道徳的動物日記

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「新自由主義」や「自己責任論」は実在するか?(読書メモ:『<学問>の取扱説明書』)

 

 

 

 久しぶりに写経っぽい読書メモ。

 

新自由主義」という言葉自体にも気をつけなくてはいけません。日本語の「〜主義」、あるいは英語の<〜ism>という言い方はすごく曖昧です。「マルクス主義」とか「ヘーゲル主義」「カント主義」などの個人名が付いている時の「主義」は、その固有名詞と結びついてる特定の思想やイデオロギーに自覚的にコミットしていることを意味するわけですが、「自由主義」とか「社会主義」、あるいは「フェミニズム」になると、その幅がかなり広くなります。むしろ思想傾向とか、基本的な考え方の枠組みくらいのゆるい意味で理解した方がいいかもしれません。「民主主義」だと、そもそも英語にすると、<democracy>で、「主義」「思想」ではなくて、「制度」です。「資本主義 capitalism」も、思想的な意味での「主義」ではありませんね。<capitalist>という英語はありますが、「資本主義者」ではなくて、「資本家」という意味です。「主義 〜ism」が付くからといって、特定の「思想」を信奉していることにはなりません。「資本家」であれば、自分の利益や「資本」を廃棄しようとするマルクス主義の運動に反対するのは当然ですが、それは別に「資本主義」という「思想」を信奉しているからではありませんし、資本主義社会を守る運動をしたいわけでもありません。

昔のマルクス主義者には、そのへんを根本的に誤解して、自分たちがマルクス主義を信じて、社会主義を奉じているように、資本家=資本主義者たちが、“資本主義”を信奉して、自分たちと対峙しているかのような言い方をしていたのがいました。個々の“資本家”ーーというより、現代では大企業の経営陣とか株主と言うべきですがーーが自社の利益確保のためにやっている行為の帰結を、資本主義を守るためのイデオロギー策動だと解釈してしまうのです。

(p.73 - 74)

 

例えば、監視カメラが多くなっていることをサヨクの人は「監視社会化」と呼び、ネオリベと結び付けたがりますが、どうして規制緩和、小さい政府を推進するネオリベ派がそんな金も手間もかかることをやるんです?仮に、監視社会化と規制緩和推進のいずれもが政府や資本の意図するところだったとしても、それを「ネオリベ」という一つの論理で括るには無理があるでしょう。

「資本家=資本主義者」に固有のイデオロギーがあるはずだと最初に想定してしまうから、監視カメラと規制緩和が一緒くたになってしまうんです。「新自由主義」という少しだけ目新しいレッテルを政府や大企業のやっていることに貼り付けたら批判していることになる、と思うのは子供です。

権力っぽいものに妙なレッテルを貼って分かったつもりになるのではなくて、個別に見ていかないといけません。起業家や商売人にとって、全ての規制緩和がいいわけない。自分に都合の良い規制なら維持してほしいし、都合が悪いものなら廃止してほしいと思うでしょう。後者が多かったら、規制緩和の圧力が強まる。それだけのことです。そういう商売人の振る舞いをイデオロギー扱いするのはナンセンスです。「支配するためのイデオロギー」という観念があってそれに基づいて動いているわけではない。

(p.75 - 76)

 

私もロールズの正義論をめぐる一連の論争なんか見ていると、「ポイントは単純なんだから、もっとあっさり言えないのか?」と思うこともあります。ですが、日本での格差をめぐる政治論議のような、「おまえはこんな〇〇の人に共感できないのか!」と共感を押し付ける語り方を見ていると、アメリカのリベラリズムの哲学者たちのように、当たり前のことについて論理的に考えてみる姿勢が重要だと言わざるをえない、という気がします。

また日本の左翼の批判になりますが、日本の左翼には、ロールズ的な意味での「正義論」なんてない。資本主義を打倒する「革命」を断行するのか、それとも、資本主義の中での改革をちょっとずつ進める社民でいいのか、という話しかしていない。革命で共産主義を目指すにしても、共産主義がどういう正義の原理に基づく社会で、それがどうして正当化されるのかなんて、議論しない。

強いて言えば、「私的所有を排して、能力に応じて働き、必要に応じて受け取る。それが人間の本性に合っているので正しい」という正義の原理はあるのかもしれませんが、そんなことを言われても、受け入れるか受け入れないか、どっちかしかないでしょう。具体的な正義の基準がないので、その善し悪しについての論争をしようがない。受け入れてしまえば、後は共産主義社会に至る方法論の問題だけになってしまう。革命の方法論をめぐって論争すると、みんなラディカル(極端)なことを言ったりやったりして、自分の方法論こそが革命的であることを証明しようとしてしまう。「おまえは口先で革命家ぶっているが、俺たちはこういうラディカルな実践を……」というかんじで(笑)。ラディカルさが、何だか男らしさの象徴みたいになって、みんないきがってどんどん過激になっていく。

「男らしさ」っていうと、フェミニストに叱られそうだけど、フェミニストにも、「ラディカル競争」をやって、男らしさを示そうとしているとしか思えない人が結構いますよ。

(……中略……)

フェミニストに限らず、日本の左派は妙に潔癖性で、「知らず知らずに利敵行為をしてしまう」ことを警戒して、「おまえのここが弱くて、敵につけ入られる恐れがある」と指摘し合う傾向があります。最も敵につけ入れられにくい潔癖な議論が、一番ラディカルな議論になるわけです。もちろん、戦前の伝統的文化を復活させようとする右翼がいかにも男っぽいラディカル・パフォーマンスを追求したがることについては、言わずもがなです。ちょっと前までは、右の方は思想論壇では少数派だったので、「右=保守」という大きな括りでゆるく団結していたようなかんじがありますが、最近では思想論壇でも多数派になったせいか、新しい歴史教科書をつくる会の分裂劇だとか、新米保守対反米保守だとか、皇室のあり方をめぐる論争だとか、ラディカル競争っぽいことをやっています。さっきも言ったように、日本の左翼/右翼の思想家に、文学系の人が多いことも、レトリック的なラディカルさにばかり惹かれて論理をおろそかにする傾向が生まれる原因の一つになっているのかもしれませんね。

(p.150 - 152)

 

リーマン・ショックで大量の派遣切りが起こったのは、二〇〇四年に労働者派遣法が改正されて製造業への派遣が可能になり、製造業の派遣労働者が増えていたからだ、というのはその通りだと思いますが、個々の企業がリストラをするのは、自分が生き残るためであって、別に「新自由主義」というイデオロギーに従ってやっているわけではないでしょう。正社員よりも簡単に首を切れる派遣労働者という存在がいたから、先に首を切ろうとするだけであって、派遣社員の人たちをわざと不安定な状態に追いやって、より搾取しやすくするために、業界が示し合わせてやっているわけではないでしょう。非正規社員を統治しやすくするために、密かに協働する余裕なんて、どこの企業にもない。

(……中略……)

派遣労働が解禁になるまでは、日本の企業は労働者をもっと大事にしていた、不況になっても企業全体で痛みを分かち合っていたと言う人はいますが、あれもそれほど客観的な根拠のある話ではないでしょう。どういう経営状態になったら、どのようにリストラしたり、賃金カットしたりしていたのか、個別企業ごとのデータがないとはっきりしたことは言えません。企業の経営環境とか労働形態はどんどん変化しているので、正確な比較は難しいでしょう。派遣労働法の改正によって、不況になった時に派遣労働者が真っ先にリストラの対象になる状況が生まれた、とは言えますが、派遣労働者がいなくて正社員ばかりだったら、労働者と企業の関係はもっと良好だったはずだとは簡単には言いきれないでしょう。

一九九〇年代末から小泉政権期にかけての「改革」で、日本の企業のメンタリティが変わったという可能性は否定できませんが、「新自由主義の下で、労働者を物のように扱う傾向が出てきた」などという漠然とした言い方は、何も言っていないに等しい。それは、マルクス以前から、資本主義的な工場労働がはじまって、労働者階級が形成されはじめた頃からずっと言われていることです。

(p.210 - 211)

 

……「市場原理主義が悪い」という漠然とした言い方では、どういう正義の原理を求めているのか分かりません。日本語の日常用語で「正義」と言うと、アニメの「正義の味方」のような絶対善の化身を連想しがちですが、西欧の経済倫理学、政治哲学、法学などで「正義 justice」と呼ばれているのは、社会的な「公正さ」の基準を提案する議論だったわけでしょう?現在の市場の正義の欠陥を批判するなら、それがどう言うものなのか原理的に把握したうえで、自分はそれに代わる正義の原理として、こういうものを掲げるという態度を示さねばなりません。

念のために言っておきますが、「弱者を見捨てないで、同じ人間として連帯し合う」とかいうのは、心の持ち方の話で、「正義の原理」ではありませんよ。労働問題で「正義」を求めるのなら、現在の企業と労働者の間での利益配分のルールがどのようになっていて、それがどのように不公正であるか理論的に説明したうえで、公平に分配するための基準や方策、例えば、同一労働同一賃金の原則とか、労働配分率のルール化とかを提案して、その方がより正義に適っていることをーー単純に共感に訴えかけるのではなくーー正当化しなければなりません。

ロールズの議論がそうであるように、正義論は、社会全体にとっての公正さを求める正義感覚と、自己の利益・安全を確保しようとする利己心との間でバランスを取る必要があります。労働組合という組織は、特定の企業あるいは業者に属する労働者が利害を共有しているからこそ組織化できるし、その利害を代表して、企業と交渉することができるんです。「この現実を見て、何とも思わないのか!」と叫んで、それに共感する人を一時的に集めることはできるかもしれませんが、制度として定着させるには、共感できない人でも支持できる「正義の原理」を示す必要があります。私が、ネオリベ批判の人たちが嫌なのは、自分たちが「ネオリベ」なる悪を倒す正義の味方の役割を演じれば、自ずから正義が実現されるかのような語り方をしているからです。

(p.215 - 216)

 

……「自己責任」というのは文字どおりに取れば、「自分したことに対して、自分で責任を取ること」を意味するはずですが、「弱者であることに対して責任を取れ」なんて言っている人いますか?「新自由主義は、弱者に自己責任を押し付ける」という言い方をする人がいますが、政治家や財界人、経済学者で「弱者は自己責任だ」なんて言っている人を見たことありますか?新自由主義批判の人が言っているほど、「自己責任」という言葉は、権力者や企業家の側からは使われていませんよ。

(…中略…)

いわゆる新自由主義者たちが自己責任という言葉を使うのは主として、「自己責任で、市場での競争に参加すべきだ」という文脈においてです。具体的には、護送船団方式を排して各企業が自己責任で経営判断すべきだとか、各人が自己責任で企業する精神を持つべきだとか、各人が自己責任で自分の資産を運用すべきだとかいった場合ですね。自己責任でやって失敗したら、他人のせいにできない、ということにはなりますが、だからといって、現在、「弱い立場」にある人、フリーターとかワーキングプアの人が自己責任でそうなった、ということにはならないでしょう。「新自由主義者は、ワーキングプアとかフリーターとかニートなどは、自己責任で現在の状態に陥ったので、助ける必要はないと言っている」というのは、ネオリベ批判の人が類推で言っているにすぎず、新自由主義者と名指しされている人たちが、「弱者は自己責任で弱者になった」と言っているわけではありません。どうもそこを勘違いして、意味のない批判をやっている人が多すぎます。

(p.225)

 

…政府や大企業のトップが新自由主義的な精神で政策を実行したり、企業を経営したりしたとします。でも、だからといって、その影響で普通の会社員の間にも新自由主義的なメンタリティが浸透した、というのはあまりにも大ざっぱで、論証のしようがない話です。かなり粗悪な疎外論ですよ。その辺のおじさんやおばさんが、「ニートになるのは自業自得(=自己責任)だ」と漠然と言っているのが事実だとしても、それ、単に無関心なので適当に言っているだけなのか、新自由主義イデオロギーに洗脳されているせいなのか、あるいは、古い日本的な勤勉道徳を反映しているのか……。どうとでも解釈できます。

(p.226

 

世の中にはいろいろ望ましくないことが生じていますが、個別に見ると、どれもかなり複雑な経緯をたどって生じてきているわけで、それら全てが、新自由主義的な世界改造計画のようなものに沿って動いているかのような言い方をしても、何にもなりません。全ての負の現象を生みだしている、悪の究極実態などないのですから。

若者の「自己責任」の問題に話を戻しますと、正社員になりたくてもなれなかったり、職が全然なくてニートになったりするまでの間に、いろいろな人生の選択があったはずです。極端なことを言うと、大麻を栽培したり、重大な交通事故や障害事件を起こしたりして、警察に捕まって退学になり、まともなところに就職できなかった若者でも、新自由主義の犠牲者になるんですかね?やる気が出ないので大学の授業に全然出なくて、留年を繰り返し、まともな企業に採用してもらえなかった若者は、どうですか?それほど極端な例ではなくても、自分が負の帰結を回避するために本気で努力をしたら、もっといい職に就ける可能性があった、という人は多いと思います。また、フリーターの生き方がやっぱりいいという人もいるでしょう。その人のそれまでの生き方を全体的に検証しないと、自業自得でそうなっているのか、それとも誰から見ても気の毒な犠牲者なのか分かりようがありませんよね。

(p.228 - 229)

 

 言い方はかなりキツかったり嫌味っぽかったりするが、引用した箇所で仲正が言っていることは、ロールズやロナルド・ドウォーキン的な意味での「リベラリズム」に他ならない。最後の引用箇所はドウォーキンの「運の平等主義」的な考え方を反映していると言えるし、「正義の原理が必要だ」という主張や「共感や情緒に訴えるのではなく、他人の利己心や正義感覚を考慮しながらバランスの取れた主張を理性的に訴えかけなければいけない」というところはロールズの「公共的理性」の考え方を反映していると言える。

新自由主義」批判や「自己責任論」批判が藁人形論法っぽいというのはかなり以前からわたしも思っていた(このブログでも度々そう書いてきた)し、日本のサヨクのラディカルごっこのしょうもなさにも以前からうんざりしていたが、それに対するオルタナティブな規範論としてわたしの頭のなかにあったのは、功利主義やカント主義などの規範倫理学の考え方が主であった。

 政治哲学としての「リベラリズム」やロールズの思想がこのような風潮に真っ向から反発して公共的理性や適切な意味での「責任」論を重視している、ということを理解したのは今年になって政治哲学の勉強を本格的に始めてからである。

 とくに英米の分析系は倫理学も政治哲学もかなり近くて区別が付けづらいところはあるんだけれど(倫理学はどちらかといえば「人」を対象にしていて政治哲学が「国」や「社会」を対象にしているが、倫理学でも国や社会について扱うことはできる)、時事問題や経済・労働などに絡めて論じる分にはリベラリズムの政治哲学がいちばん扱いやすく、芯が通っていて強度が高いと思うようになってきた。

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

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 本書では(欧米を中心とした)「学問」について諸々と説明されているだけでなく、日本のアカデミアや論壇に固有の事情についても紹介されているところがおもしろい。 たとえば、引用部分もちょっと触れられているが、日本は欧米に比べて文学者や批評家が思想論壇のスターになりやすく、本職の政治哲学者などはあまり重宝されないようだ。「正義の原理」についての論理的な議論が堂々と展開されず、ふわふわとした精神論や情緒的なレトリック、ラディカルなだけの放言が目立ちやすいのもそこら辺が原因であるらしい。

 そういえば最近の「スター学者たち」には小説を書いて文芸賞を狙う人がやたらと多い(ちょっと思い出しただけでも千葉雅也、岸政彦 、古市寿徳、東浩紀など)。一方でジョン・ロールズピーター・シンガーはもちろん、デヴィッド・グレーバーやジャック・デリダが小説を書いているところも思い浮かべられない。まあこれは日本だと「本」といえば「小説」というイメージが他の国に比べても強いので文筆家として活動するほど小説に対するコンプレックスができてしまうとか、そういうのもあるかもしれない。あと、日本は法学部も文学部もごっちゃにする「文系」という括りがあったり海外よりも同人誌文化が強かったりするせいで「哲学」「思想」「批評」「文芸」「社会運動」がごちゃ混ぜになる……というのもありそう。

 もちろん、ここで仲正が論じているような日本の論壇に対する批判は、ジョセフ・ヒースが『反逆の神話』などで行なっていた欧米のカウンター・カルチャーに対する批判とかなり似通っている。どこに違いがあるかというと、欧米ではロールズ亡き後にも「ラディカル」に対する「リベラル」が思想家や批評家のなかにも一定数存在し続けているが日本はそれに乏しい、という点である。

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 近頃なんとなく思っているのは、日本の言論の現状に対する責任は、学者たち以上に、人文系の思想誌や人文書の編集者たちのほうにあるのでないか、というところ。「スター学者」も編集者たちによって人工的に作り上げられていく存在だという感じがするし、明らかに理論的に無理があったり根拠薄弱なサヨク言説が掲載されていく背景にも「著述家や他の編集者たちから悪く思われたくない」「社会の問題を批判したりマイノリティの側に立ったりする議論に賛同する善人だと思われたい」という編集者たちの「保身」が存在するのではないか、という気がする。あと編集者たちはなんだかんだで本のなかでは「小説」をいちばん優れたものだと思っているから(出版社の編集者のなかには小説家を目指していたけれど挫折したというタイプの人が学者以上に多いだろうし)、学者にも小説を書くようにすすめていたりするのかもしれない。ぜんぶ憶測だけれど。