道徳的動物日記

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「公共的正当化」とはなんぞや(読書メモ:『リベラルな徳』)

 

 

 

ジョン・ロールズの『正義論』のような、リベラリズムに関する議論への基本的な忠誠は、それ自体が広く認識され、需要されうる理性的議論であるという事実においてはじめて把握される。つまり、その主張が理性により支えられ、異議や反論を予期し、理性によってそれらに向き合い、競合する理論を公正に考慮しようと試み、議論に反論しようとする根拠が明確だという事実において。誰もが理由と異議を与えることができ、最善の議論がどこからでも生じ、誰もが公共的に正当化できる見解が目標であるとみなされるとき、その議論は公共的なものである。公平な視点、つまり関係者全員に受け入れられる道理を見分けることのできる視点から、正義の原理を考慮するよう我われに要求するとき、その議論は道徳的なものである。その場合、誰もが勘定に入れられるのであって、勘定から外され、あるいは他者のために犠牲にされる人はいない。既存の判断や実践を単に反映することを意図しておらず、また多少の矛盾を取り繕おうとしないとき、その議論は哲学的で、批判的なものである。それは既存の見解の正当化可能性を批判し、テストするのである。その議論はソクラテス流のものである。リベラルは、最善の状態で、すべてのことを考慮したうえで、利用可能な最善のものとして公共的に正当化しうる正義の原理を支持するように定められている。こうした見方は、すべてのリベラルな理論について妥当するわけではなく、非リベラルな理論の一部についても妥当する。

 

(p.11)

 

この理想において、リベラルな価値は、我われ相互の道徳的義務の表現として、「我われが生きる最善の方法は何か?」という問いに対する最善の回答として、公職者および市民両者によって肯定されるのである。批判的省察は、公共的かかわりであり、最も根本的には、我われの政治的取決めをどうすべきかについて公共的に討議する方法へのかかわりである。憲法上の制度は、この継続的討議を構成し、維持する場である。正当なリベラル社会は、それを推奨する正義以上のものを有する。そうした社会においては、共同体、徳、および人間の繁栄についての積極的なリベラルの理想を識別することができる。リベラルな正義が統治する共同体は、リベラルな権利が侵害されない場所としてのみならず、共同体としても魅力的なものなのである。

 

(p.12- 13)

 

市民権、徳、および共同体のリベラルな理想は、公共的合理性への基本的な政治的忠誠によって維持される、リベラルな立憲主義の理想の中に見出される。哲学は、「通常の」思考と区別されたそれと並立する制度ではなく、「そのまさに問題になっている事柄は、一般常識の問題の拡大」であるとポパーは言う。我われは、良い道理および強力な議論を探究しなければならないのである。なぜなら現代国家は、いかなる単純な意味においても「共有された意味の共同体」などではなく、一部のことには同意し、他のことには同意せず、我われがむしろその合理性を尊重したいと思い、それによってその忠誠を呼び起こしたいと願う多かれ少なかれ合理的な人々からなる結社だからである。

 

(p.38 - 39)

 

 本書は政治哲学の本であると同時に法哲学憲法論的な話題についても尺が割かれており、わたしにはちょっと手強い本ではあった。

 上記の引用部分に書かれているような「公共的正当化」という営みと、それがリベラリズムにもたらす(他のイズムに対する)優越性については、翻訳者の小川仁志が以下のようにまとめている。

 

マシードの説く「リベラルな徳」が、ここで時代の文脈を超えてヒントを与えてくれる。政治哲学や政治思想に明るい方ならすぐに察しが付くと思うが、リベラルとは一般に価値中立性を意味する用語であり、徳とはその反対に個々人が重視している一定の価値や、それに基づく生き方についての信念などを意味する用語である。したがって、「リベラルな徳」という表現はいかにも矛盾した概念に聞こえるだろう。

しかしそれはまったくの誤解である。マシードは次のように言っている。「リベラリズムは、公共的価値の間で本当に中立ではありえない。それは、個人の自由および責任、変化と多様性に対する寛容、およびリベラルな価値を尊重する者の権利の尊重について、一定の公共的価値の至高の価値を支持するのである」と。

リベラリズムとは、むしろ個々の市民が異なる価値観をすり合わせながら、一つの共同体で共存していくための仕組みにほかならない。したがって、個々人が徳を語ってはいけないのではなくて、逆に徳を語ることで、それがいかに共有可能なものであるか吟味することこそが求められるのである。

非リベラルな思想、あるいは政体においては、そうした行為は許されるものではない。予め善として掲げられた徳の下に個々人が結集し、それを疑うことすら許されないのである。しかしリベラルは異なる。どの徳が望ましいのか、吟味するプロセスが保障されているのだ。マシードに言わせるとそれは公共的正当化ということになる。

公共的正当化とは、理性に限界があることを認めつつも、理由付与とその共有を目指す営為である。わかりやすく言うならば、市民誰もが社会の問題にかかわり、議論し、その結果をみんなで共有しようとする態度である。

 

gendai.media

 

 また、「公共的正当化」は同じくロールズ由来の「公共的理性」という言葉とも深く関わっているようだ(というより、ほとんど同じ意味かしら?)。

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

 また、森田浩之が『ロールズ正義論入門』で解説したような「理性」と「合理性」の違いも意識しておきべきだろう(上述部分で『リベラルな徳』から引用した「多かれ少なかれ合理的な人々」などの文章は、文脈を見る限り、「合理性」ではなく「理性」のほうを指しているように思われる)。

 

整理すれば、オリジナル・ポジションの下にいる人びとは、人生に意味を与えるような人生の合理的な計画を遂行する、という意味で、形式的に合理的である。その人生の合理的な計画の一部として、人びとは、ふたつのモラル・パワー、すなわち「正しさ」を見分ける「理性的であること」と「善」を追求する「合理的であること」という能力を使って、さらにその感覚を伸ばすという実質的な関心を持っている。

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

 本書で提示されている「リベラルな徳」とは、自分自身と自分の人生について批判的に考える能力や、それに伴う「自律」である。

 

「通常」の人間(道徳的意味で)であれば、我われの尊重への要求、自制、および自由への平等の権利に対する道徳的要求を有している、とリベラルは言う。人は、目標、プロジェクト、および人生の計画を形成し、追求し、改定する省察的選択ができる。人は、程度の異なる実践的および認識的合理性を備えており、「自己規律的」ないし「自己充足的」である。人は、長い間にわたって継続するものとして自らを認識する。自己規律的な人の省察能力は、多様な形態の行動、パラノイア、スキゾフレニアを含む欠陥、および我われが目録に搭載するため立ち止まる必要があるその他の条件によって損なわれうる。ここで重要な点は、リベラルは、理論的に、操作、強制、パターナリズム、および卓越主義に対して、人や目的への尊重の原理を共通に認識するということである。

人は尊重に値し、その結果自らの理想を選択し、または理想なしで生きることに自由であるべきだとリベラルは信じている。選択の自由を尊重しながらも、すべての選択に等しく価値があるとか、すべての選択が卓越性のリベラルな形態と等しく両立するなどと、リベラルはみなす必要はない。通常の人であることに関連する省察的能力をさらに十全に発達させることは、人格の理想、我われが「自律」と呼ぶものへと導く。

自己充足した人間は、欲求をある程度省察し、選択し、繰り述べ、形成する能力がある。それゆえ自己規律的であるが、価値ある長期的プロジェクトおよび約束のために、欲求および性向に抵抗する規律を欠いているかもしれない。自己充足した人間も、依然として流行または慣習に順応的であるが、または「奴隷」であって、他者から無批判的に受け取る基準、理想、および価値に基づいて行動しうる。すなわち、自己充足した人間は、慣習を自ら批判的に考量し、判断する能力または性向を欠いているかもしれない。単なる自己充足した人間は、批判的に評価し、理性的に統合した価値、理想、および願望から行為しない。道具的合理性しか持たない自己充足した人間も、なお基本的な尊重の形態への資格がある。リベラルとして活躍することは、道具的合理性以上の省察的能力を必要とする。

自己充足から自律への移行の決定的特徴は、批判的に評価し、また人の行為だけでなく、我われの行動の源、人の人格そのものを積極的に形成さえする能力の発達である。

 

(p. 215 - 216)

 

リベラルな者は、自己統治的省察能力の保有により区別される。こうした省察能力をさらに発展させることは、自律の理想へと人を導くが、その理想は他のリベラルな徳の源なのである。権利の尊重を核心的価値とし、多様性および寛容の普及を奨励する政治体制は、人々が自己の主人となり、自己制御を達成するため、他者の権利を尊重し、積極的に選択の自由を行使するように、自らのプロジェクトの経路を作り、制約できるようにする能力の行使の多くの機会、および刺激を与える。

自律に向かって努力することは、自覚的で、自己批判的で、省察的な能力の発達を含む。その能力は、人が人生の理想と人格を構築し、評価し、そして改定し、かかる評価を実際の選択、プロジェクト、そして誓約の構築に関係させられるようにするものである。自律的な者として発展することとは、人の個性を積極的に発展させることである。自律は、批判的に省察し、こうした省察に基づいて行為する能力を含意する。それは、我われが「執行の」徳と呼ぶものの保有を意味する。自発性、独立、決心、忍耐、勤勉、および根気である。

 

(p.273)

 

 このあたり、『ロールズ正義論入門』における、追求する「善」の中身ではなく「善」の追求の仕方に卓越性(徳)が存在する、とロールズが考えていたという森田の解釈とも一致していそうだ。自分の人生の目標をきちんと追求できている人は、たしかに、忍耐や根気があるはずだろう。

 そして、人々が相互に相手のことを自律した人間だと認めあい、「自分の自律も相手の自律も侵害されてはならない」と考えるようになって、そして公共的正当化(理性的な議論)を経て「(市民の自律を尊重できる社会は他にないから)社会はリベラルなものでなければならない」と納得するようになった社会では、「リベラリズム」自体が人々によって共有される公共道徳となり、「共通の価値観がない社会では連帯や社会的紐帯の基盤もなくなってしまう」というコミュニタリアンの批判を斥けることができる……というのが、マシードの主張の大枠であるようだ。

 ちなみに、マシードは、アリストテレスが『ニコマコス倫理学』で論じたような個人の卓越した性質・能力としての「徳」と、『政治学』で論じた(らしい)社会全体にとっての公共的な価値としての「共通善」の両方について、「リベラリズムでもそれらを得ることができる」といった議論をしている。とはいえ、リベラリズムに反論する人は、必ずしも「徳」と「共通善」の両方(がリベラルな社会では得られないこと)に関する主張をしているわけではなく、たとえばサンデルはもっぱら後者についてしか語っていないことは留意しておいたほうがいいだろう。

 また、リベラリズムの原理は、法律そのものや法律が運用されるシステムにも反映される。

 

我われは、フラーやドウォーキンのようなリベラルにならい、法と道徳の分離を拒否することができる。リベラルな法は、規則だけでなく、一定の根底にある目的および原理からなる。秩序ある自由、公正、デュープロセス、理性、および残虐さへの反対である。法の解釈は、規則を適用するだけでなく、その多くが重要な道徳的側面を有する法原理の解釈問題でもある。

 

(p.85)

 

 また、リベラルな法システムは、公共的正当化のプロセスを保護するために「市民的不服従」や「良心的兵役拒否」に寛大である(必ずしも全て許容するわけではなく、時には罰することもあるが、少なくとも公職者には市民的不服従者を罰する前に省察したり複雑な政治的判断をしたりすることが求められる)。

 そして、個々の市民は、リベラルな社会を守るためにときとして自己犠牲的な行動を取らなければならないかもしれない。

 

リベラルな市民は、道徳的人間として、リベラルな正義への優越的忠誠とともにやってくる転位の可能性を、ただ受け入れなければならない。我われのほとんどは、部外者または好まれない構成員、あるいは不人気な少数者に対して不公正に敵対する、集団、近隣、組織、または政治単位の構成員である。我われが非常に配慮する人々でさえも、不正義に押しやられるかもしれない。『真昼の決闘』のケイン保安官のように、リベラルな原理に対する優越的忠誠を持つ者は、正義が要求するものについての我われの最善の理解と両立しない行為を友人や愛する者が薦めたとき、彼らから距離を置く用意がなければならない。あるいは、我われは、ゴードン・ヒラバヤシのように、より高いリベラルな理想の名において、無実の家族を残して去ることを決心することになるだろう。そうした限定的な事例で正義が要求するものは、より正常な状況にふさわしい態度の決定に役立つ。我われは、結局、子どもたちに批判的に考え、彼らが正しいと考えることを行い、同僚の圧力に屈しないように教える。しかしながら、結局我われは、原理に基づく行動の孤独性を強調すべきではない。リベラルな正義の最善の道理は、公共的に維持されるものである。我われは、正しいことをすることが、しばしば単独で行為することを意味するものと想定すべきではない。

 

(p. 252)

 

 本書の議論を改めてまとめると、要するに、コミュニタリアンが想定するような「地域」「伝統」「慣習」「文化」などではなく、リベラリズムという「原理」や「思想」、あるいは公共的正当化という「プロセス」に対して敬意や忠誠を市民たちが持つようになることで、自律という個人的美徳を備えた個人たちの間に共通善が成立するようになる、ということだろう。

 ……もちろん、ここで疑問を抱くのは、そんな社会がほんとうに成立し得るのかということだ。少なくとも日本ではまず見かけないし、現状を鑑みるとむこう200年間くらいは成立しなさそうである。アメリカやヨーロッパのごく一部では有り得るかもしれないが、リベラルなエリートたちは「公共的な正当化」や「理性的な議論」をやっている気でいながら自分たちの間で既に定まっている価値観や意見を再確認したりお決まりのコミュニケーションを繰り返したりしているだけかもしれない。これはリベラリズムと理性に対するジョナサン・ハイト的な懐疑主義的な見解であり、普段はわたしも必ずしもハイトに賛同するわけではないのだが、マシードのようにリベラリズムをあまりに熱心かつ理想主義的に擁護している議論を読むと、「リベラルな人たちってほんとに自認するほどの批判的省察や自律ができているの?」と疑いたくなってしまうものである。

 また、仮に人々が「原理」や「プロセス」に基づいて連帯できたところで、それぞれ異なる「原理」や「プロセス」に基づいて連帯している人たちどうしの対立は、単に伝統や地域に基づいて連帯している人たちどうしの対立よりも深刻なものとなるかもしれない。……たとえば、『リベラルな徳』のなかで描かれているようなリベラリズムに忠誠を近いリベラリズムに基づいて連帯する人々とパラレルな存在として、リバタリアニズムに忠誠を近いリバタリアニズムに基づいて連帯する人々の姿を思い浮かべることはできる。彼らのほうが、リベラリストにとってはむしろコミュニタリアンたちよりも深刻な脅威となるかもしれない。