早川書房から翻訳が出版された作家のヘレン・プラックローズと数学者のジェームズ・リンゼイの共著『「社会正義」はいつも正しい』に関して、出版とほぼ同じタイミングで山形浩生による「訳者解説」が公開された。
しかし、公開当初から訳者解説が差別的であるとしてTwitterなどで炎上。そして、公開から数週間が経過した先日に、公開停止が早川書房からアナウンスされた。
11月15日に弊社noteに掲載した記事「差別をなくすために差別を温存している? 『「社会正義」はいつも正しい』の読みどころを訳者・山形浩生が解説!」につきまして、読者の皆様から様々なご意見を頂いております。出版社がなんらかの差別に加担するようなことがあってはならず、ご指摘を重く受け止めております。
なお、『「社会正義」はいつも正しい』に関してはわたしの方でも講談社現代ビジネスに書評記事を書かせてもらっている。こちらの記事は我ながら穏当な内容であり、まったく炎上することもなく、現在でも無事に掲載されている。たぶん公開停止になることはないだろう。
あと、別の方々による原書の書評も貼っておこう。
liberalartsblog.hatenablog.com
さて、山形の訳者解説の内容を覚えている方やすでに本書を購入されいまでも解説を読める方は、わたしの書評と彼の解説ではずいぶんと雰囲気が違うと思ったかもしれない。「まるで違う本について論じているみたいだな」に感じた人もいるはずだ。
この事態は、『「社会正義」はいつも正しい』自体がやや厄介な本であることに起因する。
本書では「現在のアメリカの左派・反差別の間で支配的である一連の考え方には"応用ポストモダニズム"が存在しているという仮説を立てて、現状に至るまでの背景を分析して、応用ポストモダニズム的な発想がもたらす悪影響を指摘して、処方箋としてリベラリズムの理念を提示する」という、まじめな議論がなされている。わたしの書評では、このまじめな部分を強調して紹介した。
他方で、本書には「クィア理論や批判的人種理論やフェミニズムやファット・スタディーズなどの諸々の理論のなかに出てくる、突飛で無茶苦茶な主張を例示して、あれこれと(いじるように)批判する」という場面も多い。ここの部分は本書の特徴であり、他の本にはないオリジナリティであり、おもしろさである……つまり、原著にせよ訳書にせよ『「社会正義」はいつも正しい』を購読する人の多くは、まずは「おかしな理論の突飛な主張をいじる」という部分に価値を感じている、と想定できる。
もちろん、「まじめな議論」と「おもしろさ」は両立可能だ。
とくに英語圏の本では、なんらかの議論や理論を提起することを目的とするものであっても、あれこれとデータや実例や書籍や論文が紹介されていることが多い(『銃・病原菌・鉄』『暴力の人類史』『社会はなぜ右と左に分かれるのか』あと手前味噌ながら『21世紀の道徳』などなど*1)。そして、読者は紹介されている実例や論文の内容などについて知ることで知的好奇心を満たしたり驚きを抱けたりするなどの「おもしろさ」を感じられるおかげで、長い本を読み進めていくことができて、「まじめな議論」のほうにも付き合っていけるのだ。
また、「書き手の主張と対立する意見を取り上げて、舌鋒鋭く批判したり、皮肉ったりする」という部分が「おもしろさ」として成立することもある。多くの人はケンカが好きだし、とくに自分が良い印象を抱いていない人や本がやっつけられる様子を見ると痛快に感じるものだ。たとえばジョセフ・ヒースの『反逆の神話』は、ヒース自身の漸進的で地味な主張よりも、カウンターカルチャーをあれこれと皮肉るところに「おもしろさ」が見出されて受容されているだろう。
とはいえ、『「社会正義」はいつも正しい』で提供される「おもしろさ」には、『反逆の神話』に比べてもさらに悪趣味で露悪的な面があることは否めない。わたしも「特権理論」や「インターセクショナリティ理論」に対しては昔から批判的な考えや印象を抱いていきたので、それらの理論が批判される箇所はやはり痛快に感じる。一方で、「批判をしやすくするために、おかしな主張をしている論文を、わざとチェリーピッキングしているんじゃないか?」という疑念が生じることもたしかである。また、結局のところ「応用ポストモダニズム理論」を提唱している人たちの多くは自身がマイノリティ当事者であること、自分を含めたマイノリティを援助したいという「善意」が存在するであろうことから、彼らに対する批判に「おもしろさ」を感じることに居心地の悪さ抱かなくもない。
それでも、後述するように、最終的にはリベラリズム的な理念を明示する本書における「まじめな議論」には、やはり価値がある。……原著者らがとっている行動や投稿している内容などを見聞すると、彼らが自分たちの提唱している理念に対してどこまで忠実・誠実であるかには疑いの余地があるが、それとこれは別の話だ。
さて、上述したように、『「社会正義」はいつも正しい』はそれ自体が厄介な本だ。訳者解説の公開が停止された件も、色々と厄介である。
わたしがTwitterを眺めていた印象では、訳者解説に対する批判は、およそ二つに分かれていた。
一つめは、トランスジェンダーに関する具体的な記述、とくに以下の箇所に関する、「トランスジェンダーに対する"デマ"を広めることで偏見を煽っている」という批判だ。
それどころか、ジェンダーアイデンティティ選択の自由の名のもとに、子供への安易なホルモン投与や性器切除といった、直接的に健康や厚生を阻害しかねない措置が、容認どころか推奨されるという異常な事態すら起きつつある。
(p.352)
二つめは、訳者解説のトーン全体について「反差別運動に対して冷笑的であり、反差別運動を妨害するものとして機能する」といった類の批判である。あるいは、反差別運動を批判すること自体がマイノリティに対する差別や加害を強化する、という批判もあったような気がする。
批判の種類が少なくとも上記の二つに分かれるというのをふまえると、早川書房による「記事の公開停止につきまして」のアナウンスで、訳者解説のなかのどのような箇所に関してどのような懸念があるかということが具体的に記されていない、というのはかなり問題だ。
まず、「トランスジェンダーに対する"デマ"を広めることで、偏見を煽る」という批判については、それが事実であるなら「マイノリティに対する加害」という深刻な帰結を生じさせるし、向き合うべき批判であると言えるだろう。
一方で、この批判は論点が明確なぶん、反論をしようと思った人は反論をすることができる。たとえば、訳者自身が「子供への安易なホルモン投与や性器切除」に関する報道などの事例を提示することで「デマじゃなくて実際に起こっている事実ではないか」と言うことができるだろう。それに対して批判側が「その報道自体がデマである」とか「ごく珍しい事例を針小棒大に紹介することが問題なのだ」とかいった批判をすることもできる。……つまり、この批判は「議論の余地」があるものであり、だからこそこの批判を受けて解説の公開を停止したのならそう明記すべきであると思う。
他方で、「反差別運動に対して冷笑的であり、反差別運動を妨害するものとして機能する」といった類の批判は取るに足らないものであり、議論をするまでもなく、出版社は無視すべきものだ。
冷笑は問題となり得るし、そこを批判したい人はすればいいが、特定の個人や団体に対して向けられているわけでもない冷笑を「差別への加担」やマイノリティへの実害と同一視することはできない。ある程度までの揶揄や冷笑を受忍することは、社会運動全般に対しても物を書いて意見を発信する人々全般にも求められることであると思う(もちろん冷笑や揶揄に対して反論することは自由であるが、それらを封じ込めることにはある程度までは抑制的であるべきだ)。
そして、早川書房のアナウンスでは「具体的にどの箇所を問題視して公開を停止したか」「具体的に誰からの批判を受けて公開を停止したか」ということが明記されていないために、多数の人々がTwitterやはてブで「またサヨクが言論弾圧をした」「反差別団体が言論弾圧をした」「フェミニストが言論弾圧をした」「TRAが言論弾圧をした」といった憶測や陰謀論を好き勝手に言う事態となっている。
わたしが学生時代に読んだ森達也の『放送禁止歌』では、マスメディアが自律した判断を行わずに事なかれ主義でいくつかの歌を「放送禁止」にしたことが、「同和団体が表現規制をした」「やはり同和団体には権力がありマスメディアを支配しているのだ」といった憶測を呼ぶ事態になった、ということが書かれていた記憶がある*2。今回の事態は、『放送禁止歌』で書かれていたそれを思い出させるものだ。
なお、「キャンセルカルチャーを批判した本がキャンセルされた」といった物言いも散見されるが、あくまで「キャンセルカルチャーを批判した本の訳者解説がキャンセルされた」のであって、本そのものや本文中の議論自体はキャンセルされたわけではない、ということにも留意するべきだ。
もしかしたら見逃しているかもしれないが、わたしが読んだところ、本文中には「子供への安易なホルモン投与や性器切除」についての言及はなかった。訳者解説でこの件が言及されているのは「本書の背景」という節であり、本文自体の解説や要約ではなく、日本の読者に本書の前提や意義をわかりやすく説明するために社会事情を説明している箇所だ。つまり、公開停止がこの件を受けてのものであったとすれば、本文と訳者解説の相違は重要である(やはりそれも明記することが、訳者と原著者の双方に対して誠実であるだろう)。
いずれにせよ、論理立った文章による批判とそれに対する反論を伴う「議論」がなされることもなく、大量の「左寄り」の人たちが好き勝手に批判して、公開が停止されたら今度は大量の「右寄り」の人たちが好き勝手に騒ぐ、という構図そのものが反知性的であり、わたしはイヤな気持ちを抱いている。
今回は早川書房の側がSNSでの炎上を狙って訳者解説をオンラインで公開したこと(炎上はほぼ確実に意図したことであるだろう)が原因で起こったことなので、大元の責任は早川書房にあると言えるが、まともな分量の文章による批判や議論が行われることなく、Twitterによる細切れな文章が書き散らされていくうちになんとなくの「雰囲気」が醸成されて、物事が決まっていく……という事態はここ数年になって以前よりもさらに増えているような気がする。
議論の空間としてのはてなブログがほぼ死んでいること、ブログを書いていた人もTwitterで満足するようになったこと(わたしも人のことは言えない)、特定層の読者を課金に誘導して限定公開記事を書くことへのインセンティブが生じてしまうnoteの影響力が増したこと、などなども原因になっているだろう*3。
というわけで、本記事の締めくくりとして、以下では『「社会正義」はいつも正しい』の「まじめ」な議論のところ……「応用ポストモダニズム」に代わるものとして著者らが提起するリベラリズムの理念の意義が示されている、結論部分の箇所を引用しよう。
このような前向きで生産的で根気強くてしっかりとした「議論」は、なにかを書いたり意見を言ったりしたいと思っている人は、誰もが目指すべきものだと思うからだ。
<理論>に直面しつつ、リベラリズムへの肩入れと信念を維持することはできるし、そうするのが私たちのためにもなる。だが、これはむずかしい。一つには、新しく過激な答えにはある種の魅力があるのだ。人々はそれに興奮するし、特に世の中が悪く思える場合にはなおさらだ。大きくて目前に迫っているように見える問題には、革命的な新しい解決策が求められるように思える。人々がたったいま苦しんでいるときには、漸進的な改善はどうしようもなく遅いように感じられる。いつもながら、完璧は善の敵だーーよい仕組みはとっくによい結果をもたらしているべきだという非現実的な期待もそうだ。これは急進主義や専制主義、原理主義、シニシズムを招く。だからこそ、<理論>は魅惑的だーーそれはポピュリズムも、マルクス主義も、その他紙の上ではよさげに見えるのに実際には大惨事をもたらす、あらゆる形のユートピア主義も同じことだ。それは世界の無数の問題に対する必然的な解決策に思えるし、そうした問題の一部は緊急事態のように思える(あるいは本当に緊急なのかもしれないが)。
だがこうした問題への答えは目新しくはないし、だからこそそれは、即座の満足を与えてはくれないのかもしれない。その解決策とはリベラリズムだ。政治的なリベラリズム(普遍的リベラリズムはポストモダン政治原理の特効薬だ)と、知のリベラリズムの両方がここに含まれる(ジョナサン・ローチの「リベラル科学」はポストモダンの知の原理に対する特効薬だ)。別にジョナサン・ローチの業績や、ジョン・スチュアート・ミルや、その他偉大なリベラル思想家に精通する必要はない。また<理論>や<社会正義>研究を詳しく勉強して、しっかり反論できるようになる必要もない。だが大きな力を持っているものに反対して立ち上がるには、少し勇気が必要だ。<理論>を見たらそれとわかる必要があるし、それに対するリベラル派の対応に味方しようーーこれは単に「いいえ、それはあなたがイデオロギー的にそう思っているだけですよね。別に私がそれに従う必要はありませんよね」と言うだけですむ話だったりする。
これをやりやすくするために、社会的不公正を認識しつつ、<社会正義>イデオロギーが解決策を拒絶する方法の例をいくつか挙げよう。社会的正義の問題は深刻で重要ではあるけれど、それに対する非リベラル的な手法は、よくても不十分、最悪なら見当違いで危険であり、人々にとっても有意義な大義にとっても有害なのだということを示そう。もちろん、<社会正義>の考えに対する独自の原理に基づく反対を作り出すことだって可能だ。
原理に基づく反対:例1
・人種差別はいまも社会問題だし、対応が必要だというのは認める。
・批判的人種<理論>や交差性が、その対応の最も役に立つツールだとは認めない。人種問題は、可能な限り厳密な分析を通じて解決するのが最もよいと信じるから。
・人種差別は、人種に基づく個人や集団に対する偏見や差別的行為として定義されるし、そのようなものとして対応するのがよいと考える。
・人種差別が言説を通じて社会に焼き込まれているとか、それが避けがたく、あらゆるやりとりの中に存在するからそれを見つけて糾弾すべきだとか、それがいつどこにでも存在し、あらゆるところに充満した偏在する制度的な問題の一部だ、とかいう話は認めない。
・人種差別に対処する最もよい方法は、人種分類に社会的に対する重要性を復活させて、その重要性を極端に高めることだ、などとは考えない。
・各人は、人種差別的な見方をしないという選択ができるし、またそうなるよう期待される。それにより人種差別は次第に低減し、珍しいものになり、お互いをまずは人間として見て、ある人種の一員かどうかは二の次になるだろうと考える。人種問題は、人種化された体験について正直に述べることで対処するのがよく、その一方で共通の目標と共有されたビジョンに向けて活動するべきだと考える。そして人種によって差別しないという原理は普遍的に尊重されるべきだと考える。
(p.343 - 345)