道徳的動物日記

『21世紀の道徳』発売中です。amzn.asia/d/1QVJJSj

「不平等」はそんなに悪いことなのか?(読書メモ:『政治哲学への招待』②)

 

 

[前段で平等を拒絶する世俗的な主張を並べた後に]これはすべて、大衆政治のレトリックのレベルでのことである。しかし平等は、政治哲学者からも、厳しい取り扱いをされてきている。彼らの論じるところによれば、平等を高く評価することは間違いである。重要なことは、人々が、善きものの分け前を持つことではない。また、人々が、善きものへの(あるいは、それを利用する)平等な機会を持つことですらない。もしわれわれが、平等について考えるとすれば、重要なことは、すべての人が十分に持つことであるか、もっとも少なくしか持っていない人が可能な限り多く持つこと、あるいは、もっとも必要としている人が優先権を得ることなのである。平等を気にするということは、人々が互いに同一の総量を持っていることーーそれが、気にすべき特別の事柄のように見えるーーを気にするということである。結局のところ、人々が平等な総量を持つひとつの可能世界は、誰も何も持っていないような世界である。

今日の選挙政治に関する言説においては、再分配のための課税は、それ自体が悪名を得ており、(ともかくも、実行されているところでは)何ほどか人目を忍んで実行されている。再分配のための税が、表に現れたときにも、それは平等にはほとんど言及しないような観点から提示されるのである。この間、政治哲学者は、ますます政治理念として平等を放棄するようになってきた。こうした背景に照らして、平等に反対する哲学者の議論が、必ずしも再分配のための課税に反対する議論ではないということを理解しておくことは、重要である。平等を拒絶する人が、資源は裕福な人から貧しい人に移転されるべきであるということに深い関心を持つということはありうる。この意味で、平等の拒絶は、再分配を正当化するために提起されるかもしれないある特定の理由を拒絶することを意味しているのである。それゆえ、再分配を弁護する論陣を張ることに及び腰な政治家には好感を持たない一方で、再分配政策は、平等ではなく、別の目標を目指すものとして提示されるという事実を認めておくことができるだろう。別の理由で、資源は、現在そうである以上に平等にーーおそらくは、はるかに平等にーー分配されるべきであると論じる一方で、哲学的なレベルにおいては、根源的な理想としての平等を拒絶することは、完全に首尾一貫しているのである。

(p.130 - 131)

 

 上記の引用部分で想定されているのは、ロールズの格差原理(もっとも少なくしか持っていない人が可能な限り多く持つこと)、ロジャー・クリスプやハリー・フランクファートが主張している十分主義(すべての人が十分に持つこと)などの議論だろう。

「平等そのものには本質的な価値はなく、追い求める対象とすべきではない」という議論は、とくにフランクファートの『不平等論』で印象的に論じられている。……とはいえ、スウィフトも書いている通り、平等を求めることと再分配を求めることは全く異なる。

 また、不平等それ自体は直接的には悪いことではなくても、「不平等な状態が存在すること」から間接的に引き起こされる様々な問題を考慮したうえで、やはり不平等は悪いと論じることもできる。『不平等論』のあとがきでも、訳者の山形浩生は現実に不平等が問題を引き起こしていることを指摘しながら哲学者の机上の空論に過ぎないのではないかと示唆していた。

 

 

 

 不平等というか「格差」を問題視する議論は、以下のようなもの。

 

格差は、些細なことなのだろうか。(…中略…)格差それ自体が、悪しきものというわけではないーー何らかの実体のない形而上学的な理由で、悪しきものではないーーのだが、格差のある社会の中で暮らす人々にとってはーーあるいは、少なくとも、格差の恵まれない側にいる人々にとってはーー、悪しきものなのである。格差が重要であるのは、人々の福祉全体は、ただ所有する経済的資源の総量によってだけではなく、他人と比較して所有している総量によっても影響を受けるからである。われわれは、社会のもっとも恵まれないメンバーを、できる限り良い状態にすることだけに関心を持っているのかもしれないーーそして、人々が良い状態にあったり悪い状態にあったりするその程度を平等にすることには、まったく興味がないのかもしれない。しかし、お金がすべてではないのである。おそらく経済的な不平等は、トリクル・ダウン理論を用いた擁護が示唆しているように、長期的には、もっとも恵まれない人々の経済状態を改善する。しかしながら、それは、経済的な不平等が、彼らの地位全体を改善するということを意味しているのではない。それは、地位全体をより悪い状態にするかもしれないのである。そうだと仮定してみよう。その場合には、もしわれわれが、もっとも恵まれない人の全体的な福祉を最大化することに関心を持っているのならば、われわれは確かに経済的な格差について心配すべきである。ロールズ的な用語を借りるならば、経済的な不平等を気にかけるべきマキシミン原理タイプの理由が存在しているのかもしれない。

なぜ、そうなるかもしれないのだろうか。説明のため、経済的な不平等が絶対的に悪しきものであるかもしれない福祉の三つの側面を検討してみよう。すなわち、自尊心、健康、友愛である。(…中略…)

おそらく、問題はこうである。自尊心は、人々の全体的な福祉の不可欠な構成要素である。(ロールズは、自尊心が、基本財の中でもっとも重要なものであると述べている。)しかし、ある人の自尊心は、他人と比較した場合に、自分は何ができるのかということに大きく依存している。(…後略…)

 

(p.155 - 157)

 

[自尊心に基づく議論と友愛に基づく議論の違いを指摘しつつ]それはむしろ、断片化され分断された社会は、そこに住むすべての人からーー貧しい人からだけでなく、金持ちからもーー、友愛という善を奪い取ってしまうというものなのである。(もちろん、金持ちは、他の点では恵まれているだろうが、「友愛のある社会に生きる」ということに関する限り、彼らも、底辺にいる人々と同程度に恵まれていないであろう。)

(……中略……)

われわれは、本当に友愛のために、経済的不平等が絶えずチェックされているような社会を選ぶだろうかーーもしその結果が、もっとも貧しい人が、さもなければそうありえた以上に貧しくなっているような社会であったとしても。

(……中略……)

このようなコンテクストにおいて、ロールズが、マキシミンという考え方それ自身を、友愛のひとつの表現と見なしていることを指摘しておくことには価値がある。格差原理によって統制され、またそのことが知られている社会では、社会のすべてのメンバーは、存在しているあらゆる経済的不平等は、それが、まさしくもっとも恵まれない人の福祉に貢献しているという理由で、存在しているのだということを理解している。私が、そのような社会のもっとも貧しいメンバーのひとりであり、また他人が自分より恵まれているということを知っていると仮定しよう。ロールズの見解では、私にとって、他人の持ち分がより少なくなるよう願うことはーーあるいは、他人の持ち分のいくらかを自分が持つことを願うのでさえーー、何の意味もない。他人が私よりも多く持っているという事実それ自体が、長期的には、私が、さもなければありえたであろう状態より恵まれた状態になりつつあることを意味しているはずなのである。もし他人が私より多くを持っているということが、私の利得に役立たないのであれば、他人はそもそも多くを持とうとしないであろう。それゆえ、社会が格差原理によって規制されることを受け入れ、同意している場合、その社会は友愛という感情を制度化しているのである。もし自分がそうあることが、もっとも恵まれない人の役に立つのでなければ、誰も他の誰かより恵まれた状態にあることを望まない。私は、後に、この見解の奇妙さに立ち戻るであろう。私よりも恵まれた状態にある他の誰かは、どのようにして私の助けになりうるのだろうか。もし彼らが、本当に私を助けたいのであれば、なぜ彼らは、自分たちが手に入れ、私が持っていないもののいくばくかを私に与えようとしないのだろうか。差し当たって大事な点は、まさにロールズが、格差原理を友愛という価値の制度化として提示しているということである。

 

(p.159 - 161)

 

 ついでに、「結果の平等」と「機会の平等」に関する段落も紹介しておこう。

 

 

確かに慣習的な機会の平等を、自分の能力を用いて何を成すべきかについて人々の選択を尊重することと調和させるという問題が存在している。しかし、そのことは、われわれが、バランスを正しく理解していることを意味しない。たとえ両親が平等な機会からスタートし、異なった能力と選択のゆえに、最終的に不平等な状態に行き着いたとしても、機会の平等のために、彼らがその優位を自分の子供に譲り渡そうとするような何らかの行為を阻止することはなお正当化されるかもしれない。われわれは、人々の不平等な立場が、実際に、彼らの能力や選択の結果としてのみ生じてきたものだともっともらしく主張しうるような社会に暮らしているわけではないから、より大きな機会の平等のために、何らかの結果の平等化を行うことには、十分に正当な理由が存在しているのである。われわれは、すでに、社会的な不利を子供たちに補償することによって、競技場を平準化することを目指す政策ーー貧困地域に、無償の就学前教育を提供するといったーーは、お金がかかることを指摘しておいた。そのようなお金は、お金を持っている人からしかやってこない。お金を持っていない人の教育に用いるために、お金を持っている人から取り上げるというのは、資源の再分配である。より平等な資源の分配ーー社会的背景の有利さにおいて不平等に生まれついた人々の間でのようなーーが、慣習的な機会の平等のために要請されるかもしれないーー確かに、要請されるーーのである。

急進的な見解においては、機会の平等と結果の平等の間の結びつきはずっと強い。結果の平等化が、機会の平等化にとって不可欠の手段であるかもしれないということは、不思議なことではない。そのような構想においては、むしろ二種類の平等は、最終的に同じものだということになる。なぜそうなるのかを理解するためには、急進的な機会の平等が、選択されたものではないあらゆる不利ーー社会的な不利だけではなく自然的な不利も含めてーーを矯正しようとしていることを思い出さねばならない。これが達成された場合には、結果の違いは、純粋に嗜好や選択の違いを反映しうるだけである。(もしそうした違った結果が、才能や家族的な背景、人々に責任を負わすことのできないーーおそらくは、その帰結について十分な情報を与えられはいないだろうからーー嗜好や選択の違いを反映しているのであれば、それは人々が、実際には急進的な意味における機会の平等を持っていないということを意味しているのである。)たとえば、ある人は、他の人よりも長時間働くことを選ぶかもしれず、その結果、より多くのお金を稼ぎ、最終的にお金持ちになる。一方、別の人は、より多くの休暇を取ることを選ぶかもしれず、生き続けるのにちょうど十分なだけのお金しか稼がず、最終的に貧乏になる。かくして人々は、お金という結果に関しては不平等であるだろう。しかし、彼らは、全体的に見て不平等なのだろうか。そうではない。彼らは、「所得プラス余暇」というまとまり全体の観点からすれば、平等な結果を得ているであろう。ここには不平等が存在しているように見えるが、実際には、ただ異なった選択があったにすぎないのである。一般化するならば、人々が実際にある選択を行なっており、その帰結について十分に情報を与えられている限り、機会の平等は、結局のところ、結果の平等を意味していると言うことができる。結果の平等を信じている人は、急進的な意味における機会の平等に起因する結果の違いに反対する理由を持っていない。というのも、このような違いは、実は不平等ではないからである。もしそうした違いが、実際に、十分に情報を与えられた上での人々の選好や選択ーー人々が、真に責任を負うべきであるーーにのみ起因するものであるのなら、それら、実はまったく不平等な結果ではないのである。

 

(p.147- 149)

 

 現代ではある程度の教養のある人々の間では「不平等の存在は貧しい人にとっても経済的利得になりえる」という経済的知識が知れ渡っているのにも関わらず、人々が「不平等は絶対に是正されるべきだ」とついつい思ってしまったり不平等の存在を示すデータやエピソードに強く反応したりする背景には、本書でも指摘されている通り、人間の心理的な傾向として結果の如何に関わらず不平等を拒絶する反応が強いという点があるだろう(本書のなかでは著者の子どもたちのエピソードやフロイトの理論が取り上げられているが、クリストファー・ボームの『モラルの起源』をはじめとして、人類学や進化心理学の知見からも同様のことが指摘されている)。

 今年になって『政治哲学への招待』やジョナサン・ウルフの『政治哲学入門』、ウィル・キムリッカの『現代政治理論』などを読んで思ったのは、わたしたちがついつい疑問を抱いて(SNSなどで)意見を言ってしまうようなトピックが、、政治哲学は倫理学以上に取り上げられているということだ。そして、もちろん、わたしたちの脊髄反射的なコメントや浅はかな思い付きを早々に粉砕してしまうような、中身のある奥深い議論がなされている。

 平等や公正といった問題について考えて意見を述べたいときには、「平等と公正の違いを表すイラスト」(3人の子どもたちが木箱に乗ったりしながら球場を覗き込もうとするアレ)とか「トリクル・ダウン理論のウソを示すイラスト」(グラスタワーにワインが注がれているアレ)を貼って満足するのではなくて、きちんとした入門本を手に取って、平等や公正といった言葉が本当のところ何を述べているのかについてじっくりと考えるべきだろう。

 

 

 関連記事として、スティーブン・ピンカーの『21世紀の啓蒙』を読んだときの読書メモを貼っておく。

 

davitrice.hatenadiary.jp