11月から読み始めたのだが、オンライン記事や書評の依頼が重なったり年末年始に遊び過ぎたりしていて、読み終えるのに二ヶ月かかってしまった
ちなみに、ここで紹介する責任論や「運の平等主義」と呼ばれるドゥウォーキンの考え方については入門書などである程度は知っており、下記の記事もこの考え方に基づいたものである(字数が足りなかったり削られたりして全く不十分な内容になってしまったし、そもそも抽象的であるからテーマ自体がオンライン記事には不向きなものであったように思えるけど)。
人々の運命は選択と環境によって決定される。選択は人格(personality)を反映しており、人格自体は二つの主要な構成要素から成っている。すなわち、企図(ambition)と性格(character)である。ある人の企図とは、その人の全体的な人生計画ならびにあらゆる嗜好・選好・信念を含んでいる。別の選択ではなく、ある選択をすることに対して、企図が理由もしくは動機を与える。性格は、動機を与えはしないが、にもかかわらず企図の追及に影響を与えるような人格特性から成っている。そのような人格特性には、専念・気力・勤勉・根気強さ、そして遠い将来の報酬のために今働くことができる能力が含まれるが、これらの各特性は各人にとってはプラスまたはマイナスの性質かもしれない。環境は個人的資源と非個人的資源から成っている。個人的資源とは身体的および精神的な健康および能力であるーー例えば、それは一般的な適正や資質であって、富を獲得する才能(wealth-talent)、すなわち他者が対価を支払ってでも得ようとする財やサーヴィスを作り出す生得の資質もこれに含まれる。非個人的な資源とは、ある人から他の人へ再分配しうるような資源であるーー例えば、富や、意のままにできる他の財産、そして現行法制度の下で認められているその財産を使用しうる機会である。
この種の区別は、我々の個人倫理にとって、すなわち我々はどのように生きるべきか、どのようなときに我々はよく・あるいは悪く生きているのか、ということに関して我々自身が持つ感覚にとって、不可欠である。我々は自分の選択に対して様々な仕方で責任を取る。我々の選択が自由になされたのであって、命令されたわけでも操られたわけでもないならば、後になって、別の選択を行うべきだったという結論に達したとき、自分自身を責めることになる。我々は、自分の選択を動機づけた企図を評価したり、批判したりする。我々は、しないほうがよかったと思われる選択をもたらした性格の特性を改善しようと、あるいは克服しようと努める。環境はこれとは異なった問題である。環境が我々の選択の結果でないならば、環境に対して責任を取ることは意味をなさない。反対に、もし我々が自分の非個人的資源に不満であり、その資源の割当に影響を与えたいかなる選択に関しても自分自身を責めないならば、我々は当然、他の人々ーーしばしば我々の政治共同体の公職者ーーが我々に不正を行なったと訴えるだろう。選択と環境の区別は一人称の倫理においてお馴染みであるばかりか、不可欠なものである。我々には意志の自由は存在しないので、運命が自分の選択の結果であるときにも、障害や社会の富の分配だけに起因するときと同様に、我々は運命について因果的に責任を負わない、という哲学的テーゼを我々は知性において確信するかもしれない。しかし、この哲学的確信に基づいて人生を送ることはできない。自分で選んだという理由で我々が責任を取らなければならない事柄と、我々には制御しえないので責任の取りようがない事柄とを区別しないならば、人生を計画したり、人生について判断を下したりすることはできない。
もう一つの区別が必要である。すなわち、二つのタイプの正義論を区別しなければならない。倫理的に敏感な(sensitive)(あるいは「連続的な(continuous)」)理論は我々の内面的な生活から生まれてくる。なぜなら、この種の理論においては、非個人的資源の分配の正・不正に関する判断は、倫理から引き出される責任の割当ーーすなわち、選択と環境とを前述の仕方で区別するような割当ーーに基礎をもつからである。本書において私が擁護してきた配分的正義ーー資源の平等ーーの理論は、連続的である。それが目指しているのは、人々のもつ非個人的資源が彼らの選択に対しては敏感に反応しながら、彼らの環境に対しては反応しないようにすることである。一方、倫理的に鈍感な(insensitive)(「非連続的な(discontinuous)」)政治理論も正義にかなった分配の基準を配備するが、その基準は政治に特有なものであって、我々の人生を内部から生きる際に用いる責任の区別や割当を反映しない。例えば、功利主義の正義論は非連続的である。なぜなら、査定の最終段階において、選択と因果的な決定要因としての環境とを区別する余地が全くないからである。もし失業中の全員に、当人が選択すれば仕事を見つけることができるか否かを顧みずに、同じ手当を与えるような福祉事業計画が、平均福利を最大化するならば、功利主義の政治理論はそのような福祉事業計画を推賞するであろう。
本書の第2章などで論じたように、我々は、二つの主要な倫理原理から引き出され、その両原理を尊重するような正義の連続的理論を主張すべきである。第一原理によれば、政治共同体の政府に相応しい客観的な観点から見ると、人々の生活全体がうまくいくことも重要だが、各人の生活がうまくいくことも等しく重要である。第二原理が主張するのは、それにもかかわらず、各人は自分自身の人生に特別な責任を負う、すなわち、どのような人生が自分に相応しいか、そのような人生を手に入れるために自分の資源をどのように使うのが最善かを決定することを含む責任を負う、ということである。この二つの原理に忠実ないかなる社会も、共同体の全員に対する平等の配慮を反映するような法的・制度的構造を採用しなければならないが、そのような社会はまた、第二原理を尊重するために、各人の運命はその人自身の選択に敏感に反応しなければならない、と主張しなければならない。
(p.432 - 434、以下強調は引用者による)
正義論(政治に関する規範的な主張)は個人倫理(道徳に関する日常的な感覚や信念)と連続的でなければいけない、という主張は、ある種の人々にとっては意外でもなんないだろうが、別の人々にとっては意外なものではないだろうか。わたし自身、道徳心理学の著作にも目を通しているからこそ道徳に関する日常的な感覚や信念は信用ならないものだと判断するようになっており、だからこそ倫理学理論としては功利主義を支持している立場だ。また、ドゥウォーキンによるとロールズの「格差原理」も非連続的な理論であるし、ほかの分析哲学的な規範論の多くも非連続的な理論になるという点には留意されたい。
そして、昨年から政治哲学の勉強を続けた結果、個人が行う規範的な判断に関する倫理学理論と、社会や政治的共同体などが集団として行う規範的な判断に関する正義論とで別々の理論を採用することは問題ないのではないか、という考えも強くなっている(哲学的には矛盾した見解になりそうだが、わたしは哲学者ではないのでそこは気にしない)。
というのも、倫理学理論はあくまで各個人の判断に関するものなので、自分が同意する見解を採用すればいいし、「感情的には納得できないが論理的に否定しようがないから渋々ながらこの見解を採用する」といったくらいになるほうがむしろ有意義ですらあるだろうが、正義論の場合にはそうはいかない。社会・共同体を運営するためのルールであるために、自分だけでなく他の人々が納得できる理論であること(少なくとも他の人々を納得させようとする姿勢が見える理論であったり、多くの人々が同意している状態が想像できる理論であること)が求められ、そのためにあまりに日常感覚から逸脱していたり思弁的であったりする理論は相応しくないのだろう。
また、自由意志否定論に関して「この哲学的確信に基づいて人生を送ることはできない」と指摘しているところも重要だ。
物事について考えはじめたばかりの中高生や大学生、SFかぶれや心理学かぶれに進化論かぶれのオタク、女性差別問題や貧困問題を憂慮する社会活動家、あと小坂井敏晶なんかは自由意志や自己責任が「虚構」であるということを大袈裟に騒ぎ立てるが、倫理学にせよ政治哲学にせよ、哲学者たちの議論は自由意志・自己責任の有無に関する議論を当然に考慮すべきものとして触れたうえで、意志や責任を否定するにせよ肯定するにせよその他に考慮すべき要素とのバランスも考えながら議論を提出するものである。
また、政治哲学において「才能を生まれ持った人はそれに報いられる資格がある」という真価(ディザート)としての正義という考え方も人気がなく、ロールズやサンデルのみならずリバタリアンすらもこの考え方を否定するが、それでも人々の日常的な感覚や信念においては「才能を持つ人は報いられるべきだ」という発想は根強い。配分的正義の理論の多くは、わたしたちが自分や他人の人生について抱いている考え方から逸脱した、分裂症的な物にならざるを得ない。……逆に言えば、ある程度までの非連続性は必要であるかもしれない(私見では自由意志否定論に比べると真価否定論のほうがまだしも納得しやすいから、後者を含む正義論に多くの人々が同意しているという状態は想像できる)。
個人的および集団的責任に関する我々の判断は、偶然性と選択という重要な区別(この区別については遺伝子発見および遺伝子操作の文脈で第13章でも検討されている)に左右される。多くの理由から、我々は人生の中で責任を負わなければならない部分と(それは選択の結果であるから)、責任を負う必要のない部分(それは人が行った結果ではなく、自然的結果ないし自然の運だから)を区別している。技術の進歩や新たな発見によって偶然性と選択の境界が劇的に変る時、様々に組み合わされた道徳的・倫理的信念の全体もまた変化する。例えば、人々が自然災害を、超自然的な神や悪魔の行いのせいにするのではなく(その場合に彼らは神や悪魔を挑発したと思ったであろう)、偶然性に帰すようになった時に顕著な変化が起った。逆に、バイオテクノロジーの発展によって将来、親が我が子の肉体的精神的特質を逐一決定できるようになれば、また別の顕著な変化を我々は被ることとなるだろう。
選択と偶然性の違いは、多種多様な責任の扱われ方に現われる。まず因果責任(causual responsibility)について。私の行った選択は自己の行為の一原因とはなるが、特定の病気を起す遺伝的素質の原因とはならない。これまで本書では主として結果責任(consequential responsibility)という別の観念に関心を寄せてきた。各自の不都合なもしくは不幸な境遇に対して、個人はどんな場合に、そしてどの程度我慢することが正しいのだろうか。逆に、他者は(例えば帰属する共同体の他の成員)どんな場合にそうした境遇の人物を救済し、不利な結果を緩和することが正しいのか。こうした疑問に応える形で、私は選択と偶然性の区別を用いてきた。既述のように、原則的に各個人は、自然の不運から来る不幸な境遇に対しては結果責任を免れるべきであるけれども、自らの選択が招いたと思われるような結果責任を免れるべきではない。ある人に先天的な視覚障害があったり、他の人々が持っている能力がないならば、これはその人の不運であり、公正な社会ならばそうした不運に対してできるかぎり補償を彼にするはずである。だが、今は他人より少ない資源しか持っていないとしても、その理由が昔の贅沢三昧にあったり、わざと働なかったり、他人が選ぶ仕事より薄給の仕事に意図的に就くことがあるような場合は、当然その境遇は運でなく選択の結果である。その場合に、現在の資源不足が補償される権利は与えられないこととなる。
(p.387)
……市井の人々は自分自身の人格的諸特徴に対する結果責任を負いながら、日々の生活を送っている。周知のことながら、自らの生活を形作る大小様々な決定を我々は行っており、またその際には、自らの嗜好、気質、習慣、むき出しの欲求などと向き合い、それらを受け入れ、押さえ込み、あるいはうまくそれらとつきあわなければならない。そして、我々がなぜそんなことをするのかと言えば、それは多様な判断や信念形成を行うためなのである。そこでは、他者への公正さについての道徳的信念や、どんな生活が自らにとって相応しく、上出来と言えるのかといった倫理的判断などが含まれる。もちろん、こうした多様な判断や信念は、メニューの中から選び出されてきたわけではないだろう。それは、箪笥の引出からシャツを選んだりメニューから料理を選ぶようにはいかないものである。言うまでもなく、何を読もうと、聴こうと、勉強しようと、考えようと、それは我々の自由である。また、それらの行為をどくらいの間しようと、どんな状況下でしようと、それも自由である。けれども、そのような行動を自由にとってきた上で、そこからどのような結論でも自由に引き出せるかというと、そのようなことはない。しかしそれにもかかわらず、我々は自分が特定の道徳的倫理的結論に達したと言う事実を運不運の問題と見なさない。もしそうしてしまえば、我々は自分自身を人格的諸特徴と同一化した存在というよりも、それらとは切り離された存在として見るようになってしまう。つまり、偶然的に精神的放射線を浴びせられる犠牲者として、自らを見なすのである。そうではなく、我々は自らを道徳的倫理的行為主体と見なしている。つまり、今になってみれば完全に自分のものとなっている信念を作りあげるべく頑張って取り組んできた主体である。そうした見方からは、次のような主張は奇妙に思われる。ある人物はまわりの人間から同情され補償されるべきである。なぜなら、困っている友人を助けるべきだとか、ヒップホップ音楽よりもモーツァルトの方が魅力的だとか、海外旅行に行けなければ良い生活とは言えない、などということを当人が決めたことは、不運以外の何物でもないからである。
18世紀の心理学や20世紀の経済学の語法に引きつけられている哲学者は、人間の多様な動機を、それが単純であれ複雑であれ、あけすけなものであれ洗練されたものであれ、「欲求」や「選好」と見なす。これらの述語は、人間の多様な動機と、理性的判断・信念との違いを強調する。だが実際のところは、ある態度の説明理由として挙げられる動機の多くは、判断と対立するむき出しの感情ではなく、その対立の結果である。各人が姓を営むにあたって抱く長期に亙る希望、つまり企図ないし念願には明らかに価値判断が込められている。建築物の外観を変えたいと思っている者、大統領に成りたがっている人間、もっとホームレスの役に立ちたいと思っている人物は夫々、その達成を単に望んでいるのではなく、それを高く評価しているのである[原文]。夢が実現すればおそらく当人は満足感に浸るだろう。だが、各自の努力を支えるものは、その達成の重要性の認識から来るものであり、満足感を得ることへの期待からではない。満足感は当人にとっての達成の重要性によって説明されるものであり、満足感によって達成の重要性が説明されるわけではない。「嗜好」と呼ぶほうが自然なものも、その殆どは判断と密接不可分なものなのである。無論、ある種の嗜好は判断とは関わりなく、全く不運にもそうなったものである。不幸にも水道水をおそろしくまずいと感じる人物は、そうした不利な味覚を持たないことを選好するだろう。彼の味覚はハンディキャップであり、資源の平等論もそのように見なす。けれども、もっと複雑な嗜好は肯定的判断と密接に連関している。確かに、熱心な写真家は、撮影技術や自分の腕前を楽しみ、光と影を写真の中に永遠に収めることに浮き浮きする。そして、自分の写真への情熱を説明する際に、彼はこれらの感覚を引合に出すだろう。しかし、彼はこうしたことをしばしば心から楽しむとはいえ、楽しむだけで終わっているわけではない。なぜならこの種の楽しみは、美的判断や美的感動、技術的熟練、視覚的知見といったものの価値や、その他の関連する多様な価値について彼が抱く、より一般的な別の見解と適合し、これと分かち難く結びついているからである。そして更にこれらのより一般的な見解は、すべての人々にとってではないにせよ、少なくとも彼にとっては正しい生活のあり方についてのもっと一般的な構図から導き出されると同時に、この構図の中へと入り込み、これをより内容の豊かなものにしている。こうしたことは、必ずしも自覚的な評価の対象となっているとは限らないし、事実、自覚的でない場合がしばしば存在する。だが、相互に組み合わされ強化し合う嗜好、確信、判断の網の目は、それでも写真家の心の中では働いている。そして、そうした網の目があるからこそ、写真への興味を失わせる薬を勧められるようなことがあれば、彼はそれに嫌悪感を覚えるのである。友人に対する誠実さを自ら不運なことと評することが奇妙であるように、写真家が写真へのこだわりを不運と自ら評することは奇妙なことと思われるだろう。
(p.390 - 392)
現代では、「技術の進歩や新たな発見によって偶然性と選択の境界が劇的に変る時、様々に組み合わされた道徳的・倫理的信念の全体もまた変化する」という点と「偶然的に精神的放射線を浴びせられる犠牲者として、自らを見なす」という問題はセットになっていると言えるだろう。
基本的に、知識というものが増えれば増えるほど、世界の状況から「偶然性」が見出されたり、なんらかの物事が「選択」よりも「環境」に起因していることが発見されたりすることになる。
たとえば、進化論や心理学や遺伝学の知識、あるいはある種の行動経済学の知識などは、わたしたちの意志や努力ではどうにもならないような「生得的な傾向」や「先天的な格差」を示したり、わたしたちが自分の意思で行なっていると思った選択が環境や状況やフレーミングに由来することを示したりする。……とはいえ、大半の場合には、アカデミックな議論のレベルでは「生得的な物事や環境も影響したりするけれど意志や工夫や制度設計でなんとかできる部分も大きいですよね」といった無難なところに落ち着くのだが、通俗的なポピュラーサイエンスの本やネット記事やブログ記事などでは、生得的な物事や環境の影響だけをおどろおどろしく強調することが多い(どこまでが環境に由来して意志や選択はどこまで影響を与えられるかという複雑で曖昧な議論をオミットして極端な議論をした方が売れたりプレビューを得たりしやすいし、そもそも複雑で曖昧な議論に耐えらえるほどの能力を持たないジャーナリストやブロガーも多い)。
また、心理学や生物学といった「理系」の学問に限らず、「文系」の学問においても「権力」の影響を強調するフーコー的なポストモダニズム理論や社会正義理論は、やはり意志の力を低く評価して環境の力を高く評価する議論を行う。さらに、「自己責任を強調すると貧困層やマイノリティや困っている人に対して厳しくてかわいそうだから」といった同情や優しさや偽善から、とにかく個人の責任を否定してすべてを社会のせいにしようとする人も多い(社会学者や一部の精神科医などの間ではこのトレンドが特に顕著だ)。
結果として、理系も文系も、右も左も、「偶然性」を増させて「選択」を減らすように境界線を引き直しているのだ。そして、現代人は…とくに本をあれこれと読んでいたりお勉強をあれこれとしたりしている人ほど…自分のことを生物学現実によっても社会的権力によっても影響を受けて操作されている犠牲者と見なすようになる。さらに、自分を犠牲者と見なすことは「予言の自己成就」的な事態を引き起こすことが多い。意志の力を発揮したり自由に生きたりするためには、「自分は意志を持っていて自由な存在である」という自己認識を抱くことが必要になるからだ。
……ことによると、全体的な効用は、仕事よりも余暇を好むために仕事をしない人々にも相当の手当を支給するような[福祉]事業計画によって、改善されるかもしれない。[これに対して、]功利主義者は、そのような政策はいずれも共同体の生産労働力を低下させ、その富を減少させ、それゆえ平均効用を減少させるので、洗練された功利主義的分析がそのような結果をもたらすことはありえない、と答えるだろう。しかし、この回答には不満が残る。なぜなら、働くことを選択しない人々に、働いている人々から徴収した税金の中から金銭を支給することは、単なる偶然的な不正(contigently wrong)であるにとどまらないからである。すなわち、このような支給によって、ある望ましくない社会的帰結が生じるだろう、と我々が考える理由が存在するときにだけ、それが不正であるということではない。この政策は、不公正(unfair)であるという理由で、内在的な不正(inherently wrong)なのである。ここで功利主義者は次のように主張するかもしれない。もし我々が、そのような支給は長期的に見ると共同体の全体的効用にとってよくないと、少なくとも無意識のうちに、想定しないならば、我々が怠け者への補償を不公正だとは考えないとしても、それは当然ではないか。しかし、この回答は我々の確信の源泉と確信の内容とを混同している。我々がアリからキリギリスへの強制的移転を内在的な不正だと実際に考えている限り、不正の根拠が偶然的な経済予測次第で変わるような不正の説明を、受け入れることはできない。
(p.439 - 440)
功利主義者でなくとも、「生活保護の不正受給は全体から見ると微々たるものであり、審査や基準を厳密にすると不正を防げる代わりに必要な人にも行き渡らなくなってしまうおそれがあるのだから、生活保護の審査や基準は多少の不正受給を許容する緩さがあるくらいでちょうどいいのだ」といった主張をする人はよく見かける(さらにいうと、わたし自身もこの発想に…まさに功利主義的な観点に基づいて…同意している)。
しかし、不正受給とは「内在的な不正」であること、そのために不正受給は一定数の人々から嫌悪や激怒の対象になる、という点はたしかに留意しておいたほうがいいだろう。また、「多少の不正もコミコミでちょうどいい」という「清濁併せ呑む」的な発想は、現実の制度設計においては過度に忌避すべきではないが、制度の正当性や信頼を掘り崩す危険性がある点はやはり失念すべきではない。
…格差原理は、一次的財の最も少ない人々の立場にだけ注目する。この原理は、より多くの一次的財をもつ人々にとってどのような結果になろうとも、一次的財が最も少ない人々の地位が改善されることを要求する。最貧グループの定義がどうであれ、このグループには含まれないが、それでも自分の家族がまともに暮らせるように奮闘努力しなければならないような人々、一所懸命稼いだ賃金の一部が税金として取られ、全然働かない人々に支払われるとき、当たり前のことだが、憤りを感じるような人々に対する福祉事業計画の影響を無視することは、全く不公正であるように思われる。
[…中略…]
…能力の限り一所懸命働いている人々もまたひどく傷ついているが、正義論が関心を持つのは、最も傷ついた人生を送っている人々だけだ、と言うとすればそれは無神経であると思われる。ロールズは、なぜ原初状態のメンバーたちが自分の将来の身分を知らずに自分自身の自己利益に基づいて格差原理を選ぶのかという点を、満足のいく仕方で説明できていない。また、福祉プログラムをめぐる政治は、この理論上の失敗が落とす実務上の影を示している。「勤勉な中産階級」に対する公正を説く政治家たちは、もちろん票を狙っているのだが、しかし彼らはまた、世に広まっている正義感を代弁しているのである。
(p.442)
ロールズの格差原理に関する問題の指摘。言われてみれば当たり前のことなのだが、「勤勉な中産階級」の心情の描写になんだかリアリティがあって説得力を感じる。