道徳的動物日記

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「選良政治」は実現するか?/「熟議」がダメな理由(読書メモ:『アゲインスト・デモクラシー』②)

 

 

 

 一昨日の記事が長くなったので、残りは駆け足で紹介。

 

●エピストクラシー(選良政治論)は「理想理論」か「悲理想理論」か?

 

「訳者解説」でも指摘されている通り、本書で主に展開されるのは悲理想理論である。

 

ブレナンの考えは次のようなものである。もし人々が十全に知識を得ており、合理的であり、かつ道徳的に理にかなっているような理想的社会があるとしたら、その社会においてはデモクラシーが完璧に機能し、いかなるエピストクラシーよりも良い帰結を安定的に生じさせるのかもしれない。しかし、現実の人々の多くは、十全に知識を得ても、合理的でも、道徳的に理にかなってもいない。したがって、現実のデモクラシーは完璧には機能していないだろう。エピストクラシーは、このデモクラシーよりはも良い帰結を安定的に生じさせるかもしれない。そうであれば、私たちがいまここで目指すべき体制はエピストクラシーなのかもしれない。このようなブレナンの議論に対し、理想的なデモクラシーは悲理想的ないし理想的なエピストクラシーよりも優れていると主張しても議論がすれ違うのみである。ブレナンの議論に正面から向き合うならば、ブレナン自身が想定する悲理想的状況を念頭に置いたうえでの吟味が必要である。

この点を念頭に置いた上で、本書に対する解説者一同からの疑念を一つ提示したい。本書の主要な目的が、悲理想理論の枠内でエピストクラシーがデモクラシーに対する有力なオルタナティブとなり得ることを示すことであるのならば、前述の制約はブレナン自身にも適用される。換言すればブレナンは、悲理想的デモクラシーに対して、それと同程度の市民の道徳的・認知的欠陥を伴った悲理想的エピストクラシーが擁護され得ることを示さなければならない。しかしながらブレナンは、悲理想的なエピストクラシーがどのように機能するかについて十分な検討を行っていないのではなかろうか

 

(下巻、p.192 - 193)

 

 ブレナンのデモクラシーに対する批判は必ずしも「実際には人々は愚かで間違っているんだからデモクラシーは有効に機能しない」という経験的なものだけではなく、一昨日に紹介した第4章や第5章での議論のように、「デモクラシーに道具主義的なもの以外の意味を見出す議論(生じる政策結果ではなく人々に「力」や「自尊」を与えることを重視する議論)は、政治体制を評価する方法として誤っている」といった筋論も含まれている。そのため、おそらく、悲理想的なデモクラシー擁護論だけでなく理想的なデモクラシー擁護論もブレナンの批判の射程内には入っていそうだ。

 とはいえ、たしかに、本書で主に強調されるのは「現実のデモクラシーはまったくうまくいっていない」ということであるし、ブレナンの議論に対して「じゃああなたの主張するエピストクラシーならほんとにうまくいくの?」といった疑問は大半の読者の頭のなかに浮かび上がることだろう。

 第8章では、実際にエピストクラシーを採用するとして、さらに具体的にはどのような制度を採用すべきか、というポイントが様々な候補を挙げながら詳細に論じられている(「制限選挙」「複数投票制」「参政権くじ引き制(くじに当たった有権者の育成を伴う)」「知者の拒否権」など)。とはいえ、おそらくブレナン自身、現在にデモクラシーである社会が近いうちになんらかの形のエピストクラシーに移行する、という展望を現実的なものだとは思っていないだろう。

 やはり、「エピストクラシー擁護論」よりも「デモクラシー批判論」として読むべき本だとは思う。

 

 本書のなかでもとくに読者の感情を逆撫でしそうなのが、以下の段落。

 

もしアメリカで、私が先ほど考案したような試験を投票者資格試験として今すぐに開始するとしたら、私の見立てでは、試験に合格するのは、白人で、上流中産階級以上に属しており、学歴があり、雇用されている男性に偏るだろう。ここでの問題は、私が人種差別主義者であるとか、性差別主義者であるとか、階級差別主義者であるとかいうことではない。もちろん、私が道徳的に申し分のない人間である証拠は十分存在するし、潜在的バイアステストによれば、平均的な人と比較して、多くの標準偏差の値が小さかった。むしろ問題は、不正義や社会問題が根底にあることである。こうした根底にある不正義や社会問題は、一部の集団が他の集団よりも博識である可能性を高めがちである。私の考えでは、全員が投票することに固執するよりも、根本的な不正義を修正するべきである。症状を取り除くのではなく、病気を根治しよう。これまでの章で確認してきたように、情報量の少ない投票者と多い投票者では、こうした根本的な不正義にいかに対処すべきかを含め、政策に関する選好が体系的に異なっている。アメリカでは、白人の下位八〇%の投票者を投票から除外することこそが、貧しい黒人にとって必要なことかもしれない。

 

(下巻、p.140 - 141)

 

 

 ブレナンは「エピストクラシーが採用されたら、不正義に敏感な人々だけが選挙権を持つことになるから、不正義に鈍感な人も選挙権を持つデモクラシーとは異なり、不正義もやがて修正されていくよ(そしてやがては性別や人種などの属性や経済的階級の分布と選挙権の有無は重ならなくなっていくよ)」と論じているわけだが、この議論はなかなか苦しいと思う。

「白人男性」や「上流中産階級以上」の人々だけが選挙権を持っているという状況は、仮にそれらの人々が賢明で道徳的であることが保証されているとしても、ほとんどの人々の正義感覚に反している。さまざまな規範理論によっても、「選挙結果や政治体制の有能さの如何に関わらず、選挙権の有無とアイデンティティ属性や経済的条件の分布に露骨な重なりがある状況は不正義である」と論じることはできそうだ。

 そして、エピストクラシーであろうがデモクラシーであろうが、世界の不正義を漸進的に改善していくことはできても、根絶することはほぼ不可能だろう。すると、実際の世界においてはエピストクラシーは「白人や男性や上流中産階級以上の人々に選挙権が偏る」という状況を生み出し続けることになり、その点ではデモクラシーより不正義なものとならざるを得ないはずだ。

 

(いちおう、本書のなかでは、「選挙権があったとしても大半の有権者は自分の利益すらをもきちんと認識できずに自分の利にならない投票をする」ということが強調されたり、「選挙権がないことを屈辱的だとする発想をわたしたちが持っていることは歴史上の偶然である」という議論をしたりして「選挙権」の価値を解体することで、「選挙権を剥奪すること」が有権者に不利益をもたらし、「選挙権がない人がいる」ということが不正義をもたらすという主張に反論している。)

 

●熟議デモクラシーがダメな理由

 

 本書の第3章では「単に投票させるだけだと人々は愚かな選択をするかもしれないけれど、議論を行い選挙の争点となっている問題について知識を得させたり考えを深めさせたりすれば、人々は賢明な選択をするのではないか」という発想に基づく「熟議デモクラシー」論が批判されている。

 議論への参加は必ずしも人々の知識を改善したりバイアスの影響を減らしたりしないし、議論に参加している人はレトリックやカリスマに誘導されてしまうし、参加者の立場を極端なものにしたり(集団極化)意見の異なる相手に対する敵意を増させたり、ニヒリズムや不可知論に誘導したりする。

 また、第7章では、個々の有権者は賢くないとしてもデモクラシーは「集合知」を生み出すのではないか(「集計の奇跡」「コンドルセ陪審定理」「ホン=ペイジの"多様性が能力に勝る"定理 )といった議論が批判される。この種の議論は有権者たちの知識や関心がランダムであることを前提とするが、実際には有権者たちには「系統誤差」が存在するので、意見の間違いは修正されるよりもむしろ増幅されやすい、というのが主な批判だ。

 

 熟議デモクラシー批判に関して耳が痛かったのは以下のようなくだり。

 

[ダイアナ・]マッツは、「いまだ実現されていない様々な基準がすべて満たされる場合には政治的会話はよい結果をもたらすポテンシャルを持っていると主張することと、実際に行われているような政治的会話は市民に対して有意義な便益をもたらすと主張することは異なっている」と述べている。現実の人々は(それがタウンホール・ミーティングであれ研究室の実験であれ)通常は[ユルゲン・]ハーバーマスや[ジョシュア・]コーエンのいう適切な熟議のルールに従わず、熟議は通常は意図された結果をもたらしもしない。

熟議についての経験的研究が一般的にはネガティブな結果を与えるため、ほとんどの熟議デモクラシー支持者は幻滅して熟議デモクラシー支持者であることをやめると予想されるかもしれない。また、ほとんどの熟議デモクラシー支持者は、熟議が機能する確固たるエビデンスが存在する場合にのみ、留保条件をつけるか注意深い形で熟議を推奨すると期待されるかもしれない。

これとは反対に、熟議デモクラシー支持者は前述の経験的結果をみても平然としていることが多い(慰めになるかはわからないが、経験的な熟議デモクラシー支持者は哲学者や理論家よりもこの点で優れている)。熟議デモクラシー支持者は熟議の便益がそのうち明らかになることを前提としがちである。現実の人々がフーリガン的ではなくヴァルカン的な仕方で熟議することを保証する方法が今まさに発見されようとしているところである、ということを熟議デモクラシー支持者は前提とするのである。[タリ・]メンデルバーグは、「熟議が……期待されるように作用することを示すエビデンスの少なさ」にもかかわらず、また、熟議が問題を悪化させる危険性にもかかわらず、多くの理論家は現実世界における熟議の機会を減少させるのではなく増加させることを欲すると述べている。

多くの政治理論家は、私たちは単に適切な熟議を必要としているだけであると述べる。経験的研究は、それ自体が示している通り人々は正しい仕方で熟議していないーー熟議デモクラシー支持者が主張するような仕方で熟議していないーーため、熟議デモクラシーの便益とされるものを論駁したり反証したりしない。たとえば[エレーン・]ランデモアは、これらの研究は「他者との真正な熟議」を生み出すために「最適な条件を整備する」方法を発見する必要性を示しているだけであると主張する。メンデルバーグでさえも、熟議についての適切な経験的研究を行うことによって私たちは「熟議の成功を可能にする条件を作り出すことを期待できる」と推測している。

 

(上巻、p.115 - 116)

 

ランデモアは、しばしば民主的熟議を映画『十二人の怒れる男』に登場する陪審員による熟議のように扱って見せることで、デモクラシーを擁護したりもする。しかし架空の陪審員と現実のデモクラシーにおける市民とでは大きな違いがある。架空の陪審員たちは、入手可能な情報とその重要性を検討し、議論に耳を傾け、議論を組み立て、対立する諸々の観点を考慮し、多角的な視点から俯瞰しようとしながら、討論に十分な時間をかけている。彼らがそのようにするのは、自分の一票には重みがあり、自分たちの決定が誰かの人生に大きな影響を与えることを知っているからである。しかし第二章で言及したように、現実の投票者は、まるで個人票が重みを持たないかのような行動をしている。たいていの市民は、政治について情報を得たり、合理的であるための努力を怠っている。彼らはバイアスで歪んでおり逆効果となる形で熟議を行っている。

ランデモアはこうした不満に対しては、自分が「理想的な形態としてのデモクラシー」を研究していると述べるに留まっている。彼女は理想理論に後退することで、民主的な行いに関する経験的批判に応答するわけだ。ランデモアは、人々が彼女の考えるようには行動していないので、現実のデモクラシーは十分に民主的でないと主張する。彼女が述べるには、人々がデモクラシーを真剣に捉え、正しい仕方で熟議し、正しい仕方で情報を考慮し、集団として問題解決を試みる等の条件を満たしさえすれば、デモクラシーは賢明たりうる。それは、市民が現にそうしているように行動するのではなく『十二人の怒れる男』の陪審員のように振る舞ってさえくれれば、デモクラシーは賢明でありエピストクラシーに勝るだろうと述べていることになる

 

(下巻、p.73 - 74)

 

「耳が痛い」と書いたのは、熟議民主主義に憧憬を抱いているわたし自身、『十二人の怒れる男』をはじめとするフィクション作品における「理想化された熟議」に基づいて熟議民主主義を支持する気持ちが強いからだ*1アメリカの映画を見ているとしばしば「熟議」が登場し、アメリカ人は民主主義の本場だけあって「熟議」の大切さを重視しているんだなと感心するが(最近だと『ベスト・オブ・エネミーズ 価値ある戦い』)、しかしそれは現実に行われている議論がロクでもないがゆえに幻想が求められているからかもしれないし、いずれにせよフィクション作品の描写に基づいて政治体制について考えるべきではない*2

 さらに言うと、熟議民主主義のみならずデモクラシーそのものが、「万人が平等に尊重される」という理想や物語を提供してしまうからこそ現実の惨憺さに関わらず支持されてしまう、という構造があるのかもしれない。

 

 また、「現状の熟議はやり方が間違っているからダメなだけあって、適切な形で行えば熟議には意義がある」という考えも、実際にわたしが抱いているものであるので耳が痛い。

 いちおう書いておくと、わたしが読んだなかでは『熟議民主主義ハンドブック』や Innovating Democracy: Democratic Theory and Practice After the Deliberative Turn といった著作では、「声のデカい人が有利になるんじゃないの」「レトリックの上手い人の意見が通るんじゃないの」といった熟議に対して呈されるありがちな批判に応えるために、問題を防ぐための「熟議のやり方」が丁寧に論じられていた*3。そして、ブレナンは熟議が失敗した事例のデータを自説に都合良く集めているだけなんじゃないの、という疑念も抱かなくはない。……しかしそれでも、熟議民主主義はなかなか不利な立場にあるのだというのは認めざるを得ないだろう。

 

陪審員裁判と民主主義政治の「有能性原理」

 

 ブレナンは、政治と裁判の共通点を指摘する。

 政府も裁判所のどちらもが、わたしたち市民に対する権力を有しており、わたしたちの身体や財産や生活に影響を与えることができる(裁判所は直接的に、政府は医療や経済や安全保障などに関する政策を通じて間接的に)。そのため、裁判の被告人になり得るわたしたちとしては、裁判が合理的で真っ当に運営されることを望まざるを得ない。

 もし、陪審員裁判において陪審員たちに以下のような特徴がある場合には、わたしたちはそんな裁判の被告人になりたいとは思わないだろう。……理不尽で誤った判断に基づいて、罰金を取られたり監獄に収容されたり死刑になったりする可能性があるからだ。

 

・「無知」な陪審員:審理の最中に提示された証拠を無視する

・「非合理的」な陪審員:認知にバイアスがかかっており、非科学的な判断や陰謀論など基づきながら提示された証拠を評価してしまう

・「欠陥を抱えた」陪審員:認知的欠陥(低い知能か知的障害?)を持っており、裁判の争点となっている事件のことをそもそも理解できていない

・「不道徳」な陪審員:差別主義者であったり加虐趣味であったりするために、無罪とわかっている被告を有罪にする

・「腐敗」した陪審員:賄賂をもらったから、無罪とわかっている被告を有罪にする

 

 そして、ブレナンが陪審員に関する「有能性原理」として挙げるのが、以下のようなものだ。

 

陪審としての役目を負うためには、陪審は集団として、悪しき認識的および道徳的特性を有してはならない。

・また、もし陪審が全体としては有能であるとしても、もしある個別の決定が無能あるいは不誠実な仕方で下されたならば、その決定は執行されるべきではなく、被告はその決定に服するなんらの義務も負わない。

 

(下巻、p.24)

 

 この原理は、そのまま、政治にも当てはめられるはずである。政治的決定は、裁判所での決定と同じように、(政策というかたちで間接的に)わたしたちに対する権力を行使する。権力の行使には正当性が求められる。しかし、デモクラシーの下での政治的決定は、無知で非合理的で欠陥を抱えていて不道徳で腐敗した人たちが(多分に)含まれた有権者の投票に左右される。

 ……こうして説明されると、有能性原理はたしかに強力なもののように思われる。現時点で選挙権がないわたしとしても、「タダで選挙権がもらえる」か「無知な・非合理的な・欠陥を抱えた・不道徳な・腐敗した有権者を選挙から排除する」かを選べるとしたら、後者を選択するだろう。仮にわたしが知識を持っていて合理的で欠陥を抱えておらず道徳的で清廉な人間であるとしても、わたしの一票がもつ効力はごく僅かであり、政策を通じてわたしの身体や財産や生活に振るわれる権力を左右することはどのみちできない。

 実際のことろ、有能性原理に関するブレナンの議論は、わたしを含めた多くの人がデモクラシーに抱いているフラストレーションをうまく言語化しているだろう。

 角が立つ言い方になるが、国政選挙や地方選挙のたびに、わたしは経済政策などに関して「またアホどものせいでおれの生活が苦しくなりそうだ」と苦々しい気持ちになっているし(「アホ」と表現しているのは、経済や労働に関する諸問題について明らかに理解を欠けており、他人だけなく自分の生活までをも苦しくさせそうな政党や候補者にわざわざ投票する人が多々いるからだ)、ジェンダーや環境などに関する政策についても「また非道徳的な連中のせいで世の中の問題が改善される機会を失った」と思っている(「非道徳的」と表現しているのは、正当化することが困難な規範的判断に基づいて投票をしている人や、特定の規範的問題に充分な注意や関心を払わない人が多々いるからだ)。

 デモクラシーにおいては、アホで非道徳的であったとしても有権者たちの投票には特別な価値があると見なさなければならないし、「〇〇党に投票した人はアホだ/非道徳的だ」と実証的・倫理的に批判すること自体が「デモクラシーの正当性を認める」ということと矛盾しかねない*4。「○○党に投票すべきでない」「○○党に投票した人たちの判断は誤っていた」と主張することは、政策や倫理に関する他のかたちの主張に比べてもとりわけ嫌われやすいし、デモクラシーに生きる市民として、そのような主張を嫌うことにも一理はある(「投票すべきでない政党」を指定した時点で、その人は完全なデモクラシー支持者ではなくなるし、選良政治支持に片足を突っ込んでいると指摘することもできるかもしれない)。

 しかし、アホな人や非道徳的な人たちの投票のせいで、わたしやその他の多くの人々…そのなかにはマイノリティや脆弱な人々もいたりする…が多大な不利益を被り続けている可能性はかなり高い。奇跡的に「実はこれまでの選挙結果はすべて最善であり、ほかの政党や候補者が選ばれていたらより悪い事態になっていた」としても、原理の問題として、わたしや他の多くの人々の身体や財産や生活はアホな人々や非道徳的な人々の選択に左右され得る。

 これはたしかにロクでもない。そう考えると、ブレナンによるエピストクラシー擁護論には、(実際に有効に機能するかどうかは別として)説得力を感じざるを得ないのだ。

*1:

抽選で選ばれた見知らぬ人々同士が一堂に会して話し合い議論し合って、時として検察や裁判官たちにもたどり着けなかった真実を明らかにする…『十二人の怒れる男』をはじめとして陪審員制にスポットが当てられたフィクション作品はそんな構造になりがちだが、そのような作品では民主主義と熟議の理想の姿が描かれていると言えよう。

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

*2:

theeigadiary.hatenablog.com

*3:

 

 

*4:

davitrice.hatenadiary.jp