道徳的動物日記

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自由や責任についてどう「解釈」するか?(読書メモ:『そうしないことはありえたか?:自由論入門』)

 

 

「自由意志は存在するか否か」と言われたら、わたしを含めた多くの人が、「事実」に関する問題だと思うだろう。……つまり、自由意志というものがこの世界には「ある」のか「ない」のか、ということについての話であるような印象を受けるのだ。

 また、「決定論についての議論」と言われた場合にも、最初に聞いたときには「世界が決定されているか否か」に関する議論であるように思うはずだ。つまり、(ビッグバンが起こったり神様が作ったりしたとかの理由で)この世界が生じた瞬間からこの世界が終わるまでの全時間の全場所に起こる全ての物理的な現象とか存在とかは確定されており、わたしたちの意識も脳みそとか電気信号とかの物理的なものの所産に過ぎないからいつどこでなにを考えたり計画したりどんな行為をするかまでもが決定されているのか、それともそうではないか、ということに関する議論である。

 あるいは、わたしたちが体を動かす前に体内に電流が起こっていて意識より先に行動が存在する?みたいな、ベンジャミン・リベットによる実験については(『範馬刃牙』を通じて)知っている人もいるだろう。これも、自由意志は「ある」のか「ない」のかという、事実についての議論であるように思える。

 

 しかし、『そうしないことはありえたか?』を読んでまず思い知らされたのは…本書の副題はあくまで「自由論入門」であり「自由意志論入門」ではない点にも留意は必要であろうけれど…現代の(英語圏の/分析系の)哲学における「自由意志」や「決定論」についての議論で主に論じられているのは、「自由意志があるのかないのか」や「世界は決定付けられているかどうか」というトピックではなく、「世界が決定されているとしたら、わたしたちには自由意志があったり世界には自由が存在したりすると言えるかどうか」といった、事実についてではなく「解釈」に関してである、ということだった。

 ……そういえば、たしかに、哲学ってだいたいは解釈について論じる学問であったような気もする。また、「自由意志は存在するか」や「世界が決定されているかどうか」といった問題について「ある/なし」や「はい/いいえ」で答えを出そうとする議論をしても、論点が壮大かつ曖昧過ぎて面白くならなかったり不毛になったりしそうだ*1

 また、本書では、自由意志や決定論に関連する論点として「責任」というトピックが強調されている(ただし、最終章である第8章では「これまでの自由論では責任と自由をセットにして考えることが前提になっていたこと(「責任ファーストの自由論」)」に批判的な視点を示しながら、「自己表現」や「愛」と自由の関係などが論じられている)。

 素人考えだと、自由意志がなかったり世界が決定付けられていたりすると責任という概念は意味をなさなくなりそうだが、それでも責任は存在すると言うことができるか、それともやっぱり責任は存在すると言うことはできないのか、ということが論じられていた……この記事の読者にニュアンスが伝わるかどうかわからないが、やはり、責任の有無というよりも責任についての解釈に関する議論であったように読めたのである。

 というわけで、本書の内容…というか、本書で紹介される、自由や決定論に関する現代哲学の議論の内容…はやや意外であったし、いくぶんモヤモヤが残ったりもした(Twitterで感想を調べたところ、同じような感じ方をした読者は他にもいたようだ)。

 

 たとえば…「世界が決定されていても、自由(自由意志)は存在するといえる」という議論は両立論と呼ばれる。

「自由」の定義については、「ある行為をした時点でその行為者は別の行為をすることも可能であったなら、行為者は自由であったといえる」と定義する他行為可能性モデルもあれば、「行為の源泉が行為者自身にあったなら、その行為は自由であると言える」と定義する源泉モデルも存在する。両立論者の多くは、厳選モデルのほうを採用する(ただし、他行為可能性モデルを採用しながらも両立論を主張する人もいる)。

 源泉モデルのなかでも代表的なのがハリー・フランクファートによる「二階の意欲説」であり、本書では第2章でこの考え方が説明されている。

 

…人間とカエルには一つの重要な違いがある。それは一言で言えば、自分自身の欲求を反省的に評価する能力の有無である。例として、卒業論文を執筆中の大学生、太郎を想像してみよう。太郎は卒業論文の締め切りに追われているーーあと二週間だ。太郎は、卒業論文は大学での学びの集大成であるから、最善を尽くして良い論文を完成させたいと思っている。一方で、面倒な執筆作業はもう切り上げて、冷蔵庫にある大好物のビールを飲んでしまいたいとも思っている(太郎は下戸なので、飲んでしまったらもう執筆はできない)。

[…中略…]

ここで、太郎の脳内で進行しているプロセスをより厳密に記述するために、少しテクニカルな用語を導入したい。太郎がビールを飲むかどうか思案しているとき、彼の心の中には衝突する二つの欲求がある。それは、「ビールを飲みたい」という欲求と、「良い論文を書きたい」という欲求だ。このような、「何をしたいか」という特定の行為への欲求を一般に、フランクファートに倣って一階の欲求(first-order desire)と呼ぼう。さて、フランクファートによれば、私たちがもつ欲求は一階の欲求だけではない。私たちは、「かくかくしかじかの(一階の)欲求をもちたい」という、いわば欲求についての欲求をもつのである。このような欲求は一般に、二階の欲求(second-order desire)と呼ばれる。さて、フランクファートが「人間」概念の理解において重要視するのは、ある特別な種類の二階の欲求、すなわち二階の意欲(second-order volition)である。二階の意欲とは、「かくかくしかじかの(一階の)欲求が行為を実際に動機づける力をもってほしい」(あるいは、「かくかくしかじかの(一階の)欲求に導かれて行為したい」)という二階の欲求のことを指す。再び太郎の例に立ち戻ろう。太郎の心の中の天使の声が象徴するように、彼は「ビールの誘惑に負けてしまうのではなく、良い論文を書きたいという欲求に導かれて行為したい」という欲求をもっている。太郎がもつこの欲求は、まさに「二階の意欲」の一例である。

 

(p.71 - 72)

 

 この議論を読んでわたしがすぐに思ったのは「でも、世界が決定付けられているんだったら、「どのような二階の意欲や二階の欲求を持つか」ということすらもが、わたしの与り知らぬところでもう決められているんじゃないの?」ということだ。

 哲学者たちも、フランクファートの説について「特定の二階の意欲をもつように操作、ないしプログラムをされた行為者が「不自由」であるように思われることをどのように説明するのか」(p.79)という批判をしてきたらしい。

 本書の第4章では、源泉モデルに基づく両立論に対する批判として、行為者がさまざまな方法で操作される事例…マッドサイエンティストが脳内にチップを埋め込んで遠隔操作したり、生まれる前から介入したり、後天的に洗脳したり…を示したうえで、「このように操作されている場合には行為者には責任がないと判断するなら、世界が決定付けられていた場合にも行為者には責任がないと判断しますよね?」と同意を迫る、操作論証が紹介されている。

 

(1)操作ケースにおいて、行為者Sは自らのすることに責任を負わない。

(2)操作ケースにおける行為者Sは、責任に関連する点において、(操作を含まない)通常の決定論的なケース(「決定論ケース」と呼ぼう)における後者と違いがない。

(3)したがって、決定論ケースにおいても行為者は自らのすることに責任を負わない。

 

(p.145)

 

そして、フランクファートやそのほかの源泉-両立論者は、以下のようにして操作論証に反論している。

 

一つは、操作の事例と通常の決定論的事例の間に責任に関する何らかの違いを指摘するーー前提(2)を否定するーーという選択肢、もう一つは、そもそも操作の事例でも行為者に責任はありうるのだ、と主張するーーーー前提(1)を否定するーーという選択肢の二択だ。後者の路線からの応答は、操作ケースのプラムに責任があるという、一見して反直感的な主張をすることになるため、「強硬な応答」(Hard-line reply)と呼ばれる。対して、前者の路線からの応答は「穏健な応答」(Soft-line reply)と呼ばれる。

 

(p.153)

 

 

 これらの引用部分に示されているとおり、「二階の意欲」説にせよ「操作論証」にせよ、それは責任に関する議論であるようだ。

 しかし、わたしが「世界が決定付けられているんだったら、どんな二階の意欲を持つかも決定付けられているんじゃないの?」と思ったときに抱いた不安は、責任に関するものではない。

 本書のなかでも書かれている通り、フランクファートの議論には「人間観」が含まれている。そして、「自分自身の欲求を反省的に評価する能力」はストア哲学的な理性に近いものであり、わたしが前から抱いた人間観とも合致していて、賛同する。……だからこそ、「どんな二階の意欲を持つかも決定付けられているんじゃないの?」ということに不安を抱いてしまうわけだ。

 そして、この不安は、「行為者の責任を問うことができるか」という議論をされても、まったく解決しない。わたしが気にかけているのは「(決定論が真であったときに)わたしは自由であるか」ということであり、わたしや他人に責任があるかどうかではないからだ。

 もちろん、これは「ないものねだり」である。フランクファートやその他の両立論者たちにせよ非両立論者たちにせよ、彼らが論じているのはあくまで「決定付けられた世界でも責任を問うことはできるか否か」というポイントについてであり、この議論における「自由」は、責任と関連する限りにおいて必要性や意味を持つのであろう。

 また、本書の第8章では、「もし私たちに自由がないとしたら、私たちの人生は無意味なものとなってしまうのだろうか。」(p.254)というトピックについても記されており、ここの議論はわたしが抱いた不安に関連するものであるように思われる。……しかし、(紙幅の問題から)2ページしか議論されていなかったので、ぜんぜん充分じゃなかった。

 ここらへんが、わたしがモヤモヤを抱いた理由である。

 

 とはいえ、自由や責任に関する難しくてチマチマした海外の学者たちの議論をかなりわかりやすくしながら、飽きずに読み進められる程度の厳密さやテンポ感でまとめてくれているという点で、なかなか参考になる良書だと思う。これまでに聞いたことのない議論とか哲学者たちもいっぱい出てきたのがよかった。

 とくに責任論については、日本の思想や出版業界は(『<責任>という虚構』といった悪書が幅を利かせているのも災いして)「自己責任論批判」「ネオリベ批判」ばっかりになっていてマトモなものがないから、社会問題や政治についてイデオロギー的に援用することが難しい地道で堅実な議論を紹介してくれる本書には、読者の頭を冷やしてくれる効果もあるだろう。

 

 残りの感想は箇条書き。

 

● 第5章では、「そもそも世界は決定付けられていないから、自由は存在する」という「非決定論(-非両立論)」の立場であるリバタリアニズムの主張が紹介される。この主張は、量子力学の見解(量子の動きはランダムで法則がない)や脳神経科学の見解(人間の決断には「意志の努力」が存在する)など、現代科学の知見に裏打ちされているのが強みであるようだ。

 ……しかし、やはり、リバタリアニズムでも決定論に対するわたしの不安は消えない。世界は(おそらく)1つしか存在せず時間の軸というのも(たぶん)1つしか存在しないはずだから、過去・現在・未来において無数の量子が行う法則のないランダムな動きもわたしたちが決断を下す際に脳のなかで発生する諸々のプロセスも、そのすべてが(ビッグバンとか神さまとかによって)決定されている、ということにはならないのだろうか?

 

● 第6章では「自由(や責任)は存在しない」という「懐疑論」を前提にしたうえで、「責任は存在しないと本気で信じるなら法律によって人を罰したりすることもできなくなるから、懐疑論は実際に採用することのできない机上の空論だ」という批判に応答する「楽観的懐疑論が紹介される。

 楽観的懐疑論者は、道徳的に悪いことをした人を「非難」したり道徳的に良いことをした人を「称賛」したりするといった実践は無意味なものとして棄却するが(道徳的に優れた性格になったり道徳的に優れた在り方ができること自体が自由ではない=運に左右されることであるため)、「二階の意欲」説に基づく自由を認めながら「良い」「悪い」などの評価は行うらしい。……この時点で、いかにもわたしが嫌いなタイプの人間が好みそうな議論で気に食わなかった。

 また、楽観的懐疑論者は、刑罰に関しては応報主義を否定するが、帰結主義や「隔離モデル」によって犯罪者に対する処罰や社会からの隔離を正当化する議論を行う。いちおうは功利主義者でありベンサムの刑罰論について聞き齧っている身としては、こちらの議論はわりと許容することができた。とはいえ、本書でも指摘されている通り、ガチで実践するとなると色々と大変で実現困難なのだろう。

 

 そもそも、気持ちの問題として、非両立論を支持して自由(意志)や責任に非難や称賛という概念を否定しながらも「よい社会」について論じようとする試みに、わたしはまったくノることができない。

 わたしが「道徳的に良い人間になるか悪い人間になるかは本人には選べないんだから、後者を非難するのは気の毒だからやめておいたほうがいい」という判断をしたり「現在の刑罰システムは自由や責任についての誤った考えに基づく応報主義に影響されているから、帰結主義や隔離モデルに基づいて改善すべきである」という判断をしたとして、それらの判断自体が、「いい」や「べき」という発想が混入した規範的なものである。

 自由が存在するとすれば、わたしが抱いているわたしの規範的な考えは実際のわたしの考えに基づくものであり(源泉モデル)、わたしは気の毒な人のことを非難したり誤った発想に基づく刑罰システムを放置するという「悪いこと」をするのも可能であるのにその逆の「良いこと」をしようとしているわけだから(他行為可能性モデル)、わたしは自分の規範的な判断にコミットするモチベーションを抱ける。

 しかし、自由意志が存在しないのだとすれば、わたしがなんらかの規範的な判断をすること自体が「たまたま」である。サイコロの出目次第ではわたしは弱者や運の悪い人に対して冷淡な考えを抱いたままだったかもしれないし、いまは違っても明日になったらなにかをきっかけにしてまた冷淡な考えを抱くようになるかもしれない。そういうことを考えると、自分の規範的な判断について本気になる、ということ自体が馬鹿らしく思えてくる。

 これは、(本書で紹介されているような哲学的に洗練されたものではなく、社会学俗流心理学や社会運動論に基づいているタイプの)「自己責任論批判」を提唱している人たちに対してわたしが常々に抱いている疑問でもある。自己責任論批判者は、運悪く弱者になったりロクでもない人間になったりしてしまった気の毒な人たちについては彼らの責任を問わずに同情や慈悲を向けるが、弱者やロクでもない人に対して冷淡である人に対しては怒り非難を向ける……というか、この怒りこそが「自己責任論批判」のモチベーションであるだろう。

 しかし、責任(や自由)を本気で否定するなら、弱者に同情するか弱者に対して冷淡になるかだって本人に左右できるものではなくなり、それに怒りを抱くのは筋違いということになるはずだ。

 

● 第7章では、ピーター・ストローソンという哲学者の議論が紹介される。

 

ストローソンは「責任」という概念を解明するうえで、私たちが日常的な実践の中で他者に向ける特別な種類の感情を考察の出発点とする。その種の感情を総称してストローソンは「反応的態度」と呼ぶ(reactive attitude)と呼ぶ。

[…中略…]

[パーティーで友人に自分の秘密を他の人たちにバラされたとき]…あなたは友人に対して「怒り」を覚えるだろうが、それはきわめて自然なことである。たしかに、その怒りがどのような形で行動に表れるかは、人それぞれだろうーーその場で友人に対して抗議したり、友人を非難したりするかもしれないし、怒りをぐっとこらえて平静を装うかもしれない。とはいえ、友人に対するあなたの怒りは、いわば「人間」として当然ともいうべき感情であると言えるだろう。

だが、なぜあなたは、友人に対して怒りを向けるのだろうか。知られたくない秘密をバラされたという事実を悲しんだり落胆したりするだけでは、なぜ不十分に思われるのだろうか。それは、あなたが友人の行動に、自分に対する悪意、あるいは敬意の欠如を見て取ったからだ。ストローソンがいみじくも指摘するように、「私たちにとって、他の人間がこちらに向ける態度や意図は非常に大きな重要性をもつ」[…]。だからこそ、他者の言動が自分に対する悪意や敬意の欠如を示していると見て取ったとき、私たちは相手に対して怒りを覚える、あるいはそうすることが適切だと考えるのである。

[…中略…]

善意や悪意、敬意や敬意の欠如、関心や無関心といった、相手をひとりの「人格」としてどのような仕方で扱っているかに関する態度、ないしその態度の源泉をストローソンに倣って「意志の質」(quality of will)と呼ぶならば、反応的態度を一般に次のように特徴づけることができる。

 

反応的態度:反応的態度とは、相手の意思の質に反応して、その相手に対して向ける感情のことである。

 

(p.222 - 224)

 

 わたしたちはハトにフンをかけられたときにもムカッとしたりイラッとしたりするかもしれないが、その感情は「怒り」ではなく「苛立ち」と表現したほうがよい。わたしたちはハトに怒りを向けて事態の任を問うわけではなく、事態の原因であるハトに対して苛立ちを向けているに過ぎない。わたしたちが自然現象や動物や幼児に対して向ける態度は、反応的態度ではない。

 また、相手が大人であったとしても、反応的態度の表出を差し控える場合がある。だれかに危害を与えられたとき、相手には悪意がなかったこと(電車でよろけた人に足を踏まれるとか)は「弁解」(excuse)として、相手に責任能力がなかったこと(極度のストレスに晒されてまともな判断ができなくなっているとか)は「免責」(exemption)として、怒りを抑える要因になる。動物や幼児および悪意のない相手や責任能力がない相手に対しては、わたしたちは責任を問うのではなく、自然現象に対してするのと同様に処置を行う…彼らのもたらす危害を減らすための対応を淡々と実行するのだ。ストローソンはこれを「客体的態度」(objective attitude)と呼ぶ。

 

 そして、反応的態度は、以下のようなかたちで、自由意志や決定論に関する議論と関わってくる。

 

非両立論者は、もし決定論が真ならば、私たちは決して自身の行為に責任を負いえないのだ、と考える。このことは、私たちには普遍的に免責要因が成立していることを意味する。よって、反応的態度の表出に代表される私たちの実践は決して正当化されえない。

[…中略…]

ストローソンは先述の非両立論者の懸念に対し、決定論の真理は責任の脅威とはならないのだ、と応える。なぜ脅威にならないのか。その最も大きな理由は、仮に私たちが決定論の真理を受け入れたところで、反応的態度を伴う道徳的な実践を完全に放棄してしまうことなど、心理学的に不可能だからだ。もちろん、私たちが他者に対してときに客体的態度をとることはある。前節で触れた免責要因が成立する場合がその一例だ。ここでのストローソンの主張は、私たちがすべての人間に対して常に客体的態度を向けることなどそもそもできない、ということである。反応的態度を全面的に棄却するという選択はおよそ人間がとりうる現実的な選択肢ではないのだから、決定論の心理によって責任が脅かされるのではないかと悩む必要などない、というのがストローソンの基本主張である。

しかし、なぜ私たちが完全に反応的態度を捨て去ってしまうことなどできないとストローソンは考えるのか。それは、人間とはそもそも、他者に対して反応的態度を向けけざるを得ない、そういう生き物だからである。少し堅苦しく述べ直せば、反応的態度の表出でもって他者と関わるという責任実践は、人間の本性に根ざした、いわば自然的事実であり、人間が人間であるための本質を構成するものなのである。

 

(p.230 - 232)

 

 しかしながら、ストローソンの議論はやや「健常者中心主義」であるように思える。ネットやSNSなどで「アスペ」や「発達障害」を自称しているタイプの人たちの発言や文章を見ていると……おもしろおかしくするためにオーバーな表現が使われている場合もあれば、そもそも当事者ではない偽称の人たちも混ざっているのだろうが……彼らは身近な家族や友人を含めた他人に対しても「客体的態度」をとっている、と表現できるようなことが多々ある。

 また、「怒られが発生した」というネットミームは、怒っている相手のことを人格として扱わず自然現象であるかのように扱っている点で客体的態度そのものであるが、このネットミームは多くの人に共感されているようだ。

 本書でも、反応的態度を捨て去ることはストア派や仏教では理想とされており、実際にもある程度以上は実践されているのだから不可能ではないかもしれない、といった指摘がされている。

 ……とはいえ、おそらく、大半の凡人には反応的態度を捨て去ることはできないだろう。しかし、世の中には、自分にとって都合のいい場合だけ客体的態度をとるという人や、「自分はクールで論理的な人間だから反応的態度を捨て去っている」という誤った自己イメージを抱いて生きている人が数多くいそうだ。これは、他人や社会のことを舐め腐った、ロクでもない態度である。そして、ストローソンの言う通り非両立論が「すべての反応的態度の放棄」をもたらすというのは起こり得ないかもしれないが、ロクでもない「自分にとって都合のいい範囲内での反応的態度の放棄」を助長することにはなるかもしれない。

 

 なお、この章では、友好や愛などを含むポジティブな人間関係のためには反応的態度が不可欠であるという主張(スーザン・ウルフ)と、客観的態度のみの世界でも友好や愛などは成立し得るという主張(タムラー・ソマーズ)についても、ちらりと紹介される。わたしとしては前者の主張を支持したいところだが、著者によると後者の主張も説得的なものであるようだ。

 

*1:とはいえ、本書にリベットの名前や実験がひとつも出てこないのはやや意外でもあった。わたしが読んだなかでは『心にとって時間とは何か』などがあるが、自由意志に関する哲学的議論においてリベットが取り上げられること自体は普通であるようだ。