそうはいかないのが純然たる事実だ。国内的にも国際的にもそうならない。結果としての所得の分配には控えめに言っても道徳的に問題がある。肝心なのはそれをどうしたいかだ。総合的な問題は、市場経済における賃金は他の価格と同様に、報酬というだけでなくインセンティブでもあることだ。分配の公正を理由に慈善的な価格方針をとれば、負のインセンティブ効果を招きかねない。要するに、いつもながら市場には、国民の支援を意図した発案をかえって前より困窮させるものに変える苛立たしい傾向があるのだ。このため貧困撲滅の構想は、単に賃金を上げるよりもっとずっと高度なものでなければならない。支払われる賃金を操作するよりは、いっそ労働者に(税制などを介して)金銭を与えるほうがましなことが多い。

(p.260 - 261)

 

 賃金について論じるときに「不公平」の問題にこだわることは誤っている、とヒースは指摘する。ここで言われるのは、経済学や文明論の本などでよく見かける、「分配よりも経済成長や労働生産性の向上が重要である」という主張だ*1。たとえば発展途上国では労働者はたしかに生活も大変なくらいに苦しんでおり、その一方で上流階級は富をため込んでいるように見えるが、実際には、上流階級から富を押収して労働者に配れたとしても、労働者の生活はほとんど向上しないだろう。そもそも絶対的な「富」の量が発展途上国では充分ではなく、上流階級も見かけほどには富をため込んでいないからだ。

 そして、「なぜしたくもない仕事をする人がいるのか」問題については、以下のように述べられる。

 

最後に、市場経済での個人の雇用割り当ては計画されていないことを覚えておきたい。社会を順調に動かすため、一定数の人たちが医者やパイロット、小学校の先生、料理人、修理工、ごみ収集人、コンピュータのプログラマーなどになると同意しないといけない、しかし大人になったら何になりたいかを高校生にアンケート調査すると、人はただ自然に適切な職業グループに分かれるわけではないことは明らかだ(言うまでもなく、社会の半数がラッパーや女優やアート系映画監督の経済はうまくいくわけがない)。だから、志望者が殺到している職業から方向転換させて、人材不足の職業へと流しこむメカニズムが必要になる。このプロセスはおのずと強制的である。ほとんどの人は自分がしたいこと(芸術家、俳優、音楽家)をあきらめるよう要求されるのだ。「社会」が求めること(ウェイター、データ入力事務員、管理スタッフ、販売員)をするために。

この強制はさまざまな方法で実行可能である。卒業する学生全員が適性検査を受け、全員の進路を把握する巨大コンピュータで仕事が振り当てられる、そんな計画経済が思い浮かぶ。いかにも無味乾燥でつまらない方法だ。市場経済でこれに代わる解決法が、ずばり競争的労働市場をもつことである。すべて順調にいけば、超満員の部門の賃金は競り下げる一方で、供給不足の部門の賃金は上昇する。その結果、ある部門の高賃金に引き寄せられ、またほかの部門の低賃金や失業で追い払われ、人々が右往左往した末にすべての雇用が満たされる。各自の選択でそうしているとしても、労働市場がある程度は強制的な役割を果たしていることに変わりはない。夢をあきらめ、望んでいたよりも地に足の着いた生活を受け入れさせるのだ。そしてこれを達成する手段が、賃金の変化と関連部門にはびこる失業率である(この点で社会があまりに多くの人間を俳優にしないよう、どれほど努力しているかを考えてほしい)。そこで特定の賃金がどれほど「公平」か「不公平」かを考えるときに、労働市場が人々に多くのつらい決断を課すことに社会が依存している、そのことを覚えておきたい。特定の職業では生計を立てられないという単なる事実は、それしか給料がもらえないのは不公平だということを意味しない。「社会」がその職業に就くよう要求していない、ということではなかろうか。あまりに多くの人がもうしている仕事だから。

(p.265 - 266)

 

 また、「賃金を決めるのは、経済もしくは雇用先よりも広い部門の平均生産性なのである」(p.269)。たとえば、メイドやベビーシッターなどのサービス業の人がやる仕事は豊かな国でも貧しい国でもほぼ一緒であるが、生産性が高くて豊かな社会ほど、サービスは製品に比べて割高になる。これは、生産性の高い社会では「ある人が一定の時間を費やすことで儲けられる賃金」の平均が底上げされるために、サービス業に提示する給与額も高くしなければそれをやってくれる人がいなくなる、ということに由来している。ただし、サービス業の給与を高くしなければならないということは、「サービス業の人を雇う」というインセンティブが弱まることでもある。発展途上国の富裕層が多くの使用人を雇える一方で、先進国では金持ちであってもメイドを雇うことを渋ることになるのはこのためだ。また、メイドの仕事そのものの生産性は、電子掃除機が発明されたことなどを除けば19世紀からほとんど変わっていない。しかし、雇用する側としては支払う金に見合う産出物を期待するために、メイドの労働条件は先進国でほど過酷になる。メイドの仕事とは専門知識や道具で高められる効率に限界があるタイプのものであるために、成果を増やすためには条件を悪化させるしかないからだ。

 とはいえ、自分自身が生み出せるものの価値ではなく、社会全体の生産性によって賃金が決まっていることは、大半の人にとってはラッキーなことである。もし、生み出すものの価値によって賃金が決まっていたら、技術進歩の恩恵を受けやすいタイプの仕事(農業や工業など)をしている人の賃金は大幅に上がっていた一方で、サービス業の賃金はほとんど向上することがなかっただろう。

 

ある意味、給料は実際の仕事よりも、できたはずのことに支払われている。少なくともそれだけの額をもらってない人は今の仕事をやめて、そのほかの仕事を始めることだろう。仕事はほとんど同じなのに、法学教授が哲学教授の二倍ほど稼いでいる理由はこれである。実際の話、たいがいの法学教授はもしも大学を辞めて弁護士の仕事に就けば、今よりもっと稼げるだろう。それにひきかえ、哲学教授は、哲学を教えるしか能がない。たとえある日、世界じゅうの哲学教授の給料が半額にカットされても、哲学科は一つたりとも閉鎖されないと思う。法学部はそうはいくまいが。

こうしたことから二つ目の問題が浮かび上がる。外ではそんなひどい選択しかないなら、哲学教授はなぜそれほど給料をもらえるのか?答えは、私たちの経済の二つ目の均等化傾向に関係している。つまり大きな組織では、従業員間の賃金格差を平らに均しがちということだ。

(……中略……)

企業内になぜこの賃金の均等化が起こるのかは想像に難くない。結局のところ、社員は協力して働かないといけないのに、賃金のばらつきは内輪もめや対立の大きな種なのだ。前述のように私は(大局的に見て)給料のもらいすぎだと思っている。だから、なるべく不平は言うまいと努めている。私に薄給だと感じさせるのは、この世にただ一つ、同僚の稼ぎを知ることだ。この「同僚」とは「同じ大学の同じ学部に勤めている人」を意味する。他大学の哲学教授のサラリーを偶然かいま見ることもあろうが、それで興奮したりしない。なぜか?私には何の影響もないから。同じ学部長に報告し、まったく同じように報酬を決められる廊下の向かいの部屋の主が、私より給料がいいのとはわけがちがう(このため、私の給料がネット閲覧できる根拠となっている法律などの公共部門の情報開示法は、公共部門の給料に上げ圧力を与えるという逆効果を生みがちだ。国民はこんな給料にほんの少ししか関心がないが、給料をもらっている当人は大いに気にしている。同僚の給料を知ることで賃上げ要求が生じるのは周知のことである。まさしくそのために企業はこの情報を秘密にしたがるのだ)。

(……中略……)

私は明らかにこの二つの均等化傾向の恩恵をこうむっている。残念ながら、社会全体が同じだけ利益を得ているかは定かでない。第一の傾向は比較的恵み深い。哲学教授の賃金上昇にしたがい、サービスの需要が低下して、哲学の研究はぜいたく品と化していく。このことが文化に与える影響を嘆く向きもあろうが、少なくとも労働力をより生産的な雇用に向ける(希少性価格形成があらゆる資源を最も生産的な雇用へ向かわせるように)という利点はある。第二の傾向はさほど恵み深くない。大学内に賃金均等化の圧力があるならば、学部によっては教職員の維持が困難になる。外部の選択肢に対抗できるほどの高い給料を払えないからだ。人材をおびき寄せるには、たいがい大学教授という地位の優越に訴えるしかない(多くの点でそれは逆選択を形成する)。その一方で(哲学などの)ほかの学部は文字どおり数百件という単位で求職者を断るはめに陥る。「世界にこれ以上もう哲学者は必要ありません」と言う合図となるべき賃金率が、まったく逆のメッセージを送っている。結果として、社会はその分野への参入を妨げるには、低賃金よりも失業に頼らざるをえない。このために「宝くじ経済」のようなものが形成され、大儲けする人もいるが、ほとんどの人は結局まったく儲からない。

(p. 273 - 276)

 

 男女の賃金格差というトピックについては、「同じ仕事をしている男女で賃金の差があるなら差別なので改善すべきだ」という主張のほかにも(これは否定しようのない正論だ)、「従業員の大半が女性である仕事(ピンク・ゲットー)が低賃金であることを改善すべきだ」という主張がされることがある。つまり、労働者の大半が男性である仕事(倉庫作業など)はピンク・ゲットーの仕事(受付事務など)に比べて賃金が高いことが多いが、これらは受付事務より倉庫作業のほうが価値が高いからではなく性差別の結果に過ぎない、と論じる主張だ。

 

…過去数十年に、主だった反差別機関は、男女とも「同一価値に対する同一賃金」を受けるべきという、いささかあいまいな主張を展開してきた。この「価値」は一般に、能力、努力、責任、労働条件の四つの要素で決められる(…中略…)

このような場合の提言は、受付事務は「平等に認識され報酬を受けていない」となる。ここでは「認識」という言葉の用法が重要だーーつまり受付事務が倉庫作業より賃金が低いのは、社会または雇用主がこの仕事の難しさを公平に評価していないことに関係があるというのだ。要するに、みんな性差別主義者だから、電話で話すより箱を持ち上げるほうが大変だと考え、受付事務より倉庫作業に高給を払う、というわけだ(ほかにこんな主張もある。女性主体の仕事は歴史的に男性主体の仕事ほど「高評価」されてこなかった。「したがって、公正な賃金を支払われなかった」。この一文の「したがって」は重要だーーつまり、賃金の高さと貢献度がきちんと「評価」されることには因果関係があるというのだ。これが「社会の認識」の誤謬である)。

(…略…)倉庫作業では受付事務とまったく同じ難易度の仕事で高い賃金を得ているとするなら、なぜ受付事務員は倉庫作業に応募しないのか?答えは、性差別のせいで倉庫作業には雇われにくいから、かもしれない。だが、そういうことなら、賃金格差と戦う正しい方法は、女性に平等にそのような職業への門戸を開かせることーー雇用差別をなくすことだ。ゲットー(=スラム街、転じて不遇な部門)をなくす最も簡単な方法は、そこから離れやすくすることだ。

しかし、もちろん、多くの受付嬢が倉庫作業に興味をもつとは思えない。一つには、人の能力や趣味はさまざまで、その好みに照らして最も負担にならない仕事をしたがるからだ。倉庫作業と受付事務は同じ労働力プールから出てきてはいない。一方の欠員を他方からの応募者で満たすことはない。そのため、受付事務の口が一つできるごとに十数人が応募し、倉庫作業には二、三人しか来ないことが起こりうる。結局、倉庫作業の給料が上がるのは、労働市場がさほど競争的でないからにすぎない。

肝心なのは、これが現実だと示すことではない。肝心なのは、同じ難易度の仕事が別の賃金率だというだけで差別があるとは推定できないことだ。そのような推定をするには、この二部門のあいだに高度な短期間の労働移動性もなくてはならないだろう。

労働市場の競争性は、もう一つカテゴリーをつくることで仕事の評価体系に簡単に組みこめたはず。求人一件あたりの有効求職者数が下がれば、スコアは上がる。これは「希少性」と呼ぶことができる。こうした要素を報酬に関係づけて扱っていないことが、この評価体系の設計者のきわめて意図的な選択を示している。背後には明らかに、賃金の権利付与の根拠としての道徳的理論がある。残念ながら、それは資本主義経済で賃金が決まる道筋とは何の関係もない。ここに内在する主張とは、賃金は仕事の難易度と必要な技能にもとづくべきで、その技能をもつ人への「社会」のニーズが多い少ないは問わない、というものだ。もしこの原則が一般化したら、私たちは最も必要とされる部門へ労働力を送るメカニズムを失ってしまうだろう。

 

(p. 277 - 279)

 

 そして、近頃だとよく話題になる「エッセンシャル・ワーク」や「ケア・ワーク」の一種である看護師という職業についても、以下のように論じられる。

 

もちろん、女性が歴史的に向き合ってきた強制的な職業選択は、ほかの分野での差別の遺産である。ほかの道を閉ざされていたから、伝統的に特定の仕事に就いてきた。だけど解決法は、女性の部門の賃金をあげて、それこそ間違ったシグナルを送ることではない。女性には報酬を高めるのではなく、過密な部門の仕事を求めるのをやめさせるべきなのだ。政府のような大きな雇用主にはある程度、賃金を均等化する裁量があるが(大学が哲学教授に過分な給料を払えるのと同様に)インセンティブがむしろ逆効果になることが多い。

看護師の仕事を例にとろう。典型的なピンク・ゲットーである。医師は昔はほとんどが男性だった。医大への入学でも、医学界の風土でも、女性差別がとても強かったからだ。医師は給料も看護師よりずっと高い。しかし、この賃金格差があるのは、社会が「福祉」関係の職業をきちんと評価していないからではない。医師になれたはずの同世代の女性がごっそり看護師になることを強いられたからだ。参入障壁が除かれ、おおぜいの女性が医大へなだれ混んでいった(それで今やイギリスとカナダは男性より女性の卒業生が多く、アメリカではほぼ同数だ)。女性が医師になりたがった理由の一つとして、看護師より稼げることがあるのは間違いない。意外でも何でもなく、現在の病院は看護師不足に悩まされつつある(そして保持の問題に直面している)。かくして看護師の賃金は上昇し、同時に医師の収入は低下している(女医は男性医師と比べると平均で稼働時間が短いのも一因)。

裏を返せば、世界は大なり小なりしかるべき姿になりつつあるのだ。医大の根強かった女性差別が除かれたとたん、賃金の不平等が起こり、さらなる介入が要求されることはない。そこへ踏みこんで賃金を操作したくなる誘惑には抗わねばならない。二〇年前に看護師の給料を人為的に上げていたら、男女平等の達成という大きな目的には不利に働いたはずだ。多くの若い女性が医師になることのインセンティブを減じていただろうから。

(p.280 - 281)

 

 今回紹介したヒースの議論のポイントは、賃金と社会のニーズを結びつける議論は正しいが、賃金と社会の認識を結びつける議論は誤っている、ということであろうか。

 グレーバーにせよサンデルにせよ、ネオリベラリズムメリトクラシーというイデオロギーが存在することを前提として、そのイデオロギーによってエッセンシャル・ワークなり工場労働者なりの賃金は(人為的に)低いままにさせられている、という主張がされていた。『ブルシット・ジョブ』の議論は、グレーバー自身の独断で「必要とされる仕事」と「不必要な仕事」とを切り分けて区別することを前提とした、道徳主義的なものであった。サンデルの『実力も運のうち』では、金持ちも貧乏人も「お金を稼いでいる人ほど社会に貢献している」というメリトクラシーの規範を内面化していることが前提とされていた*2

 一方で、ヒースの議論では、賃金に影響を与えるのは労働者個人の能力というよりも社会全体の生産性であることを指摘しながらも、労働者と雇用主のそれぞれのインセンティブや自発的な選択によって賃金が決まることも強調している。

 実際のところ、わたし自身の労働者としての経験をふまえても、ヒースの議論のほうが納得がいく。たとえばわたしはフリーター時代にTVゲームのデバッグのバイトをしていたが、それは最低賃金であるのはもちろんのこと、働ける日数や時間がきわめて不安定(クライアントの要求やプロジェクトの進捗によって必要な人員の数が変わるため、週に何日出勤できるかもわからず、当日の夕方ごろになってようやく次回の出勤日が教えられる)であり、賃金を稼ぐという面では最悪に条件だった。しかし、わたしはそこで二年以上働いていたし、それよりもずっと長期間バイトとして働き続けている人は他にもいっぱいいた。なにしろTVゲームなので作業自体がラクであったり楽しかったりすること、体力もコミュニケーション能力もほとんど必要とされないことなどが、ほかのバイトや仕事を探すのではなくデバッグのバイトを続けるというインセンティブになっていたのだ。職場には引きこもり経験者や発達障害者と思わしき人も数多くいたし、わたしと同じように彼らにとってもその職場に留まり続けることについての強いインセンティブがあることはうかがえた(他の職場では働けそうにない人が大量にいたのだ)。雇用主の側も半ばそれを承知しており、意図的に、引きこもり経験者を積極的に採用していたようでもある。……いまから思えばある種の「搾取」がはたらいていた環境ではあっただろうが、とはいえ、労働者にとっても雇用主にとっても利害が一致している部分もあったのだし、そこで働き続けるという選択自体はわたしたち労働者のほうがおこなっていたのだ*3

 デバッグ以外にもわたしがいままでの人生でおこなってきた仕事のほとんどはきわめて低賃金であったが、わたしがやりたいことやラクそうな仕事ばっかりやりたがっていたために、必要とされる人数に対して希望者が多いタイプの職種を選んできたことが原因である(動物の看護、ゲーム業界、Webライターなど)。逆に、比較的に賃金が高かった特許事務の仕事はあまりにつまらなかったので一年で止めてしまった。……低賃金で仕事をさせられること自体はイヤなことであるし、最低賃金などが上がることでわたしがもらえるお金が増えるにこしたことはないが、とはいえ、わたしに低賃金しか支払われていないのが自然な成り行きであることは自分ごとながら自覚していたのだ。

 反資本主義的な言説では「新自由主義」や「自己責任論」を忌避するがあまり、雇用主ではなく労働者のほうもインセンティブに影響されながらも自発的な選択をしている、という事実が見過ごされがちである。選択の結果をどこまで搾取的であるとみなしたり、自己の状況について個人としての労働者はどれだけ道義的な責任を負うかという規範論とはまた別に、社会における現状の原因の一部は個々の労働者や女性による選択も原因になっている、という事実論を無視してしまうと、意図しているのとは逆の効果をもたらすような誤った解決策しか提案できなくなってしまうだろう。

 

 最低賃金制度が存在することや最低賃金が底上げされることが労働者に対してもたらす影響については経済学者の間でも意見が割れるようだが(過去にはネガティブに考える経済学者が主流派だったのが最近はポジティブに考える人のほうが増えているようだ)、ヒースは、「一定水準よりも低い賃金は、人間の尊厳と相容れないと思う」(p.283)という理由から最低賃金を高くすることを支持している。

 とはいえ、この主張は「経済とは無関係な考察」であり、道義的な理由に基づいて主張していることがはっきり明言されていることがポイントだ。経済に関するメカニズムの分析と、それをどうするべきかという道徳論を混同させてはならず、切り分けるべきなのである。

 

一般に、誰それが充分な給料をもらっていないという結論に飛びつくのは安易すぎる。単に仕事を見て、その仕事にいくらの「価値がある」か直観的に判断するというだけでは不充分だ。賃金は市場経済では価格であり、一つのものの価格はつねに他のすべての価格次第で決まる。そのうえ、価格は基本的に相対的な希少性を追いかけるもので、このため賃金は、その仕事をする意思または能力がある人が何人いるかに強く影響される。実際の仕事や必要とされる労力とはまったく関係がない要素に影響されるから、特定の賃金率が公正か不公正かという直観的道徳的判断に頼れば、単純化された政治判断に、極端な場合には役に立たない労働市場政策につながるのがおちである。

(p.285)

 

*1:

davitrice.hatenadiary.jp

*2:

davitrice.hatenadiary.jp

davitrice.hatenadiary.jp

*3:とはいえ、サンデルが前提としているような「お金を稼いでいる人ほど社会に貢献している」というメリトクラシーの規範を内面化してそれに基づいて「自分はぜんぜん社会に貢献していないダメ人間なんだ」と思ったことは一度もない。わたし以外の人についても、サンデルが論じているようなかたちでメリトクラシーの規範を内面化している人なんてほとんど見たことがない。