道徳的動物日記

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現実逃避としてのケア論(読書メモ:『「格差の時代」の労働論』)

 

 

…労働や生産性を人間にとって最も重要な価値であると規定し、そうした価値を促進すように社会の諸制度は編成されることを唱導する「労働中心主義社会」も、まさしく卓越性原理に基づく社会であると考えることができるのだ。

『正義論』を執筆した中期のロールズは、こうした労働中心主義社会に反対していた(社会の効率や生産性よりも正義の実現の方が優位にある)。…

(p.185)

 

もしこれらの利益(自尊心、社会からの承認、疎外感の克服、健康)を与えてくれる活動が労働以外にもあるならば、「社会が雇用主」となる必要はなく、人びとがそうした活動を行うことを可能にするための、ベーシックインカム政策のみを政府は施行すればよいこととなる。問題は、今のところ、そうした活動は「労働」以外には無い、という点である。

(……中略……)

なぜ無いのか、またなぜ無いといえるのか。

それはこの社会が依然として労働中心主義社会だからである。

(p.202 - 203)

 

そんな社会情況のなかで、「労働中心主義」の呪縛から逃れるためには、つまりこの労働に対する過度の価値付与を修正するためには、労働を取り巻く環境の改善という現実的思考と、それと並行して労働の新たな意味づけという抽象的思考の両方を我々は模索しなければならないのではないだろうか。

 

そのための選択肢として、三つの立場を挙げうる。

第一に労働中心主義社会を保持したままで「労働の解放」を目指す立場。労働は人間の本質的な活動であるという近代的な考えを修正することはないが、労働環境の改善(職場の民主化等)を通じて、誰もが有意義な労働を行うことができるような状況を生み出す。(若き)マルクス主義、そしてサンデルの共和主義などがこれにあたる。

第二は、同様に労働中心主義社会を保持するが、ワークシェアや普遍的な所得保障を実現することで「労働からの解放」を目指す立場。労働には価値はあるが、辛い活動であり、有意義な余暇の時間をできるだけ増やすことによって古典古代の人間性の回復を志向する。ラッセルや今村仁司などがそれにあたり、ベーシックインカム論者の多くもこれを支持する。

第三はベーシックインカムを実現することを通じて、労働中心主義を解体し、働くことの意味を再構築した上で、生きるために低賃金でも働かざるをえないという状況から「有意義な労働への権利」、並びに「働かない権利」を制度的に保証するという立場である。これが、ロールズの主張する「財産所有の民主制」に基づきながら、私が最も望ましいと考える立場である。

 

(p.205 - 206)

 

「最も望ましい」かもしれないけれど、問題なのは、それに実現可能性があるかどうかというところだろう。ロールズの正義論はあくまで理想理論であり、具体的な問題については、何が望ましいかと言っているだけでは足りない。それに比べると、第一や第二の選択肢のほうが、程度問題ではあるがある程度の実現可能性はありそう(少なくとも実現を志向してはいる)という点でずっと好ましい。

 そもそも、「労働中心主義」が存在するとしてそれを解体することは可能であるのか、という問題がある。この本のなかでは「自尊」を重んじるロールズが「労働以外の活動からも人々は自尊の感覚を得ることができると考えていた」(p.184)ことが指摘されて、具体的には文化的活動や政治的活動が自尊や自己実現の元となることが述べられている。これは、この本やロールズに限らず、大体の政治学者や人文学者や学問ファンや本好きや怠惰なツイッタラーがこぞって述べているような、凡庸でありきたりな主張だ。そして、これだけ多くの人が「労働中心主義」の解体の必要性を唱えているにも関わらず、全く解体される気配がないことからは、やはり目を逸らしてはいけないだろう。

 

 この本の最終盤で著者が提唱するのが「絆としての労働」論だ。

 

換言すると、他者との社会的な絆を形成し、それを維持することを目的とする活動も<労働>と名付けられるであろう。たとえ、それが経済活動としては低レベルだったり、無意味だったりしても。そして、それこそが「正しい労働」ではないだろうか。

(p.216)

 

このように考えてくると「生きることは労働だ」という障がい者運動における主張も別様に解釈することが可能となろう。脳性マヒによって、寝返りを打つことさえも一苦労な状況にある人にとっては、生きていること自体が「労働」である、すなわち「骨折り(labor)」であるということをこの主張は含意していた。しかし、障がい者の生存のために介護や自立支援を行うことを通じて、人びとの間にネットワークが形成されることは、もう一つの側面から解釈すると<労働の発生>とみなしうる。生きていること自体によって人びとを結びつける活動を障がい者は行っているのである(同じことは乳幼児や高齢者にも当てはまる)。

 

(p.216 -217)

 

 上記の議論も、なんだか綺麗事というか「お題目」という感じが漂う。

 労働や生産性(≒経済)が関わる事柄について人間関係や絆(≒ケア)を持ち出したり「障がい者」を持ち出したりしながらなにかしらの「解釈」を提示してなんだか解決した感じにする、というのはここ最近の人文学ではすっかり定番の展開となっている。しかし、このテの議論は、経済に関する通常の議論が目を向けて扱おうとしているジレンマやトラブルから目を逸らすものでしかないように思える。

 高齢化社会が社会で大問題となっているのは、労働によって物品や富などのリソースを生産することができる人口の数が減り、自分ではリソースを生み出せず消費することしかできない人口の数が増えることで、社会全体で分配されるリソースの平均量がどんどん少なくなっていって人々の生活の質が全体的に下がっているという現状に不満を抱く人が多かったり、やがて社会が破綻することを危惧している人の数が増えていたりするからであろう。通常の経済活動がケア活動に依存していることが指摘されるようになって久しいが、その一方で、ケア活動も通常の経済活動に依存していることも忘れてはいけない。みんなが「他者との社会的な絆を形成し、それを維持することを目的とする活動」だけをしているわけにはいかないのだ。

 同じく、文化的活動や政治的活動をする人ばっかりの社会も、まともに機能するとは思いがたい。結局のところ、社会は「生産性」を必要としている。生産性を個人にとっての重要な「価値」と定義することは卓越主義につながってロールズ的にはダメかもしれないが、社会がある程度以上の生産を行い続けることが個人にとっても「必要」であることは認めるべきなのだ。……そして、社会における生産が継続するかどうかは、結局のところは個人の行動に委ねられている。

 

 このテの本では労働や経済活動が大なり小なり軽んじられたり憐れまれたりする一方で、ケア労働をしている人と障がいを持って生きる人は、文化的活動をしている人や政治的活動をしている人と並んで望ましい存在としてやたらと価値を見出される、というのもなんだか不思議だ。いろいろと理屈はつけられるが、最終的には象牙の塔に引きこもっている(ロールズを含めた)人文学者たちに特有の「生産性」嫌いや「経済」嫌いおよび「政治」好きと「文化」好きによるもの、つまりは趣味や嗜好の表明に過ぎないのではないか、とわたしは疑っている。