道徳的動物日記

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「運」にどこまで配慮すべきか?(読書メモ:『自由意志対話:自由・責任・報い』)

 

 

 非両立論-楽観的懐疑論者のグレッグ・カルーゾーと両立論者のダニエル・デネットが論争する本*1。訳者あとがきでも指摘されているように両者の議論はかなり細かく入り組んでおり、決して入門的な本ではない(とはいえ、『そうしないことはありえたか?』を読んだおかげもあってか、だいたいのところは理解することができたと思う)。

 また、原題は Just Deserts: Debating Free Will(「当然の報い:自由意志について議論する」)であり、自由意志についての形而上学的な議論ではなく Desert(「相応しさ」)についての規範的な議論のほうが主になっている。『そうしないことはありえたか?』を読んだときには「自由意志の話よりも責任の話のほうが主になっているじゃん」と面食らったものだが、こちらは原題で「責任(相応しさ)に関する規範的な議論です」ということが明示されていたので心構えができていた。

 とくに議論の対象となるのは刑罰についてである。カルーゾーは「罪を犯した者を懲罰する」という現状の刑罰システムは「人間には自由意志が存在している」という誤った前提に基づいた応報主義に支えられているものであるから撤廃すべきだと主張して、責任や懲罰という発想を捨てた公衆衛生ー隔離モデルという新たな犯罪予防システムを提案する。それに対して、デネットも現状の刑罰システムの問題点は認めながらも、責任や相応しさの概念を捨てた社会は実現・維持できないということを主張しつつ刑罰システムを擁護している。

 

 これも訳者あとがきで触れられていたことだが、カルーゾーの議論のほうがオーソドックスな哲学者っぽく、デネットは進化論などの非哲学的な視点や学者ではない一般人の視点を取り入れたトリッキーな議論を行なっている。おそらく、論理性や首尾一貫性など、通常の哲学の議論で評価されるようなポイントについてはカルーゾーのほうに軍配が上がるだろう。

 たとえば……デネットの議論では「通常の人間は子供時代から経験や学習を通じて、自己コントロール能力を身につけていく」「自己コントロール能力を身につけられていない人は社会の成員に相応しい存在として見なされず自由を制限させられる」「自己コントロール能力があるはずの人が罪を犯した場合には、罰を与えることは正当である」といったことが強調される。わたしたちの人生は環境や運といった外部の物事に影響されるが、自己コントロール能力を身につけることで、運が人生に与える影響を低減させたり、環境に振り回されずに自己決定を行う余地を生じさせることができる。親や学校による子どもの教育や社会化も、本人の人生が外部環境に左右させられっぱなしのものとならないような自己コントロール能力を身に付けさせるためのものであるし、また自分の行為が他人に対して与える影響などを判断したうえで行為を制御することができるような道徳的責任能力を身に付けさせることで「道徳的行為者クラブ」(通常の責任能力を持った人間たちの集団)に加入させるためのものでもある。

 要するに、自分のことをしっかり管理して自分に責任が持てる人間でないと一人前の大人としては認められないし、社会のルールを守る能力がないと見なされた人には社会的な自由や権限は与えられない、ということだ。このような自己コントロール能力を前提にした「責任」概念はどの社会にも見受けられるものであり、逆にどのような社会の道徳も責任概念を抜きにしては維持できないし、責任という概念を取っ払ったルールを人工的に作ってもまともに機能しないだろう、というのがデネットの主張だ。

 この主張の背景には(文化)進化論が存在しており、「(長い学習期間や社会化を経て)自己コントロール能力を身に付けることができる」という個体としての人間の生物的特徴を前提にしたうえで、効果的に集団を維持したり協働を行ったりするための方策として、責任や相応しさといったものを想定する「道徳」システムを人間社会は長い年月を経て発展させてきた(道徳よりは人工的である「法」というシステムも、やはり個体としての人間の生物的特徴を前提にするものである)。

 長い期間残ってきた進化的特徴や文化的システムが必ずしも適応的なものだとは限らないが、デネットは自己コントロール能力も「道徳」システムも充分に適応的なものであると判断したうえで、それを無視したり捨て去ろうとすることは賢明ではない、と主張するわけである。……これには、「うまくいっていないように見えるシステムでも安易に撤廃すべきではない(新しいシステムはさらに悲惨な事態をもたらすおそれがあるから)」というエドマンド・バーク的な保守主義を連想する人もいるだろう*2

 本書におけるカルーゾーや戸田山和久の『哲学入門』は、デネットの立場は自由意志や責任とは「共同幻想」や「フィクション」であることを理解しつつ「"ある"という風に考えたほうが上手くいくから」という理由でそれを信じる(信じさせる)ことを支持する、道具主義的」なものであると指摘している*3。しかし、デネット自身は自分の主張が道具主義的であると見なされるのを嫌うようであり、自分が定義する意味での「自由意志」や「道徳」や「相応しさ」は実在すると主張しているようだ。……これについては本書のなかでもカルーゾーは困惑しているようだし、わたしもイマイチ理解しきれていない。おそらく、「自由意志」や「相応しさ」に関する一定の見解を前提とした「道徳」というシステムは長らく人間社会のなかで機能してきたものであり、他のシステムを採用しても失敗するから、「他にはあり得ずにこれしかなく、また今後も存在し続ける」ということが確信できるという意味で実在すると言っているのだろうか?

 

「運」の影響を軽減するための自己コントロール能力を重視するデネットに対して、カルーゾーは、「自己コントロール能力を身につけられるかどうか自体がそもそも運に影響されているのだ」と指摘する。運には「現在の運」(行為するそのときの運)だけでなく「構成的運」(ある人が何者であり、どのような性格特性と性向を備えているかに関わる運)もあり、デネットは構成的運の要素に無頓着である、とカルーゾーは主張するのだ。

 単なる議論としては、カルーゾーのほうが正しい。「自分がどんな人間になるのか」ということ自体が、子どもの頃からのさまざまな外部要因や生まれつきの特徴などに左右されるものだ。どうしても努力できない人はいるものだが、そのような人の大半はなりたくて努力できない人間になったわけではないだろうし、努力することができる人間に対して「ぼくもああいう風に成長したかった」という羨ましさを感じながら理不尽な気持ちを抱くものだろう。マイケル・サンデルの本の邦題が『実力も運のうち』であったように「環境や運の悪影響を乗り越えて能力を発揮した、ということ自体が幸運なのであり、突き詰めて考えると本人の能力なんて存在しないのでは?」といった疑問は、運と能力というテーマについて考えことがある人なら誰もが思い浮かべたことのある発想である。……もちろん哲学者の多くもこの発想を経由しており、政治哲学に議論においても「相応しさ(ディザート)」の発想が単純に肯定されることはほとんどない*4。ただし、この発想自体はかなり陳腐で凡庸なものであり、哲学者でなければ気付けないような類のものではないことには留意してほしい。わたしですら高校生の頃には「おれは努力できないかもしれないけれどそんなのおれの責任じゃないし」と考えていた。

 デネットは「若い時期の死に瀕するほどの試練を受けるという運」が「以前よりも断固たる性格になる」ことをもたらすなど、「人が成熟と自己コントロールを身につけるに至る道は数限りなく存在する」ということを指摘している(p.196)。しかし、もちろん、これはカルーゾーの主張に対する反論になっていない。試練によって成熟するかしないかということ自体が「運」に左右されるわけだから。カルーゾーは「至るところに行きわたり、すべてを包み込んでしまう運」(p.201)を問題視しているわけである。

 とはいえ、デネットがカルーゾーに対して言いたいのは「そんなこと言ったってしょうがないじゃないか」というセリフだろう。この本のなかでも特に印象的なのが、カルーゾーが「ぼくは紛争中の国家に生まれ落ちた可能性もあった」という「国ガチャ」の問題を提起したのに対して、「あなたはヒトデやキュウリとして生まれてきた可能性もあれば決して生まれてこなかった可能性もあった」という「生物種ガチャ」や「出生ガチャ」の問題を提起して切り返すところだ。ここにおけるデネットの返しは幼稚な混ぜっ返しではなく、真を突いたものである。カルーゾーは「現在の運は考慮するのに、構成的運を考慮しないのは恣意的だ」と主張しているが、彼の主張もまた「どのような環境に生まれたか/どのような人間に生まれたかという運は考慮しても、人間として生まれたこと自体の運は考慮しない」という点で恣意的であるのだ。

 実際のところ、運の問題とは、どのように考えるにしても線引きが必要になるものだ。たとえば、「どの国に生まれ落ちるか」という運にまで過度に配慮すると、一般的な日本人よりかは不運であるが極貧国や紛争中の国家の人々よりかは不運ではない日本人の不運について配慮することはほぼできなくなるだろう。

 構成的運がたしかに存在するとしても、本人の行為や能力や対して本人自身が持つ責任という概念を抜きにした規範やシステムを運営することは実際には困難だ。だからこそ、運の平等主義では、どこかの時点では恣意的になることをわかっていながらも「選択の運」と「自然の運」に区別を設けて線引きを行い、配慮の対象は後者に限定するわけである*5。カルーゾーの主張は大人げのないものだとも言える(「不毛」だとも言いたくなってしまうが、本書を通じてカルーゾーは運の問題をとことん考慮しながら責任概念を抜きにした社会のあり方をがんばって論じているので…彼の議論が成功しているかどうかはともかく…さすがに不毛な議論と言うわけにはいかない)。

 カルーゾーに比べるとデネットの議論は漸進的でプラグマティックなものであるように思える。

 

運を無効化するためにさらなる運に訴えることはできない、という点で僕はあなたに同意すると言ったが、僕はそれに続けて「運を無効化するためには労力と技能が必要だ」とも言った。さて、この世界のほとんどすべての子どもーーひどい苦境にさらされている子どもすら含めてーーが、何らかの働きを行なっていく中で成熟と発達した技能を獲得するに至るというのは、純然たるむき出しの運などではない。どのような社会の親も教師も、子どもたちがそれを獲得できる条件を提供することを社会によって強く動機づけられているものだ。ほとんどすべての子どもは、他の人間たちがいる場所で育てられ、漸進的に責任を認められるようになっていき、最終的に成人の自由を危なげなく認められるまでの成熟の水準に達するに至る点で幸運なのだ、とあなたは言うことができたかもしれない。僕としてはむしろ、何らかの理由でこの通常の発達が生じなかった、子どもたちの中のごく小さい少数派のグループこそがとてつもなく不運なのだ、と言いたい。彼らに明らかに自由意志はなく、僕らは彼らのための多大な許容と配慮を与え、彼らが十分な育成を得られるような限定された環境に彼らが居られるようにすべきだ。そしてまた子どもたちの中には、成熟と自己コントロールについて生涯におよぶ問題を抱えている、それよりも大きな少数派のグループも存在していて、僕らは彼らに対しても何らかの対応を提供する必要がある。幸い、現代社会はこのような子どもの数が最小化することを保証するための真面目なプログラムをーー人生のスタート地点に立つ子どもたちのための、義務教育や、親による虐待を禁ずる法などをーー発展させてきた。僕らはこのような対策をさらに促進するための国家的な取り組みにもっと専心していくべきだ。これは誰もが知っていることだ。あなたの言うとおり、あまりにも多くの子どもが、まさにこのような不運に見舞われているし、じっさい僕らは経済、教育、政治における僕らのポリシーを修正し改革していくための手を打ち、僕らにできる限りでそのような目に遭う子どもの数を減らしていくべきだ。だが、この目標を実現するためには標準的な幸運よりも大きな幸運が必要だ、というのは端的に正しいこととはいえない。

だから、運がすべてを飲み込んでしまうということはない。運がほとんどのものを飲み込んでしまうということすらないし、現在では、例えば旧約聖書の倫理のような古き悪しき時代と比べて、運が飲み込んでしまうものはさらに少なくなっている。この二、三千年で、僕ら人類は多大な進歩を遂げたのだし、その進歩のかなりの部分は前世紀にもらされたものだ。僕らは<構成的運>が支配する領域と<現在の運>が支配する領域の両方を、莫大な範囲にわたり狭めてきた。世界全体を見渡せば、人口のパーセントして貧困は減少していて、これは死と飢餓に瀕した子どもが減っていると言うことだ。この問題やその他の最前線の問題における、励まされる最新のニュースについては、ハンス・ロスリングの『FACTFULNESS―10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣』を見てほしい。そして、現在では、この上なく不運な人々を除けば誰もが利用できる、教育や、両親へのガイドや、それにもちろん、世界と世界の中で生きていくための情報が、もっともっと多く存在している。僕らがとてつもなく不運な世界に生きていたと考えてみよう。その世界では、青年に達した人物のほとんどすべてが、あれやこれやのちょっとした不運のせいで、合理的な自己コントロールが不可能になってしまっているんだ。だが、たとえそんな世界にいたとしても、僕は人々を道徳的責任ある存在だと見なすというポリシーを放棄すべきだ、という主張には説得されない。その世界では、責任あると見なされうる人々の数がより少ないだろうが、それでも、その世界を良いものにしていくための最善の希望をかなえる方法は、その少数の人々を励まして、彼らがそれに対して道徳的責任を引き受けるような、道徳的に責任あるプロジェクトに参加してもらう、というやり方になるだろう。ここで言う道徳的責任は「神の御前での」それではない。なぜなら僕らは、目の目の前にニンジンをぶら下げる必要性をすでに脱却しているからだ。ここで言っているのは、まさに人々が望むに値すると思えるような種類の道徳的責任に他ならない。およそものを考えられる人々であれば、責任ある存在と見なされることこそが人生最大の祝福であると理解するはずだ。

 

(p. 202 - 204)

 

 なお、とくに第三部(「論戦三」)で詳細に語られる、刑罰システムに関する本書の議論にはピンとこないところが多かった。

 まず、現実的に考えて、刑罰システムを漸進的に改良するのではなく新たなものへと丸々入れ替えようとするカルーゾーの提案が実現することはまずないだろうから、議論についていくモチベーションが湧かない、というのがある。

 また、カルーゾーは現在の刑罰システムを正当化する発想として「応報主義」を否定し、さらにデネットの主張も応報主義に基づくものだと批判する。これに対してデネットは、自分も応報主義は批判しているし自分の主張は応報主義に基づくものではないと反論する。……この議論は本書の後半まで続くのだが続くのだが、水掛け論を読まされているという感じが強い。世間に浸透している素朴な応報主義をデネットが支持していないのは明らかだが、「相応しさ」が存在するという主張をしている以上は彼の主張にはなんらかの応報主義が含まれれているというカルーゾーの批判はもっともであるし、しかし「応報主義」で意味するものが両者の間でズレ続けているようでもあって、不毛さを感じた(また、「論戦二」においてカルーゾーの提示する「操り師論証」にデネットが反論するくだりも、反論のピントがズレていて不毛な感じが強かった)。

 そして、両者はあくまで社会のあり方に関する原理的で普遍的な議論をしているが、刑罰について論じている際にはアメリカ社会の刑事司法システムの現状が念頭にあるだろうということは、読者としても失念すべきではないだろう。悪名高い「三振法」に象徴されるように現在のアメリカの刑法はかなり苛烈で懲罰的になっているし、警察も監獄も裁判所も問題が噴出していたり運用がグダグダであったりすると批判されている。だからこそ、刑罰システム自体の維持を主張するデネットですら、「現在のアメリカの刑罰システムは大幅に変えられなければならない」と再三に渡って主張しているのだ。……しかし、逆に言えば、カルーゾーは現代の先進国のなかでもとりわけ失敗したシステムを頭に浮かべているからこそ、刑罰システムそのものを解体するしか方策がないと誤って思い込んでいるのかもしれない。

 そもそも、刑罰というトピック自体がわたしにとってさほど関心のあるものではない、という事情もある*6

 道徳的責任の関連するトピックについてわたしが関心を持っているのは非難称賛など、刑罰よりも日常的・個人的な実践についてだ。デネットと同じくわたしも、刑罰は過剰で苛烈なものになりがちだから現状よりも非懲罰的にしたり「甘め」にしたほうがいいだろうと思っている。そして、デネットと同じくわたしも、法律などに基づく明確なシステムではなく社会のなかにおける個人で実践される曖昧なものとしての「道徳」には責任に紐付く非難や称賛などが不可欠であるだろうと思っている。

 私見では、自由意志を否定する論者にとっては、刑罰よりも非難や称賛の問題のほうが遥かに難題だ。私見では、デネットの道徳論は、法律のように人工的で明示的ではなく自然的で曖昧な規範の複雑さや繊細さ、それに関連する人間の感情の根強さや文化を変更することの困難さなどに対する理解が深いという点で、カルーゾーや戸田山などが支持する「自由意志なき道徳」論よりもはるかに優れたものである。だからこそ、「相応しさ(ディザート)」に関する議論が刑罰システムに関する議論に巻き取られていくのには勿体なく思えた。

 

 ところで、デネットもカルーゾーも、「自由意志や責任はあると見なすべきかどうか」「応報主義や相応しさの概念を認めるべきかどうか」を議論する際に、「そう見なす/認める場合や見なさない/認めない場合に人々に生じる影響」を考慮に入れながら論じている箇所が散見される。

 この傾向はデネットのほうが顕著であるし、彼自身は自分の主張に「〜主義」のレッテルを貼られてまとめられるのを嫌いながらも、「規則功利主義に基づく契約説の一緒だーーゆえにそれは徹頭徹尾帰結主義な立場だが(またそれゆえ何ら応報主義的ではないが)」(p.210)と述べている箇所がある。

 一方で、カルーゾーは、応報主義や相応しさの概念を人々が支持したり信じたりすることが苛烈な刑事システムや不運な人に対する冷淡な姿勢をもたらすことを懸念しており、それゆえに応報主義や責任論を批判しているようでもある。以下はその一例だ。

 

<相応しい報い>のシステムは、<あなたが貧困なり監獄なりに行き着いたとすれば、それは「正しい」ーーなぜならあなたはそれに相応しいのだから>という信念を生かし続けます。また、<あなたが人生で成功をおさめたとすれば、その成功に対する責任はあなたに、そしてあなただけにある>という信念についても同様です。こういう思考様式は、非難とはずかしめを与えるシステムに僕たちを閉じ込め、貧困や、貧富の差や、人種差別、性差別、教育の不平等などの問題をもたらしている、システム由来の諸原因への対処を妨害します。僕たちでそれを乗り越え、人生のくじ引きが常に公正ではなく、運は長期的に見て均されるものではなく、僕たちが何者で、何をなすのかは、究極的には僕たちのコントロールを超えた諸要因の結果である、という事実を認めていこう、というのが僕の提案です。

 

(p.59)

 

 カルーゾーの懸念自体は真摯であるし、もっともなものである。また、実際のところ、アメリカでも日本でも「相応しい報い」といった発想とそれに基づく過度な懲罰的傾向や弱者に対する冷淡さなどは世間に定着しているのだから、大多数の市民にはデネットよりもカルーゾーの意見を聞かせて頭を冷やしてもらったほうが、社会的な益は大きいだろう(哲学にかぶれ過ぎていたりネットの議論に毒されていたりするタイプの人にはデネットの議論のほうが薬になると思うが)。

 ……しかし、どうにもカルーゾーの議論の背景には「苛烈な懲罰を招き寄せるから、応報主義は棄却すべきだ」「システムに由来する社会問題などに対処するために、相応しさや責任とは違った考え方が必要になる」という発想が含まれているようだ。

 だとすれば、「うまくいっている道徳システムを維持するために、自由意志や相応しさや責任といった概念を捨てるべきでない」と主張している(ように聞こえてしまう)デネットの議論と同じように、カルーゾーの議論も道具主義との誹りを免れられないかもしれない。

*1:自由意志に関する諸々の用語については前回の記事で多少紹介している。

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*2:

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*3:

 

 

*4:

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*5:

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*6:そうは言いながらも、『「正しい政策」がないならどうすべきか 政策のための哲学入門』における刑罰に関する議論…応報主義を「被害者の地位の回復」から正当化する議論…は興味深く読めた。

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