道徳的動物日記

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レトリックに基づいて物事を考えてはいけない理由

 

 

 英語圏で定期的に出版されている、ストア哲学ライフハック自己啓発に活かす方法を説くタイプの本だ*1

 本書の特徴のひとつは、数多くいるストア哲学者のなかでもローマ皇帝マルクス・アウレリウスを主人公としていること。各章の前半では彼が人生で経験した様々な出来事や問題と当時のローマの世情や政局を描きつつ章のテーマとなる課題を示しながら、章の後半ではその課題に具体的に対処する方法が解説される(前半は歴史読み物風に「〜だ〜である」調、後半は解説書風に「〜です〜ます」調に訳し分けられているところも印象的)。

 もうひとつの特徴は、著者が認知心理療法士であるということから類書よりもストア哲学認知行動療法の共通点が強調されており、具体的なアドバイスも類書に比べて心理療法的で実践的であるというところだ。

 

 本書でとくにわたしの印象に残ったのは、第二章にて、ストア哲学と修辞学やソフィストが対比されている場面だ。

 

ソフィストたちとは対照的に、エピクテトスは、学術的な学びと知恵を混同してはいけないこと、つまらない論争をしないこと、抽象的すぎたり学術的すぎたりするテーマに時間を浪費しないことを生徒たちに警告し続けた。彼は、ソフィストストア哲学者の根源的な違いを強調した。前者は聞き手の賞賛を得るために話し、後者は聞き手に知恵と徳を共有してもらうために話すのである(『語録』)。ソフィストの話はエンタテイメントのように耳に心地よい。一方、哲学者の話は、教訓的だったり心理療法的だったりするので、しばしば耳に痛いものになるーー聞き手が自分の過ちや欠点と向き合い、ありのままの自分を見つめる作業になるからだ。エピクテトスは「哲学を学ぶ場は診療所だ。楽しみより、痛みを期待して行くべきだ」と言っていたという。

(p.58 - 59)

 

修辞学を捨てきれずにいたマルクスを、それに惑わされてはいけない、言葉を弄して高潔な人物を演じてはいけないと説得したのはルスティクスだった。そして、誇張したり、詩的にしたり、飾り立てたりする言葉を避け、地に足がついたストア派的な話し方をするようマルクスを厳しく指導した。言い換えれば、マルクスは修辞学からストア哲学へと完全に転向したのであり、このことが彼の人生にとって決定的な転換点となった。しかし、なぜ言葉の使い方を変えることが変革をもたらすのか?現実を見栄えよくしようとするのが修辞学であるのに対し、現実をありのままに把握しようとするのが哲学だからだ。本格的なストア哲学者に変貌を遂げたことで、マルクスの基本的な価値観が変わった。ストア派が言う「賢明な話し方」が簡単なことではないことも理解していった。それを実践するには、勇気、節制、哲学的真理への誠実な取り組みが必要になる。これから説明していくが、この方向への転換は、話し方だけでなく、出来事に対するまったく新しい取り組み方へとつながっていく。

(p.77 -78)

 

ストア派が定めた話し方における5つの「美徳」を、ディオゲネス・ラエルティオスの『哲学者列伝』が紹介しています。

 

1 正しい文法、優れた語彙

2 話している内容を容易に理解できる表現の明瞭さ

3 必要以上に言葉を使わない簡潔さ

4 話す主題と聞き手に適したスタイル

5 話す技術の卓越性、下品にならないようにすること

 

簡潔さという顕著な例外があるものの、伝統的な修辞学とストア派のそれは価値基準のほとんどを共有しています。ところが両者は完全に逆のものだと見なされていました。感情に訴えるレトリックを使って他者を説得しようとするのがソフィストです。一方、ストア派は感情に訴えるレトリックとか強い価値判断をともなう言葉を意識的に使わないようにしていました。そうすれば、相手の理性に働きかけることができ、知恵の共有が可能になるからです。私たちは通常、他人を動かしたいとき、悪く言えば他人を操縦したいときにレトリックを用います。しかし、自分相手に何かを話したり考えたりするときにもそのレトリックを使っていることに気づいていません。ストア派も、自分の言葉が他人にどんな影響を及ぼすかに興味を持っていました。しかし、言葉の選択を通じて、自分が自分に影響を与えたり、自分の考えや感情を変えたりすることの方をもっと重要視していました。私たちは強い言葉やカラフルな比喩を使うことを好みます。「雌犬みたいな女だ!」「あのろくでなし野郎が私を怒らせた!」「この仕事はクソだ!」。一見、怒りなどの情念が感嘆符付きのこういった言い方を生み出しているように思えます。しかし実際は、その言い方が情念を生み出したり、その情念を悪化させたり長引かせたりしていないでしょうか?誇張したり、過度に一般化したり、情報を省略したりするレトリックには、強い感情を呼び起こす力があります。そのためストア派は、出来事をできるだけ簡潔かつ客観的に表現することで、レトリックによる感情効果が生じないよう心がけたのです。また、この考え方が怒りなどの不健全な感情を癒す古代ストア派心理療法の土台を成しています。

 

(p.79 - 81)

 

 ストア派では、外界の物事に対して自分の心の内に形成された「心像/表象」(パンタシアー)に振り回されるのではなく、「自分がどんな心像を形成しているか」という点を理性によって「把握」(カタレープティケー)して、客観的に事実を認識して感情に依らない判断をしたり自分の感情のほうを事実に合わせて訂正することが重要とされる。これは、自分や患者の「認知の歪み」や「自動思考」を把握して、その誤りや歪みを具体的・客観的に示したのちに訂正することを目指す、認知行動療法の考え方と共通しているのだ。

 

出来事そのものに留まることができれば、不安が軽くなることもあります。認知療法の世界では、最悪のシナリオにこだわることを"破局視"と呼ぶようになっています。"破局視"は、クライアントが外の出来事に自分の価値観をどのように投影しているかを理解してもらうために使う用語です。私たちが「もう終わりだ」と言うとき、実際に起こっているのは"終わり"でも"破局"でもありません。出来事をその人が"破局視"しているだけです。それがクライアントが実際に行なっている活動であることを自覚してもらいます。簡単に言えば、話を大げさにしています。仕事を失うことは本質的な意味で"破局"ではありません。しかし"破局視"すると、それがどれほど悪いことであるか受動的に認識するところで終わりません。私たちの思考は、積極的にそれを"破局"に変えていきます。価値判断を加えることで、現実を吹き飛ばして心の中で"破局"を体験することになるのです。

認知行動療法では、自分を苦しめる"破局的な"価値判断をしているのがまさに自分であるという当事者意識を"認識"する手助けをします。古代のストア派の教師と同じように、出来事を現実に即した客観的な言葉で説明してもらうことでこれを行います。

 

(p.84)

 

  著者によると、ストア派による状況認識のテクニックは認知療法創始者であるアーロン・ベックが患者に「脱破局視化するための台本」を書かせたのに似ている(患者自身に、強い価値判断や感情的な言葉を伴わない客観的な文章で、自分の状況を記述させる)。外的な事柄から価値判断を分離させ、「私たちを動揺させるのはその出来事ではなく、その出来事に対する私たちの判断だ」と理解して、現実とそれを捉える私たちの思考との間にある認知距離を認識するメタ認知のプロセスは、ストア派においても認知行動療法においても鍵となる。

 

 さて、いま作家業のほうで進めている「反・ポリコレ本」の執筆作業をしているうちに気付いたことのひとつが、ポリコレ的な概念や理論は多かれ少なかれ修辞学的であり、そしてストア派の考え方はポリコレ的な概念や理論に対する処方箋となることだ。

 たとえば、ジョナサン・ハイトは認知行動療法の理論家であるデビッド・バーンズの「認知の歪み」リストを参照しながら、マイクロアグレッションやトリガー警告といったポリコレ的な発想は認知の歪みを是正するのではなくむしろ悪化させてしまう危険性が強い、と指摘している*2。マイクロアグレッション理論には破局視や感情的推論やマインドリーディングなどの認知の歪みを助長する効果があり、相手の言動から「無意識の偏見」や「侮辱」や「敵意」を読み取ってそれによって精神的ダメージを受けるように人々を誘導する。「些細な言動に対しても人は傷つき得る」というレトリックが普及することで、それまでは傷つかなかったような言動にも人々が傷つくようになっていく、という逆説的な事態が生じているのだ。

 また、「特権」理論もかなりレトリック的なものであり、あえてマジョリティとマイノリティとの対立を誘発するようなかたちで世の中の事態や構造を描き出すものであった*3。特権理論の問題点のひとつは、その提唱者たちも最初は自分たちの政治的な意図を自覚しておりレトリックであることを認識したうえで論じていたのであろうところを、この理論が普及することによって一部の人々はレトリックであるのを忘れてほんとうに「特権」が存在しているかのように認識するようになったこと、特権理論とは違うかたちで世の中の事態や構造について把握することが困難になってしまったことだ。他人の感情を操作するためのレトリックが知らぬうちに自分たちの思考を蝕んでしまう、という事態はこれまでにも政治運動などにおいて起こり続けていたのだろう。

 そして、もっと初歩的な問題として、ポリコレは「理性」や「中立」を疑問視して「感情」や「主観」を全肯定する風潮をもたらしている*4ストア哲学認知行動療法から得られる最大の教訓は、本人の感情や主観を全肯定することはその本人にとって有害であるということだ。

 近年では心理療法や精神医学に関わる人のなかにもポリコレ的な考え方をするような人が増えており、彼らの一部は認知行動療法個人主義的・新自由主義的であると否定して、患者の抱える問題の社会的な原因や政治的な原因を強調する。これについては心理療法や精神医学の方法論の違いとか学派の対立として捉えることもできるかもしれないが、わたしとしてはやはり認知行動療法的な考え方のほうが実際に患者の抱えている問題を解決するうえでは有効であるように思える。

 

 とはいえ、とくに本邦では「反ポリコレ」側な人たちもレトリックを多用していること、そのために社会にとっても「反ポリコレ」側な人たち自身にとっても有害な影響が生じていることは指摘しておいたほうがよいだろう。

 たとえば「かわいそうランキング」というレトリックの問題については何度か指摘してきた*5。また、「弱者男性は社会的価値がないから虐げられており、現状のこの社会ではどう足掻いても不幸になり、誰からも共感や愛情の対象とされない」というレトリックは、社会における実際の状況を極端かつ針小棒大に解釈したものであり、それを真に受けた当の弱者男性を幸福にすることはまずあり得ない*6。最近に流行っているレトリックとしては「能力主義や学力主義は、差別の基準が異なるだけで、人種差別や性差別と同じように差別の一形態に過ぎない」というものがある……能力主義や学力主義の問題点を指摘することは結構だし、差別との類似性を発見することもできるだろうが、それは簡単に済ませられるようなものではない。「能力主義と差別は一緒であるのか、違うとしたどこが違うのか、なぜ能力主義は正当化されるのか」ということに関してはずっと昔から議論が積み重ねられているであり、いまさら誰かが一言で矛盾を指摘したり欺瞞を喝破したりすることはできないのだ。

 これらの問題は、「反ポリコレ」的な論客の大半はストア哲学者に対比されるソフィストであることに起因している。彼らは世の中を改善することよりも「議論」に勝って自分を賢く見せること、自分の「顧客」たちにエンタテイメントを提供して感情を慰撫して短期的な満足を与えること、それによって自分の著作やnoteを売ることにしか関心がない(もちろん、「ポリコレ」側にも同様にソフィスト的な人たちは散見されるが、割合にはかなりの差がある)。

 

 昨年から登場した「親ガチャ」というレトリックも、この問題に関する社会的な関心を広めたという功績があることは否定できないが、事態を実際以上に悪く表現しており、若者たちの「破局視」をさらに悪化させているという弊害があるように思える。氷河期世代に関する政策を「棄民政策」と表現するのも同様だろう。

 あるいは、SNS進化心理学を語る人が「オス」「メス」や「ホモサピ」という言葉を多用しながら安直で一面的な人間観を喧伝すること、男女論を語る人が「穴モテ」などの物言いを好んで使用するのも、ストア哲学では「下品にならないようにすること」が重視されているのとは対比的だ。……社会の構造だけでなく、男女の関係性の機微や人生について考えるうえでも、感情的な刺激の強い単語を用いるとそれに思考が引っ張られてしまい、的を得た考察をすることができなくなってしまう。複雑な物事について考えるためには「上品さ」も不可欠になるのだ。

 これらの事態の原因は、字数がひどく制限されているSNSでは「箴言」を言い放つのは容易であるが「議論」を展開するのは困難であること、そのためソフィストにとって適応的な環境になっていることにあるだろう*7。字数を割いて議論を展開することが仕事であるはずの物書きや大学教授ですら、SNSではアフォリストに転身して、レトリックを量産するのに満足しているという有様はよく見かける。

 

 物事について適切に考えて、社会の状態を正しく把握したり自分の人生を良くしたりしたいなら、ソフィストに耳を傾けるべきではない。とくにSNSでは、誰かの言葉に感情を動かされたときにこそ、その「感情を動かされた」という事実が、相手のことを警戒するべき理由となるかもしれない。