道徳的動物日記

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能力のある人は、他の人よりも恵まれた暮らしに「値する」のか?(読書メモ:『政治哲学への招待』①)

 

 

 

 

●格差原理と、不平等の正当化

 

分配の正義に関する論争において、最大の注目を集めたのは、最後の原理ーーすなわち、格差原理ーーである。不平等は、どのようにして、もっとも恵まれない人の地位を、最大限良くすることに役立ちうるのだろうか。それを理解するわかりやすい方法は、すべての人に同じものを支払うことではないだろうか。ロールズの考えは、もし人々が、実益をもたらすような諸活動において働くよう動機づけられるべきだとすれば、彼らにはインセンティヴが必要かもしれないというお馴染みのものである。そして、議論は次のように進行する。もし経済が、そうでありうるのと同程度に生産的であろうとするならば、何らかの不平等が必要(社会学者は「機能的に」と言うかもしれない)である。不平等がなければ、人々はある仕事を別の仕事以上にしようとするインセンティヴを持たないだろうーーこうして、彼らの行うはずのもっとも有益な種類の仕事(他のすべての人にとって)を行うべきインセンティヴがないことになってしまうのである。すべての脳外科医と精力的な起業家が、本来はむしろ詩人志望であると想像してみよう。彼らが詩作の喜びを慎むよう誘導する割り増し的な金銭がないとすれば、残りのわれわれは、彼らの外科医や起業家としての技量を失ってしまうことになるだろう。集団的なレベルに総合してみるなら、あなたが得るのは、すべての人に同じものを支払ったがために、すべての人ーー長期的には、もっとも恵まれない人を含むーーの利益となるような種類の成長をもたらさない非効率的で停滞した経済である。そして議論は、次のように進行する。これが、おおざっぱに言って、東欧の国家社会主義において生じたことなのである。

このような不平等の正当化は、非常に広範に受け入れられている。このことから、何人かの思想家は、不平等について気に病む必要などまったくないという結論へと導かれた。

(……中略……)

ロールズの原理が述べているのは、不平等は、もしそれが、もっとも恵まれない人の地位を最大限良くすることに役立つならば、正当化されるということだけなのである。実際、この原理は、不平等は正当化されないという主張とまったく矛盾しない(なぜなら、もっとも恵まれない人の利得を最大化するためには、どんなことでも必要だというのは、真実ではないのだから)。われわれは、不平等が必要なのかどうか、そして、もし必要ならば、なぜそうなのかを注意深く考えるべきである(そして、考えるであろう)。また、この原理が、次のことを要請していることにも注意しておこう。すなわち、不平等は、もっとも恵まれない人の地位を最大限良くするのに役立つ場合に限って、正当化されるということである。半端なわずかばかりの「トリクル・ダウン」は、この原理を満たすのに十分でない。重要なことは、もっとも恵まれない人がそうありうるのと同程度に豊かであるかどうかであって、彼らがそうであったかもしれない状態よりもましな状態にあるのかどうかではないのである。

 

(p.41 - 42)

 

自己所有権と、才能の「道徳的な恣意性」

 

自己の所有権は、どうなのだろうか。人は、この「完全な、あるいは絶対的な」意味において、少なくとも自分自身の身体ーー天賦の才能を含めてーーを確かに所有しているのだろうか。この論点について、ノージックは、明らかにロールズとは対照的である。ロールズにとって、原初状態は、市民として人々が自由かつ平等であるという考え方をモデル化したものであったということを思い出してみよう。そして、人々が平等であるという考え方は、部分的に、天賦の能力について無知であることによって巧みに捉えられていた。このことは、才能を持っているということは、「道徳的観点からは恣意的」であるとするロールズの見解を表している。人が、丈夫さや賢さをより多く持って生まれるか、より少なく持って生まれるかは、運以外の何ものでもない。それゆえ、それを根拠にして、人々がお互いに、より恵まれたり恵まれなかったりすることは、公正ではないであろう。ある箇所でロールズは、自分の正義の構想は、人々の天賦の才能を「共有資産」として扱うと述べている。なぜノージックが、人格の別個独立性や、人々は自分自身を所有しているという考えを真剣に受け止めることができていないこのような明白な失敗に、意義を唱えようとするのかを理解することは容易であろう。ノージックは、(生まれついた家族の社会階級と同様に)人々が天賦の才能を持つことが、運の問題だということを否定してはいない。しかし、それは重要なことではない。たとえそれが運であったとしても、それでもなお人々は、自分自身を所有しているというのである。

ほとんどの人は、何らかの種類の自己所有権テーゼを受け入れている。(……中略、「国家が眼球を再分配する」という思考実験が提示される……)身体の一部の強制的な再分配を拒否する一方で、再分配のための課税を支持する人たちーーおそらくは、人口の大多数ーーは、自己所有権に関してはノージックに同意するのだが、自己に関する所有権には、われわれが自分自身を使用することによって作り出した事物ーー商品や金銭ーーに関する所有権ーー同様の完全な意味におけるーーが必ず伴うということを否定している。人々は、一般に、身体の一部の強制的な再分配は、身体の一部を使用することによって作られたモノの強制的な再分配ならばそうでないような仕方で、われわれの自己の侵害を必然的に伴うだろうーー人間としての完全性を侵害するだろうーーということを信じているのである。(自己所有権を支持する直観に圧力をかけるために、多数の怪我人と血液の必要をもたらした自然災害を想像してみよう。自発的な献血だけでは十分ではない。この場合、国家が強制的な献血プログラムを始めるのは間違いだというのは明らかのことなのだろうか。)

ロールズは、自己所有権のいくつかの側面には、同意している。誰がどの身体を持つかは「道徳的に恣意的」であるとしても、依然としてわれわれは、身体的な完全性への権利と個人の自由の領域ーーそこにおいては、われわれは、干渉を免れていなければならないーーを持っているのである。ロールズの見解では、例えば、個人は自由に選択した職業に就くことができなければならない。私が卓越した外科医になることができ、そうなることが同胞市民にもっとも役に立つという単なる事実は、他の人たちが、その方向へと私を強制するために結託することを正当化するわけではない。このことは、ロールズにとって、ノージックの意味における自己所有への権利以上に、自分固有の善の構想を形成し、修正し、追求する個人の能力の重要性とより深く関係している。道徳的恣意性についてのロールズの主張は、ノージック自己所有権という概念で捉えようとした広く共有されている直感のいくつかを受け入れる余地を残しているということを理解しておくことは、依然として重要である。両者の間の大きな相違は、ノージックが、自己所有権を自己が作り出した生産物の所有権を含むところまで拡張するようなやり方で、そうした直観を用いようとした点にあるのである。

 

(p.57 - 59)

 

●「真価」としての正義という、慣習的な見解(世論)

 

[ノージックの議論を学ぶ理由として]……正義を根拠にして市場の結果を擁護する人たちが、極めて頻繁にーーそして、完全に不当にーー、実際にはまったく異なった議論であるものを、いかに混ぜ合わせがちであるかを理解する手助けになるからである。ある議論は、市場は、個人の自由にとってーーあるいは人々の自己所有権の尊重にとってーー、絶対不可欠なものであると見なしている。個人的な交換から生じる結果からは離れた強制的な資源の再分配は、自分のものを用いて自分の好きなことをする人々の自由を侵害する。(…中略…)別のまったく異なる議論は、市場は、人々に、その人に値するものを与えているのだと主張する。才能に恵まれ、一所懸命に働いた人は、才能に恵まれておらず、無気力な人よりも多くの報酬に値し、市場は、彼らがそれを得ることを保証している。これらの正当化は、特殊なケースでは一致するかもしれないが、市場の擁護者は、一致しないかもしれないということに無自覚なまま、ひとつの議論から別の議論へと移動すべきではないのである。

したがって、ノージックは、真価(ディザート)としての正義という考え方に訴えかけるような市場の結果の擁護を提示しているわけではない。ロールズもまた、まったく別の方向から、その生産活動が市場で高い値段を期待しうる人は、他人が進んで彼に支払おうとするお金に値するという考え方に断固反対している。ロールズの場合、これは、本質的に、人がその生産活動をいくらで売ることができるかを決定するにあたって、運が極めて大きな役割を果たしているからである。天賦の能力の分配は、「道徳的観点からは恣意的」であるのだから、他人が進んでそのために支払いたいような多くの能力を授けられた人は、そうでない人よりも多くの報酬に値すると主張することはできない。こうしてロールズは、「慣習的な真価の請求」と呼んでよいかもしれないものに断固反対している。それは、例えば、次のような主張である。「タイガー・ウッズは、ジーン・メーソンよりも多くの収入に値する。なぜなら、ウッズは、世界中の何百万人という人に大きな喜びを与える突出した才能に恵まれたゴルファーであり、その結果、自分の労働を非常な高値で売ることができるが、他方のメーソンは、一個のソーシャル・ワーカーである」。

そのような主張は、実際にほとんどの人が、それを是認しているという意味で「慣習的」なものである。われわれは、世論がウッズの味方であることを知っている。世論は、ウッズが、得ているだけの収入に値するとは考えていないかもしれないが、概して他人が進んで支払うようにすることができる(そして、そうしている)人は、そうしない人(そうしない唯一の理由が、できないからであっても)よりも、恵まれた暮らしを送るに値するという考え方には賛同しているのである。

(……中略……)

そして、[ロールズノージックの]この一致において、彼らは共に、世論ーーこの種の慣習的な真価の請求に大筋で賛同しているーーに異議を唱えている。政治哲学者たちは、この論点に関して、巷の人々とは、相当に意見を異にしているのである。

 

(p.60 -61)

 

[上述したような「慣習的な」見解を]…「極端な」見解と対比してみよう。この見解は、各人がたとえ異なった量の努力を払っているーーあるいは、過去において払ったーーとしても、人々は、互いに、より少ない所得やより多い所得を得るに値するわけではないと述べる。一所懸命に働く人は、そうではない人より多くの所得を得るに値しない。いったい何が、そのような見解を、正当化するのだろうか。答えは、ある人がどのくらい一所懸命に働くかということは、それ自体、その人のコントロールを超えた何かだからである。人の性格や心理的構成は、遺伝的な体質や幼児期の社会化の函数である。ある人は、成功しようとするーーあるいは、一所懸命頑張ろうとするーー意志を持って生まれてくる。別のある人は、幼少期から、両親やその他の発育上の影響によって、その人に植えつけられた態度を持っている。また、ある人は、それほど幸運に恵まれはいない。なぜ一所懸命に働くような人格であるという幸運に恵まれた人は、そうでないという不運を背負っている人よりも、多くの所得を得るに値すべきなのだろうか。

 

(p.62 - 63)

 

 

ロールズは、ときどき、極端な見解を抱いていると紹介されることがある。この点に関して、彼は、完全にはっきりしているというわけではない。しかし、ロールズが何を述べているのかに関する説得力のある読解は、彼は自由意志の役割を認めており、個人が行うと想定されているすべての選択は、実際に、遺伝や社会化によって決定されていると主張しているわけではないとしている。そうではなく、ロールズは、人が、自らの努力レベルに関して行う選択は、当人のコントロールを超えた要因によって強く影響されているので、単純にその努力に比例して報酬を与えるのは不公正であろうということを信じているのである。彼が述べているように、「真価に報酬を与えるという考えは、実行不可能である」。なぜなら、実際問題として、選択に影響を与えがちな恣意的な特性から、適切な意味で、選択(すなわち、道徳的に恣意的な特性から影響を受けていない選択)を分離することは不可能だからである。

 

(p.64)

 

[優れた詩を書いた文学者はノーベル文学賞に値するという議論に関連して]…慣習的な真価の請求について懐疑的な論者でさえ、その請求が妥当する何らかのコンテクストが存在していることを認めるだろう。懐疑的な論者と、市場を各人がそれに値するものを与えるものとして擁護する論者との間の不一致は、すべての慣習的な真価の請求が妥当かどうかではなく、それに相応しい範囲によっているように思われる。

 

(p.66)

 

●「真価」と「正当な期待」の違い、「差額の補償」

 

第一に、真価と「正当な期待」との間には、差異が存在している。企業や全体としての市場経済のようなひとつの制度化された構造ーーそこでは、実際に、人々は、持っている資質によって不平等な報酬を与えられているーーを想定してみよう。この場合、われわれは、次のように言うかもしれない。そのような資質を獲得した人は、報酬を与えられるに値する。それは、まさに制度が、その資質を獲得した人は、その資質を獲得したことによって、自分が報酬を受けるだろうという正当な期待を持つようなあり方で、作り上げられているからである。こうした考え方は、真価の「制度的」構想と呼ばれることがある。理解しておくべき重要な事柄は、制度が、そもそもいまあるようなあり方で、作り上げられるべきであったのかどうかということは、まったく別の問題だということである。われわれは、まったく問題なく、次のように言うことができるだろう。「われわれは、もしMBAを取得したなら、その人は、一般的に、高額の報酬を与えられるシステムの中で活動している。そして、ある人は、そうした前提に基づいて、結果的にMBAの取得をもたらした様々な選択を行った。その人の、高賃金を得るべきだという期待は、正当なものである。そうした限定的な意味において、その人は、高賃金を得るに「値する」。それでもなお、MBAを持っている人は、持っていない人よりも多くの報酬を与えられるシステムーー実際には、何らかの種類の試験に合格する能力によって、人々に異なった賃金を与える何らかのシステムーーは、本質的に不正義であり、確かに、人にその人が本当に値するものを与えていないのである」。「真価」の観点から、正当な期待に関する請求を定式化することは、難しくない。実際、そうすることに、何の問題もないのであるーー本当は、それに値していない(なぜなら、制度は、不正義に作り上げらえれており、人の「実質的な」、「剥き出しの」、「前制度的な」真価に従って、その人に報酬を与えているのではないのだから)報酬への正当な期待と持つことができる(それゆえ、制度的な意味で「値する」)人がいるということが、明らかになっている限りで。

(p.67 - 68)

 

第二に、ある人たちは、「真価」という言葉を、補償や平等化について語る場合に用いる。私が、次のように考えていると想定してみよう。すなわち、その仕事が、危険で、ストレスが多く、汚く、退屈で、不当に蔑視されている人々は、他の条件が同じであれば、その仕事が、安全で、快適、面白く、健康的で、威信の高い人々よりも多くの所得を得るべきである。私は、彼らは、より多くの所得を得るに値すると言うだろう。この種の真価の請求が、私がこれまで議論してきた種類のことといかに異なっているかが明らかである限りで、そこには何の問題もない。

(……中略……)

われわれがここで語っている事柄は、本質的には、平等化の請求であるような真価の請求を用いているのである。われわれは、それを、「差額の補償」という考え方に基づいて、考察することができる。

(……中略、ふたたびタイガー・ウッズとソーシャル・ワーカーが対比される……)

われわれの社会において、市場が生み出す不平等は、差額の補償としての真価という考え方に訴えかけることによって、正当化されうると考えることには、まったく説得力がないのである。(理想化された完全な市場が生み出す不平等は、正当化されうると考えている経済学者や政治理論家もいる。このケースでは、人々の得るお金ーー労働の値段ーーは、自分の仕事を果たすことに含まれる利益と不利益の正味の収支以外のものは何も反映しないだろう。それゆえ、雇用者は、人々に不愉快な仕事をさせるためには、愉快な仕事よりも多くを支払わねばならないであろうーーところがいまのところ、その反対が、しばしば真実なのである。)

 

(p.68 - 69)

 

ここで区別されるべき第三の、そして最後の考え方は、この差額の補償という着想と関連づけることができるーーもっとも、関連づけることが必要だというわけではないのだが。これはある人たちが、他人よりも多くの所得を得ることを、もし彼らがそうしないなら悪い結果が生じるだろうという理由で、正当化するような考え方である。この考え方は、真価という観念を用いて定式化されることがある。われわれが、「脳外科医は、看護師より多くの所得を得るに値するのか」という問いを発したと想定してみよう。次のように答える人がいるかもしれない、「そうだ。彼らはそれに値する。なぜなら、もしわれわれが、看護師より脳外科医に多くを支払わないならば、誰も脳外科医でありたいとは思わないだろうからである。ある人々が脳外科医であるということは明らかに重要なのだから、われわれが、ある人々がその仕事を選択するということを確保するために、彼らはより多くのお金を得るに値するのである」。これは、インセンティヴに関する主張ーー人々を社会的に有用な職務へと誘導することの必要性と、もし人々に、より多くの賃金を支払うことが、そうした職務を遂行させる唯一の、あるいは最善の方法であるのならば、そうすることの正当性に関する主張ーーである。それは、真価と何らかの関係があるのだろうか。

今のところは、無関係である。それは、基本的には、脳外科医と看護師の相対的な真価には何の関係もない。それは、単なる帰結主義者の見解であり、結果についてのーーもしわれわれが、多くの賃金を支払わなければ、何が起きるのかについてのーー所見である。

 

(p.69- 70)

 

 かなり引用が長くなってしまったが、「真価」や「正当な期待」に関する議論にわたしがこだわっているのは、まずは『実力も運のうち』でサンデルがロールズに対して行なった批判に由来する。

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

 政治哲学における能力主義批判をまとめると、「ある人が他の人よりも能力を発揮して社会に貢献しているとしても、その背景には道徳的に恣意的な事柄(天賦の才能の有無や、外的要因のマイナス影響を受けずに「努力ができる」という状態にまで至れること)が存在するのだから、能力を発揮していること自体はその人が他の人よりも恵まれた生活に値することには直結しない」ということになるだろう。

 日本人読者の多くは、昨年にサンデルの『実力も運のうち』が邦訳されたことで初めてこの考え方を知ったはずだ。……とはいえ、彼自身が書いていたように、この考え方はとくにサンデルにオリジナルのものではない。むしろ、引用部分で示してきたように、この考え方はサンデルの批判対象であるジョン・ロールズのほうに代表されるものである。また、スウィフトもサンデルも認めている通り、ノージックハイエクなどのリバタリアンですら市場での成功と「真価」を結び付ける議論は否定しているのだ。

 とはいえ、『政治哲学への招待』が優れているのは、政治哲学ではなく正義に関して「世論」が持っている考え方として、能力や成功と「真価」と報酬(所得や恵まれた暮らしなど)を結び付ける発想を紹介しているところだ。

 サンデルも「真価」に基づく発想を批判的に紹介してはいたが、彼はその起源をアメリカのキリスト教の歴史やプロテスタンティズムに見出していた。しかし、以前にも指摘した通り、「能力を発揮している人や社会に貢献している人や努力をしている人は、そうでない人に比べてより多くの報酬に値するべきだ」という発想は欧米人に限らずアジア人やその他の世界中の人々に存在しているだろうし、現代や近代に限られたものでもない。おそらく、ジョナサン・ハイトが「分配的正義の直感」や「道徳基盤」として論じているような、生物学的レベルで人間に深く根付いた心理的傾向であるのだろう*1。社会的なものであるとしても、「より努力をした人はより成果を出した人はより多くの報酬に値する」というルールや道徳観は、ほとんど全ての段階の社会で必要とされるはずだ。人々の外部にある社会システムとして「より成果を出した人はより多くの報酬を得られるインセンティブが設計されているだけでなく、「より成果を出した人はより多くの報酬に値する」という道徳観が人々の間に内面化されていたり、能力を発揮することや努力をすることが「徳」として称えられている社会でないと、生産性が低下して持続不可能になると思われるからだ(すくなくとも農耕以降の社会には多かれ少なかれ「真価」の考え方が根付いているだろうし、平等主義がかなり強い狩猟採集民社会ですら「狩人や戦士として優れている男はそうでない男よりも賞賛に値する」という発想はあるだろう)*2。『政治哲学への招待』にも書かれているとおりインセンティブと真価は必ず関係があるというわけではないが、ここでわたしが言いたいのは、インセンティブ設計の必要性が、真価を重視する心理的傾向や文化を生み出すということである(わたしたちがある人のことを「能力が優れており立派だから称賛に値する」と考えるとき、その考えの背後にある心理的傾向や文化はインセンティブ設計の都合から生まれたものであるとしても、わたしたちの考え自体にはインセンティブという発想は含まれていない、ということ)。

 

 サンデルはロールズが「真価」の議論を否定していることを認めながらも、ロールズの議論ではインセンティブ設計の都合から「正当な期待に対する資格」が許容されているために、ロールズリベラリズムにおいては「真価」に基づく世論と同様に「能力を発揮して稼いでいる人間は、そうでない人間よりも優れている」という発想を人々が抱くようになって、勝者が「傲慢さ」を抱き敗者が「屈辱」を抱くようになる……と論じていた。

 その代替案としてサンデルが持ち出すのが「共通善」であった。市民を教育して同胞意識や連帯感を育せて同じコミュニティに暮らす仲間として尊重し合う態度を教えることで傲慢さも屈辱も感じることがなくなるだろう……といった主張である。

 とはいえ、以前にも指摘した通り、サンデルにはインセンティブという発想が全く欠けている。また、教育などによって共通善を育めば傲慢さや屈辱などの問題が解決するという発想は、かなり浅薄な人間観に基づくと言わざるを得ない。これも以前に指摘したが、サンデルは「思想」や「イデオロギー」や「社会」が人間の感情や発想に与える影響力をかなり強く見積もる代わりに、社会がどうであるということ以前に人間に備わる生物学的・心理学的な要素を無視する傾向が強い*3

 サンデルに比べると、ロールズの正義論は、一般的・平均的な人間の心理学的な特徴や傾向、インセンティブに対する態度などの(経済学的な)合理性などを仮定したうえでボトムアップ的に論じられている。また、ロールズの議論では大半の人間が持つ利己性を前提としながら、同じく大半の人間が持つ正義感覚との折衝をしながら「正義の原理」が探られていく。『ロールズ政治哲学史講義』を読むと、この発想やホッブズやロックやヒュームやルソーなどの政治哲学の伝統に連なるものであることがわかる(というかロールズ自身がそう書いている)。また、インセンティブや利己性を前提にしながら論じているという点で、ロールズやその他の正義論者たちはサンデルよりもずっと現実的だ。

 

 ちなみに、ロールズが「正当な期待に対する資格」という言葉で何を述べようとしているかは、『実力も運のうち』どころか『正義論』を読んでいてもいまいちピンと来なかった。ようやく理解できるようになったのは、『政治哲学への招待』や同じくスウィフトの『リベラル・コミュニタリアン論争』を読んでからである。

 わたしなりに解釈すると……配分の対象である財や資源を増加させるためには市場での競争は不可欠であり、さらに才能のある人がその才能を発揮することで財や資源はさらに増加するのだから、格差原理に違反しない限りにおいて(脱税などをされて市場で成功した人からその成果の一部を徴収できなくなったり、市場の競争が激化し過ぎることで庶民のプライベートや生活に関わる部分までもに悪影響が出たりして、もっとも恵まれない立場の人の状況を改善しないのに恵まれた立場の人の状況だけがさらに恵まれたものになるという状況が起こらない限りにおいて)市場が効率的に機能してその生産物が増加するような社会設計にしておく必要がある。

 そして、個々人は、市場のルールや市場で成功したときに得られる報酬などは「真価」とはまったく関係がなく道徳的に恣意的な事柄であるということを理解したうえで、「自分が市場に参加して、競争に勝利した場合にはこれくらいの報酬が得られるんだな」という「期待」を抱きながら市場に参加する(その期待は道徳とは関係のないものであるが、市場が正当な範囲で機能している限りにおいて「正当」な期待である)。実際に競争に成功して報酬を得られたらうれしく生活も(格差原理が許す範囲内で)恵まれたものとなるし、競争が失敗したら悔しいかもしれないが、自分や他人の「真価」がどうだとか自分や他人が優れた人間であるか劣った人間であるかといった事柄はまったく切り離して考えることができる。……すべての人は、市場と道徳が別の領域であることや市場の存在が認められている理由などを同意・理解しているためだ。

 もちろん、昨日の記事にも書いた通り、この考えは社会においてリベラリズム完全に達成されておりすべての人々がリベラリズムを完全に理解していることを前提としているだろう。ロールズの議論は、人間観や社会の状態(正義の情況)に関する理解は現実的だとしても、あくまで理想論である*4。実際にはリベラリズムがかなりの程度まで社会制度的に達成されたり人々の意識に浸透したりしたとしても、「能力を発揮して市場で成功して社会に貢献した人はそうでない人よりも優れている」という「かん違い」は多かれ少なかれ発生して、それに伴いエリートの傲慢さや労働者階級の屈辱は残って、摩擦が発生するだろう。

 このことをふまえると、サンデルの批判が「ロールズがいくら理想を言おうが人々の認識が彼の言う通りに変わることはないだろう」というものであれば正しいと思う。……しかし、サンデルは「正当な期待に対する資格を許容するロールズの発想が、現在の社会において、エリートの傲慢さを増加する原因になっている」ことを示唆している。端的に言って、この批判は不当なものである。先述したように、現在の世論の大半は「真価」を認める発想をしているのだし、この発想は心理学や生物学のレベルで根深くどの社会にも普遍的なものである可能性が高い。逆に、ロールズリベラリズムなんて、人文系の学者や院生の一部を除けばアメリカ人の間にすらほとんど浸透していないだろう。問題の原因は、ロールズが世論に影響を与えていることではなく、ロールズもサンデルも含めて政治哲学者が無力であり、世論に影響を与えられず「真価」に基づく発想を取り除くのもできていないことのほうにある。

 また、ロールズが市場や競争を認めているとしても、おそらく渋々ながらだ。配分される財を生み出して人々の生活を向上させる源泉が他に存在すればいいのだが、実際には市場や競争以外に財を生み出す方法はないのだから、それを前提としたうえで理想的な社会を構想しなければならない。理想的な社会を語るにしても、物理的や設計的に不可能な社会を語るわけにはいかないということだ。

 一方で、サンデルの議論で市場やインセンティブ設計がどのように位置付けられているかは、いまだにわたしにはよくわからない。おそらく、サンデルもロールズ(や他の多くの人文学者たち)と同じように市場やインセンティブ設計が嫌いではある。『それをお金で買いますか 市場主義の限界』などの著作の議論を見ると、できる限り市場やインセンティブ設計を共通善やモラルに置き換えたがっていることも察せられる。とはいえ、結局のところ市場やインセンティブ設計は必要であるのだし(リベラリズムの社会ではなくコミュニタリアンの社会でも財や資源は必要であるから)、サンデルもそのことは自覚しているようにも思える。……だが、ロールズに比べると、嫌で厄介な市場やインセンティブ設計の必要性を直視して渋々ながらにも対応する、という態度がサンデルには見受けられないのだ。『実力も運のうち』を読んだ人の多くは「"共通善"は解決策になっているの?」と思ったことだろうが、おそらくサンデルも解決策になっていないことを自覚しながら、当たり障りのない議論で誤魔化しているのである。

 

 ロールズやサンデルからは離れるが、「政治哲学者たちは、この論点(真価)に関して、巷の人々とは、相当に意見を異にしているのである」という一節はかなり重要だ。

 政治哲学者でなくとも、哲学的な思考や人文学的な思考がある程度以上にできる人や、社会問題や政治について「わかっている」人であれば、「能力のある人は他の人よりも恵まれた暮らしに値する」という発想を相対視したり否定したりすることはできるだろう。関連して、「努力できるかどうかにも運や外的な要因が関わっている」という発想を抱くこともできる。飛躍させて「個人の責任というものは存在しない」という発想を抱くこともできる。……そして、SNSなどには毎日のように能力主義(≒新自由主義)や自己責任が「虚構」であるという主張を投稿し続ける人がごまんといる。

 とはいえ、政治哲学(や倫理学など)の領域を飛び越えて「真価」や「責任」を否定しはじめることには、いろいろと問題や副作用が考えられる。まず顕著なのは、「他人の真価」や「自分の責任」は否定するが、「自分の真価」や「他人の責任」は否定しないという自己中心主義的なダブルスタンダードに嵌まってしまうことだ。政治哲学においては議論が抽象化されるし、筋の悪い議論に対しては他の論者からのチェックがなされるから、あまりに露骨なダブルスタンダードは表に出る前に修正される。が、SNS(や社会運動など)の議論は具体的であるし(大概はその議論を行なっている本人の生活や関心に関わっていること)、外部からのチェックもないので、自己中心的な発想がそのまま表に出やすい。

 より重要な問題は、頭の中やTwitterアカウントや社会運動サークルの中では「真価」や「責任」を否定する人ですら、職場や家庭や友人関係やふつうの部活などにおいては「真価」や「責任」を否定することはほぼない、ということである。ミクロなものにせよマクロなものにせよ集団を維持・運営するためには責任という発想は不可欠であるし、友人や同僚を評価したり子供や部下を教育したりする際に「真価」の発想を無視することも困難だ。政治哲学のレベルの抽象的な「真価」「責任」否定論を唱えられるのは、せいぜいが二次会の席とか合宿先の寝室とかであるだろう。真昼間から素面でこれらの発想を否定する主張を唱えるような人に、大事な仕事や作業を任せたいとは思わない。

 もちろん「実際には真価や責任なんてものはないのだが、集団や人間関係の意地や運営を効率化するために真価や責任があると便宜的に仮定したうえで、その便宜的な仮定に基づいて行動や発想を行っている」とする考え方もあり得る。また、「ミクロなレベルでの対人評価や集団秩序においては真価や責任という発想は認められるべきだが、政治や経済などの関わるマクロなレベルでは真価や責任という発想は認められない」とする考え方もあり得るだろう。……とはいえ、これらは論理的にはダブルスタンダードではないかもしれないが、実践的にはこの種類の抽象的な二重思考を維持するのは困難である。

 いずれにせよ、「世論」は政治哲学的な正論とは別の領域に存在していること、世論の発想は正しくないとしても存在するのには十分もっともな理由があること、真価や責任などの「誤った」発想を世論から取り除くことはものすごく困難であること、などなどは理解しておいたほうがいい(おそらく政治哲学者の大半はそのことを理解しているが、政治哲学的な発想にかぶれた一般人のほうが、このギャップを理解するのは難しいと思われる)。

 

*1:

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*2:ポジティブ心理学では一定の種類の「徳」(VIA)が文化を超えて普遍的に見出されると論じられていることは、能力主義にもアメリカやプロテスタンティズムを超えた普遍的な魅力が存在するという議論に関連付けられる。

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*3:

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*4:

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