道徳的動物日記

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読書メモ:『道徳の哲学者たち 倫理学入門』

 

 

 本書の特徴は、第一部「古代の哲学者たち」でアリストテレスプラトンを、第二部「近代の哲学者たち」でヒュームやカントやミルを取り上げながらも、それぞれの哲学者たちの思想に存在した課題を指摘しつつ、それらの課題に関するひとまずの解決をヘーゲル主義(ヘーゲル本人の著作ではなくフランシス・ハーバート・ブラッドリーの思想が代わりに取り上げられる)に求めているところだ。また、続くニーチェの章ではマルクスフロイトなども取り上げながら、既存の道徳哲学の問題とそれに対してヘーゲル主義がいかなる解決を提示しているかということに関する議論が補強される。ちなみに、ここで呈示されるヘーゲル主義は、コミュニタリアニズムにもかなり近いものだ。

 具体的には、以下のような主張が呈示される。

 

道徳の第一の特徴は、私が道徳の「疎外的」性格と呼ぼうとするものである。これまで見てきたように、マルクスが「疎外」という言葉を用いるのは、賃金労働の生産物と活動が、労働者にとって外的なもの、よそよそしいものとして経験されるにいたることを説明するためであった。マルクスはこの言葉をもっと広い意味にも捉えていて、人間の活動の所産である社会の諸々の制度や慣行が、それら自身の生命をもつようになり、それらの制度などを創造した人間を逆に支配するようになる事実を指すのに用いている。こうした意味で、狭義の道徳概念は一つの疎外された現象と言うことができる。それを人間は、自らが順応しなければならない一連の外的要求として経験する。つまり道徳とは、カントが、我々が遵守するべき「道徳法則」または「定言命法」と説明しているものである。ニーチェフロイトが明らかにしているのは、道徳という現象を説明する心理的な仕組みである。 対照的なのはヒュームとアリストテレスであろう。ヒュームは道徳的価値を、共感という人間の自然的感情に根ざすものと描いている。またアリストテレスは、道徳的卓越性を、その行為者自身の幸福と繁栄が与えられる件に根ざすものと描いている。

(…中略…)

狭義の道徳概念の第二の特徴は、道徳の自己否定的性格である。この特徴をマルクスは、実際には支配者階級 のものである偽の「一般利害」への服従という言葉で説明している。(…中略…)「古代人」とは異なり、利他主義の倫理が「近代人」に特有の倫理的姿勢であることを、私はすでに示唆しておいた。我々が今探究する必要があるのは、利己主義と利他主義の厳格な二分法を乗り越える倫理的立場の可能性である。そのような立場は、たとえ利他的行為であっても、それが満足と充実感を与えるがゆ えに行なわれるものなら、そのような行為は道徳的価値をもつものとは見なされないとする、カント的な考えを超えるものである。そのような立場がどのようなものであるかは、ここでも課題として残されたままである。

狭義の道徳概念の第三の特徴は、その個人主義的性格である。「道徳的」判断は、行為者個人の道徳的地位や、 その人の道徳的卓越性に狭く焦点をしぼり込む傾向がある。さらにいっそう強烈には、その人の道徳的罪という否定的観点に焦点が当てられやすい。このような先入観の基にあるのは、個人の責任という擁護できないくらい に強力な観念である。そこに欠けているのは、個人の行動は社会的文脈の中で行なわれるという認識、したがって価値判断は個人がある仕方で行為するように導く社会的制度にも同様に向けられる必要があることの認識である。それは、個人は社会的・心理的圧力に反応してそのように行為するという事実、そしてもし個人が異なる仕方で行為することを我々が望むとするなら、彼らに道徳的命令を指し示すより、彼らの行動を引き起こす状況を変えるよう努めた方がうまく行くだろうという事実を、正当に評価しそこなっている。(…中略…)

さて以上が、一般的な意識を完全に支配し、「道徳」そのものとしばしば同一視されている道徳概念である。 私はカントが、こうした概念を最も精確に反映させた道徳論を展開している哲学者であると暗示しておいた(はいえ、カントの道徳論を、単に一般的な意識の無批判的なイデオロギー的反映と見なすことは無意味であろ う)。ニーチェマルクスフロイトをもとにして、狭義の道徳概念を疑問視するのに適した論拠を得てきたのであ流。我々は「道徳」という語をーー今や一揃えの包括的な価値として、いかに生きるべきかについての考 え方としてもっと広く理解することによってーーより適切な道徳についての「非道徳論的」概念を求める試みの論拠を得たわけである。この広義の道徳概念は非疎外的な概念でなければならないであろうし、純粋な自発性の擁護という意味での道徳概念ではなく、道徳的要請を自然的な人間の傾向性や反応の中に根づかせているよう な道徳概念でなければならないであろう。それは、「古代」と「近代」の統合を目指し、利己主義と利他主義の 厳密な二分法を超越するような概念でなければならないであろう。すでに指摘しておいたように、そのような概念に向けての出発点は、個人の社会的性格をヘーゲル的な仕方で承認することであろう。個々の行為者にだけ狭く焦点を合わせることを乗り越えなければならない。その際には、例えば、人間の基本的必要を組織的に打ち砕 いて人々を「非道徳的」行為へと導く社会制度や慣行もそれ自体等しく「非道徳的」であることを認めなければならないであろう。第三部で再び、このような広義の道徳概念を明確にする可能性の問題を取り上げたい。

(p.260~263)

 

 この本の良いところは、単にビッグネームの哲学者たちを並べるだけでなく、「プラトンにはこんな問題があったけれどアリストテレスはその問題をこのようなかたちで乗り越えた。しかしアリストテレスの議論にもこのような問題があって、それは続く哲学者たちがこのようなかたちで乗り越えて…」という風に、発展段階を明確化するかたちで倫理学の歴史を記述しているところだ(それ自体がヘーゲル的と言えるかもしれない)。そのおかげで、「次の章ではどのような議論が展開されるんだろう」とワクワクしながら読み進めることができる。

 また、それぞれの哲学者の解説もかなり論理的かつポイントを抑えているうえに簡潔であり、流し読みでスラスラと理解できるほどに平易ではないないとはいえ、しっかり読んでみれば充実した理解が得られて考えさせられるような内容になっている。各哲学者の規範的な主張について「こんなこと言っています」と結論だけを示すのではなく、それぞれの議論の背景にある前提や論理を説明することで、倫理学史を学ぶと同時に道徳的な概念や立証に関するメタ倫理学の考え方も学んでいくことができる。このような一石二鳥的なお得さのある倫理学入門や倫理学史の本は、他にはなかなか存在しない。それでながら著者の主張がはっきり出ている点も読み物としての面白さにつながっている。絶版しているのか、中古価格がやたらと高騰しているところだけが玉に瑕と言えるかもしれない。

 

 以下では、特に参考になった箇所をいくつか引用。

 

アリストテレスの「しかるべきしかるべきって言うけど、その"しかるべき"ってどうやって判断するんだよ」問題について

 

アリストテレスにとっては、感情はそれ自体が理性の具現化となりうる。感情を管理し指導することは、理性の問題だけではない。むしろ感情それ自体が合理的である場合もあれば合理的ない場合もある。理性は感情の中に存在するとも言えるのである。

感情が合理的であったりなかったりするとはどんな意味だろうか。本質的には、感情がうまく状況に適合するかそうでないかという問題である。怒りの場合を取り上げよう。ある人が私に挨拶しないという理由で私が激怒するとしよう。全く不適切な形で私は自制心を失い、そこでの原因とは全然ちがうところでかっとなる。この私の怒りは不合理である。別の場合として、ある一群の子供たちが年下の子供を非情にもあざけりいじめるのを見て、私が激怒するとしよう。本当にひどいことだ、というのが原因となって、この私の怒りはまったく適切だということになるだろう。するとこれら二つの場合では、私の怒りは一方は不合理で他方は合理的なのである。

「合理的な怒り」を話題とし擁護することは主知主義にすぎるように聞こえるかもしれない。しかし、ここで述べていることの意味に十分注意してもらいたい。私の怒りが独立した合理的な決断の産物である、ということではない。私はまずどう応答すべきかを自問し、状況への考察と評価を下し、それから怒ることに決めた、というわけではない。私の怒りは、まったく直裁的に自然に出たものであろう。それでも私の感情は、状況の本質に気づいているという意味で、合理的と言えよう。この感情は、例えば本筋とは別に事情によって歪められているということがない。

(…中略…)

アリストテレスが、中庸を守るとはしかるべき機会にしかるべき理由でしかるべき程度にしかるべき人に対して感情を抱くことだ、と言うときに指しているのはこのことなのだ、と私は思う。アリストテレスの理想とは、理性と情動をもった生活という理想である。その理想が節度の説になることをその限定的な意味合いにおいて受け容れることが、どうやら我々にはできそうである。それは、特定の機会に過多や不足になるものは何でも避けることを含んでいるだけではない。一般的水準において、理性が感情を抑止し制御するという「プラトン的」理想と、非理性的な情動の自発性という「ロレンス的」理想との中間にある立場だと説明することもできよう。しかし別の意味では、それはこれら二つの立場の中点ではなく、根本的に二つの立場両者の反対に位置するものである。というのも、理性と感情の間の避けられない敵対関係という、両者に共通する想定を退けているからである。

(p.64 - 65)

 

倫理学に必要とされる知識の「厳密さ」に関するアリストテレスの議論

 

アリストテレスはさらに、[イデアに関する]その知識が得られたとしてもそれを倫理学と関連づけることはできない、と言っている。プラトン的なイデアについての知識は永遠不変なるものについての知識であろうが、他方、倫理学の知識は我々の行為を導けるような種類の知識でなくてはならないだろうし、それゆえに可変的な事柄についての知識でなくてはならないだろう。また、イデアについての知識は普通的なものについての知識であろうが、他方、倫理学で我々に必要なのは個別的なものについての知識である。というのも、個別の状況においてこそ我々はいかに行為すべきかを決 定しなければならないからである。もちろん、道徳哲学で我々が目指すのは、個別的なものについての知識にとどまらない。しかし、我々が作り出そうとしている普遍的な要求は、個別の状況においての我々の経験から一般化したものとなるだろう。そのような普遍的要求は、そのようなものとしては大ざっぱな近似値であるだろうが、 倫理学では主題へのふさわしさを超える正確さや厳密さを求めるべきではない。どんな分野にもそれにふさわしい精密さの基準がある。例えば大工が測る直角の正確さは、幾何学者のそれと同じではない。したがって、倫理学に期待できる一般規則とは、ただ大まかな真理性を有している、そして日常生活や個別の状況に立脚した経験の蓄積に由来している一般規則なのである。道徳哲学はこうした経験の共有を前提としているから、若くて経験の乏しい人たちに適した主題とはならない。…

(p.47 - 48)

 

●利己主義と利他主義に関する古代ギリシャの議論

さて、グラウコンによれば、正義が正しい人にとって善いのは、他の人に対して正しく振る舞うなら他の人もまた自分に対して正しく振る舞ってくれ、その結果快適に暮らしていけるからであった。ソクラテスの説によれば、正義は単純に有利な結果をもたらすものではなく、それ自体が最大の利益である。グラウコンにとっては、 正義は道具的な善である。それは善く生きるために必要とされるものを得させてくれる。ソクラテスの説では、正義は本質的に善なのである。それが善く生きることなのである。それゆえ、グラウコンによれば、正義と利益との間には外的な関係が存する。ソクラテスの説によれば、その関係は内的なものである。

(…中略…)

アリストテレスは[プラトンとは異なり]「健康」と「病気」といった用語は用いていないが、しかし彼もまた、心理的な事実に訴えている。プラトンと同様、彼も理性と感情の正しい関係という見地から徳を分析している。彼は、最も幸福で最も充実した人生とは、それらが正しく関り合っている人の人生であると述べている。というのも、そのような人こそ、十分に人間的で理性的な人生を生きているからである。

(…中略…)

プラトンアリストテレスが、他の人に対する適切な配慮を自分自身の幸福にとって不可欠なる要素としてもち出しているのだとしたら、利他主義的な徳についての彼らの説明は、ただもっぱら他人を助けることに喜びを感じる人の利他主義と同様、決して怪しげなものでないことは明らかであろう。

 

(p.72 - 74)

 

●弱い意味での普遍化可能性と強い意味での普遍化可能性

さて、たしかに弱い意味で合理性が普遍性を含むということができる。理性的であるために、私の行為は、整合的であるという意味において普遮化可能でなければならない。嘘の約束に関するカントの例を取り上げてみよ う。カントが想定するのは、「金を借りる必要に迫られていて、自分がそれを返すことはできないだろうと分かっているが、同様にまた、一定期間内にそれを返すとはっきり約束しなければ、一銭も貸してもらえないことも分かっている」というような人である。そして彼は、守れないと知りながら、そのような約束をするこ とを決心したとする。もし、自分の行為が合理的に正当化されなければならないと彼が思っているならば、その場合彼はカントが言うように、「金が必要であると思う場合にはいつでも、決して返せないと分かっていても、 返すと約束して金を借りることにしよう」という普通的な原理あるいは格率に身を委ねていることになる。そしてもし彼がこれを普遍的な原理として認めることができないとすれば、現在の状況に関して自分の行為を正当化する適切な追加的特徴を提示しえない限り、この例において自らが正当化されたと見なすことは合理的ではな
くなる。

これが、ーー整合性としてのーー弱い意味での普遍化可能性である。行為は、普遍的な原理、すなわち適切に類似したすべての状況において同じ仕方で行為せざるをえなくさせるような普遍的な原理の下に置かれるのでなければ、合理的ではありえない。しかしカントは、もっと強い意味での普遍化可能性を望んでいる。彼が望んでいるのは、単なる一貫性の原理だけではなくて、理由の非個人性の原理とでも呼びうるようなものである。この考えによれば、理由は特定の個人にとって特有のものではありえない。仮にRがにとって、行為Aを行なうのに妥当な理由であるとすれば、それはまた、万人にとっても、類似の状況においてAを行なう妥当な理由でなければならない。理由とは、本質的に万人にとっての理由なのである。こうして、約束の例において、もし嘘の約束をする人が自らを合理的に正当化されると考えるならば、彼はまた次のようなことも認めなければならなくなる。すなわち、金を必要とし、それを返すことができない場合はいつでもそのような約束をすることが、他の誰の場合にでも等しく正当化される、と。そしてもし彼がこのことを認めることができないならば、この場合に自分が正当化されると見なすことは、合理的ではないことになる。

 

(p.134- 135)

 

●幸福に関する、ミルのエリート主義?

量だけではなく質をも考慮に入れることで、ミルは部分的にプラトンアリストテレスの立場に立ち返ってい る。この二人がしたように、完全で本物の幸福を購成するものを見つけ出すためには、人間本性に特有のもので、人間を他の動物種から区別するようなものに目を向けなければならないと彼は考えるである。しかしアリストテレスとは違って、人間本性から人間の幸福についての見解への移行をミルが試みるのは、次のような木質主義的論証によってではない。この本質主義的論証とは、特定の活動が本質的に人間的であるのだから、その活動が人間生活の自然で本来的な目的を構成し、人間の幸福の内容を与えてくれるとするものである。ミルにとっては、人間本性と人間の幸福とのつながりは、このような本質主義的なものではなく心理学的なものである。

(…中略…)高級な快楽が優越していると言われるのは最終的には人間がそれを選好(prefer)するから、ということでしかないが、その優越性の決め手になる選好は選択肢を現実に経験した人のものでなければならない。経験する快楽がおおむねありきたりで知性を欠いたものに限られており、まったくそういったものだけを追求し続けるような人が多数存在することは疑いない。ミルが主張しているのは、そのような人々も、人間に能力上可能で要求度のより高い楽しみのいくつか を適切に経験することができるなら、そうした楽しみをより報いのあるものと見るようになるだろうということ であろう。「適切に経験する」という表現が重要である。文芸・芸術の楽しみ、知的探求、創造的で想像力にあふれた仕事、大義への精力的な献身から得られる快楽は、時間をかけて親しまないと得られないものかもしれないのである。そうした快楽を得るためには、長期にわたる専念と関わり合い、一時的には後退することもいとわ ぬ気持ち、そして場合によっては教育の過程が必要である。しかしそのような活動がもたらしてくれるものを実際に経験したことのある人なら、それ以後はそれらを手放そうとはしないであろう。
このことは、ミルの立場は「エリート主義的」だというもう一つの一般的な反発に対するミルの回答ともなる だろう。高次の快楽の優越性は「唯一の有資格者である〔適格な〕裁定者の下した評決」によって決まるというミルの言葉に対して、読者はよくこんな風に応じがちである。なぜ自分がその評決を受け容れるべきなのか。もし自分が本当に情熱的にそしてもっぱらいわゆる「動物的」快楽に没頭しているのなら、他人にそれらの快楽を劣ったものと決めつけるどんな権利があるだろうか。ミルの回答は、まったくそんな権利などないーー選択肢を 真に経験できるとしたらあなた自身がどのように判断するかということに基づく権利以外にはーーというものであろう。ミルがかなり重みを乗せている足場は、もしそれらの選択肢を完全に経験できさえすれば、すべての人 が本当に高次の快楽を選好するだろうという想定である。彼はこのことにわずかではあるが、しかし重要な限定 をつけている。ある時期には高次の快楽を評価できたにもかかわらず、その後それを顧みなくなり、無感覚の習慣に逆戻りするような人が存在するということをミルは認めているのである。しかし、彼の考えではそうした事例も、社会学的、心理学的に説明可能で、退化の事例ということになるであろう。
他にも二つの修正がミルの立場には付け加えられるべきである。これらの修正はミル本人は付け加えなかったものである。私の考えでは、ミルのどちらかといえば厳格に主知主義的な高次の快楽の説明は、修正を加えられるべきである。彼は、高次と低次の快楽の区別が、知的(さもなければとにかく精神的)な活動と肉体的な活動の区別に対応すると想定しがちである。このことを想定する必要はない。表面的な快楽以上のものを与えてくれ る肉体的活動は、数多く存在する。つまり技能、エネルギー、気配り、懸命さを必要とし、そのような仕方で追求されるときにだけ価値と楽しみが分かるような活動が多く存在するのである。熟練した職人技の活動のような例を考えるなら、知的/肉体的の二分法は大いに誤解を招きかねないものである。第二の修正は、高級の快楽と低級の快楽を対比させるとしても、低級の快楽が価値ある人生から排除されねばならないということにはならない、というものである。ミルには低級の快楽を除外する傾向があった。彼には、肉体的感覚の快楽を端的に随落 的であると見る傾向があったのである。とはいってもこのことは、彼の一般的な立場にとって本質的なものではない。食べ物、飲み物、セックスという三つの基本的な欲求対象はかなり評判が悪いが、それなしには人間生活は確実に貧しくなる。それらを「低級の」快楽と特徴づけてはいるが、ミルはまったく矛盾なしにそれらの位置を認めることができたはずである。ただし、ほとんどがそれらの快楽に捧げられた人生、そしてより広範な意義の脈絡からそれらの快楽だけを取り出した人生は、いくらそういう快楽に富んでいても、つまらない空虚なもの であるということを言い添えるだろう。

(p.163-165)

 

●特殊の功利主義、普遍のカント主義

ブラッドリーは「なぜ私は道徳的であるべきか」という章の中で、「自己実現」 (self-realization)を、倫理学の中心概念として、さらに道徳が本来目指すべきものとして確認している。そこで、自己実現とは何であるかを決定することが倫理学の課題となるのだが、ミルとカントはそれぞれこの問題に対して一面的な回答を提出している。ミルは自己実現を快楽の達成と見なし、カントはそれを義務の遂行を通した善意志の達成と見なしているのである。これらの回答は以下の点で一面的である。ミルは普遍を排して特殊の面を強調するが、これに対しカントは特殊を排して普遍の面を強調する。そしてまた、ミルが形式を排して内容の面を強調するのに対し、カントは内容を排して形式の面を強調する。両者はいずれも、特殊と普遍の統一、形式と内容の統一を正当に扱うことができないのである。

この点について説明することにしよう。功利主義は善き生と快楽を最大にすることとを同じものと考えるのだが、その際、善き生を単なる一続きの孤立した特殊的な事柄、すなわち快の感情の状態の単なる連続と見なし、 その唯一の目的はできるだけ多くこれら快の感情の状態を達成することであるとする。しかしそれらは単に特殊的な事柄であるにすぎず、決して互いに有意義な関係にあることはなく、かくして、これらすべての特殊的状態 にある快の感情を密接に連関した一つの全体へと統合する普通という概念が欠けているのである。それらはただ加算されるだけであり、したがって、形式を欠いた単なる内容であるにすぎない。なぜなら、それらが合算され ても、何ら意義ある包括的な形あるいは型になるとは見なされないからである。それらは単に一つの集種された ものでしかないのである。これに対しカントは、普遍性と形式の面を強調するのだが、そのようなカントのやり方によっては、それらは単なる空虚な普遍性と単なる空虚な形式となってしまい、特殊的・具体的なものとなるいかなる手段からも分断されている。カントの道徳性はただ普遍的法則という観念との一致を命ずるだけでありそれは正邪を判定する純粋に形式的な吟味の手段を提案するのである。しかしすでに見てきたように、いかなる行為も普遍化されえないようなものはないのであり、それゆえ、普遍化可能かどうかを吟味することから具体的な結果を引き出すために、カントは外部から内容をひそかに引き入れ、以前には排除すべきだと主張していた有用性や結果についても考慮せざるをえなくなるのである。

 

(p.190 - 191)

 

●「社会関係の倫理学

ブラッドリーの社会関係の倫理学は、それが説得力を持ちまた受け容れられるためには、これまで見てきたような仕方で修正される必要がある。考慮されねばならないのは、さまざまな砿類の社会関係のこのような根本的 拡張である。しかしながら、このように拡張されるとき、この倫理学はとてつもなく重要な理論となる。この重要性は、我々がカントや、ミルの中に見出した問題にまで立ち返って考えてみるとき、初めて理解することがで きるのである。彼らの共有していた基本的な問題は、利害に関わらない利他主義をいかにして合理的に正当化するか、という問題であった。彼らの失敗から(そして彼らの数知れぬ後継者たちの失敗から)我々が学びとるのは、そのような正当化は、純粋に形式的な合理性や論理に訴えることによっては与えられえない、ということである。すでに見たように、カントは、他肴の権利を尊重しまたその利益を促進するという義務は、普遍化可能いう形式的な要求から導出されうる、ということを示そうとしている。しかしそのようなことは不可能である。 普遍化可能性の原理が純粋に形式的な合理性に基づくものである限り、それは首尾一貫性の原理であるとか、また理由の非個人性の原理であると正当に解釈されることができるが、公正さの原理であると解釈されることはで きない。また、ミルが、自分自身の幸福を欲する個人という概念から出発し、単なる論理によって、我々はすべてお互いの幸福を欲するべきだということが示されうる、と想定しているのを見た。彼もまた成功してはいない。 孤立した個人という概念から出発する限り、個人の幸福から万人の幸福への移行は不可能なのである。実際に人 間を相互に結びつけている現実的な緋を考慮するときにのみ、私心のない他人への配慮が合理的なものとして示されうるのである。すなわち、ミルのように非社会的な個人から出発すべきではなく、ブラッドリーのように、 他者への関与をその内に含む関係に組み込まれた社会的存在としての個人という概念から出発すべきなのである。 自己を社会的自己と解するときにのみ、自己と他者との間の道徳的間隙を埋めることができる。このことを理解してはじめて、我々は利己主義に対する反駁を用意することが出来る。この反駁は、利己心に何か外面的な物を付加することによるのでなく、人間にとって重要な事柄は単に欲求や利益だけではないことを示すことによって なされるのである。他者との関係は、利益の追求や欲求の満足とまったく同様に、人間の生活の中で重要な役割を果たしており、前者は後者に還元されうるものではないのである。
我々がここで行なっているのは、利己主義から利他主義へと議論を進めることではなく、両者の二分法の不適切さを明らかにすることである。友人に対する誠実さという例をとって考えてみよう。もし私が困っている友人 を助けようと自分の時間を犠牲にして努力するとき、私は長い目で見て自分の利益につながるという理由からそうしているのではない。もし私が真の友人であるなら、私は、「たぶん彼もいつか私に同じことをしてくれるで あろう」などとは考えない、しかしながら、友人を助けることによって私は自分を何か外面的な事柄の犠牲にしている、と考えるのも適当ではないであろう。友情は私の人生に不可欠な一つの構成部分である。他の個人やさ まざまな人間の集団、主義主張や制度に対する私の献身的態度や誠実さなどのすべてがそうであるように、友情は私のアイデンティティを明確にし、私の人生にその意味を与えてくれる。ブラッドリーが言うように、私の自己は「他者の存在によって浸透され、影響を受け、特徴づけられており、その内容は共同体のあらゆる性質の組織的な関係を包含している」のである。そしてこのことは、私がそうした誠実さに基づいて行為するときは、私のアイデンティティの意識を保持したり、私の人生に意味を与えたりするためにそうしているのだ、ということを言っているのではない。そうではなくむしろ、このような他者への関係が私自身のアイデンティティの一部であるとともに、私の人生に意味を与えるものの一部であるというこの事実の方が、こうした関心事への積極的な私自身の献身のうちに、そのおのずからなる表現を見出している、と言っているのである。

 

(p.200 - 202)

 

 またもや写経みたいな記事になってしまったが、著者が展開する「社会関係の倫理学」は、ある面では八方美人的で凡庸なものにも見えるところもあるが、魅力も強いものだ。コミュニタリアニズムをはじめとして、アリストテレス主義やケアの倫理などの「いいとこ取り」な倫理になっているように思える。

 とはいえ、著者自身も留意しているように、社会関係やアイデンティティの枠を超えた相手に対するより普遍的な道徳問題について対応できるのか、というのが気になるところもであるが。