道徳的動物日記

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人文書じゃなくてファンブック(読書メモ:『布団の中から蜂起せよ:アナーカ・フェミニズムのための断章』)

 

 

 

(※ この記事を公開した翌日に、「追記」を公開している。むしろ「追記」のほうがより気合い入れて書いているので、こちらも参照してほしい。)

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

 まず先に書いておくと、わたしは著者(高島)に対してよい印象を持っていない。というか、明確に嫌いである。

 嫌いな理由のひとつは…なんか知らんうちにTwitterでブロックされていたのもきっかけではあるけれど…オンラインで読める著者の文章が中身のないアジテーションにしか思えなかったということだ*1

 それ以上に、2020年3月臨時増刊号の『現代思想』に掲載された千田有紀の文章に対して、2021年11月号の『現代思想』で議論や論証を行うことなく「千田の文章はトランス排除的であり、文章を掲載した『現代思想』は責任をとって声明を出すべきである」と批判する文章を載せた件で、高島に対する印象は最悪のものとなった*2。『現代思想』という学術誌に準じるような雑誌に掲載された議論について、反論を行うのではなく「議論を掲載する」ということ自体を非難することは、言論の自由や学術知に対する抑圧であり、学問に携わる人間としても物書きとしても最低の行為であると考えるからだ*3

 

 通常、わたしは、嫌いな人間の書いた本や明らかにおもしろくなさそうな本を手に取って読むことはない。

 それなのに『布団の中から蜂起せよ』を読んだ理由はというと……現在、わたしが執筆を進めている次著のなかに「自己責任論」や「能力主義」をテーマとした章を含める予定であり、近頃はこれらのトピックについて扱った本を読んで勉強している(このブログでも、最近は「自由意志」とか「責任」に関する本の感想ばかり投稿している)。基本的には自由や責任というトピックについて中立的な観点の本か、責任という概念の必要性を強調するタイプの本をメインに読んでいるのだが、各章のなかで仮想敵となる「自己責任論批判」論者や「能力主義批判」論者に「新自由主義批判」論者の文章もある程度以上は読んでおく必要もあるだろう。

 そして、当初は、『布団の中から蜂起せよ』は高島が普段書いている文章やタイトルや立ち読みした感じなどから「アナーキズムフェミニズムに障害学などの観点から資本主義や新自由主義能力主義を批判する」という内容であるように思っていた。なので昨年の11月にツイッターで「ほしいものリストから買ってください」と頼んでみると、知らない人が買ってくれた*4

 それでも先に読みたい本が他にあったのでしばらく放置していたのだが、2023年度のじんぶん大賞を受賞して話題になっていることから、意を決して読み始めたのである。

 ……なお、『布団の中から蜂起せよ』が1位であったのに対してわたしの『21世紀の道徳』は29位であり、29位の著者が1位の本をわざわざ読んだうえで批判的に評するというのは僻みとか妬みとかが疑われそうでイヤだし自分としてもわりと恥ずかしいんだけれど、前述したように『布団の中から蜂起せよ』を入手したのは昨年の11月なので賞の有無に関わらずいつかは読んで取り上げる予定だったから邪推しないでほしい*5

 

 読んでみて思ったのは、『布団の中から蜂起せよ』には「議論」がほとんど存在しない、ということ。アナーキズムであったりフェミニズムであったりすることが「宣言」されてはいるのだが、それらがどのような思想であり、現代社会の問題についてどのように分析していたりどのような解決策を提示していたりするか、またそれらの分析や解決策に対する異論やそれに対する再反論はどうなっているか……ということは、ほとんど解説されていない(ただし、第二章ではベル・フックスを参照しながら「シスターフッド」という概念について詳細に論じられてはいる)。

 本書で行われているのはむしろアジテーションであり、資本主義であったり新自由主義であったり家父長制であったり権力であったりルッキズムであったりなどが存在していることとそれらが「悪い」ものであるということを定義や説明抜きで前提にしたうえで、「クソ」や「カス」と言った言葉も用いながら力強く否定したり罵倒したりする。なお、アジテーションであるということ自体は高島も否定しておらず、本書の「終わりに」でも明記されている。

 権力や社会を罵倒すると同時に、読者に対しては直接的に優しい言葉が投げかけられていることも本書の特徴だ。たとえば、「序章」では「あなた」と連呼しながら読者を応援する段落があったり、「あなたの気分と体調に合わせて、無理のない範囲で読んでもらえるなら、それが最良である」「私は読者諸氏を信じたいと思う」(p.11-12)とまで書かれている。「終わりに」でも「あなたがいなければ私は文章を書き続けることができませんでした」(p.241)と書かれていたり。こういった文言は、一部の読者の気分を良くさせる効果を持つようだ。Twitterなどにも「勇気付けられた」「応援された」といった感想が投稿されていた。

 そして、本書には高島自身の個人的な経験や悩みなどについて書き連ねたエッセイも多々含まれている。子供時代の思い出や友人との関係から進学に関する葛藤に病気の経験など、トピックも様々。フィクション作品やコンテンツについての批評と共に素直な感想が書かれている箇所もあるし、セルフインタビューなどのユニークな形式で書かれた箇所もある。本書のなかには「共感」というものに対して疑いを挟むくだりもあるが、実際のところ、これらのエッセイ部分の効果とは高島への「共感」を読者に抱かせることであるだろう。……わたし自身、鬱病と進学に関するくだりを読んだ際には多少は彼女に共感した。

 しかし、冷静に考えれば、アナーキズムフェミニズムについて理解することと、高島の諸々の経験について知らされたり葛藤を読まされたりすることがどう繋がるのかは不明だ。……というよりも、アナーキズムフェミニズムについて解説して読者を啓蒙するということは、そもそも本書の目的ではないのだろう。弁護士の高橋雄一郎も「あくまでファン向けの書籍」と指摘していた通り、本書をあえて形容するならファンブックである。

 あらかじめ高島のことを応援していたり、彼女と類似した思想を持っていたりする人は、本書を読むことで彼女に対する親近感をさらに増させるだろう。

 

 

 

 ファンブックであること自体が悪いとは言わない。問題なのは、ファンブックであることと人文書であることは両立するかどうか、というところだ。

 本書ではアナーキズムフェミニズムが幾度も登場はするが、それらがどのような思想であるかの具体的な解説は(ほとんど)ない。また、本書では様々な社会問題や事件が登場はするが、それらに対する客観的で冷静な分析はほとんど存在しない。むしろ、優しい言葉を投げかけて読者の気分を良くしたり、自分語りをして読者の共感を誘う過程で「わたしとあなたは同じ思想を共有していますよ」「わたしとあなたは同じような社会問題について懸念していますよ」とアピールするためのダシとしてイズムや社会問題が持ち出されている、という印象を受ける。

 

 最初に高島の言論を目にしたり『布団の中から蜂起せよ』を立ち読みしたときにわたしがまず思ったのは、「右派/左派や男性向け/女性向けという点で真逆なだけで、御田寺圭の『ただしさに殺されないために』と同じような問題を抱えているな」ということである。

 

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 『ただしさに殺されないために』や御田寺の言論について、わたしは「読者に知識や知見を与えたり読者を啓蒙したりするのではなく、レトリックを駆使して読者をアジテーションすることを目的」としたものであり、「世の中についての新たな知見や社会の問題を解決するための視点、あるいは人生を良くする方法といった生産的で意味のある知恵をもたらすものではない」と指摘した。同じことは、『布団の中から蜂起せよ』や高島の言論にも当てはまる。

 ひとくちに「人文書」といってもそれが指し示す範囲は広く、明確に定義された言葉というわけでもないが、人文書であるからにはなんらかのかたちで人文学や学問の知見や考え方が含まれている必要があるだろう。無論、学問の定義も様々だ。しかし、わたしは、学問とは知恵知識に関わるものであると思う。

『ただしさに殺されないために』について評したときと同じく、ドナルド・ロバートソンの『ローマ皇帝のメンタルトレーニング』から、哲学者とソフィストの違いについて書かれたくだりを引用しよう*6

 

エピクテトスは…(中略)…ソフィストストア哲学者の根源的な違いを強調した。前者は聞き手の賞賛を得るために話し、後者は聞き手に知恵と徳を共有してもらうために話すのである(『語録』)。ソフィストの話はエンタテイメントのように耳に心地よい。一方、哲学者の話は、教訓的だったり心理療法的だったりするので、しばしば耳に痛いものになるーー聞き手が自分の過ちや欠点と向き合い、ありのままの自分を見つめる作業になるからだ。エピクテトスは「哲学を学ぶ場は診療所だ。楽しみより、痛みを期待して行くべきだ」と言っていたという。

(p.58 - 59)

…感情に訴えるレトリックを使って他者を説得しようとするのがソフィストです。一方、ストア派は感情に訴えるレトリックとか強い価値判断をともなう言葉を意識的に使わないようにしていました。そうすれば、相手の理性に働きかけることができ、知恵の共有が可能になるからです。私たちは通常、他人を動かしたいとき、悪く言えば他人を操縦したいときにレトリックを用います。しかし、自分相手に何かを話したり考えたりするときにもそのレトリックを使っていることに気づいていません。ストア派も、自分の言葉が他人にどんな影響を及ぼすかに興味を持っていました。しかし、言葉の選択を通じて、自分が自分に影響を与えたり、自分の考えや感情を変えたりすることの方をもっと重要視していました。私たちは強い言葉やカラフルな比喩を使うことを好みます。「雌犬みたいな女だ!」「あのろくでなし野郎が私を怒らせた!」「この仕事はクソだ!」。一見、怒りなどの情念が感嘆符付きのこういった言い方を生み出しているように思えます。しかし実際は、その言い方が情念を生み出したり、その情念を悪化させたり長引かせたりしていないでしょうか?誇張したり、過度に一般化したり、情報を省略したりするレトリックには、強い感情を呼び起こす力があります。そのためストア派は、出来事をできるだけ簡潔かつ客観的に表現することで、レトリックによる感情効果が生じないよう心がけたのです。

(p.79 - 81)

 

 読者の理性に働きかけながら知恵を与えることを放棄して、強い言葉やカラフルな比喩を含んだレトリックを多用しながら読者の感情を煽ることに熱心になっているという点では、高島の文章は御田寺のそれよりもさらにソフィストであるといえよう。

 ……ただし、『ただしさに殺されないために』とは異なり、『布団の中から蜂起せよ』からは「社会をより良くしたい」「自分と同じような問題意識を持っている読者に手を差し伸べたい」といった類の善意が感じられること、また高島自身の経験や感情について素直に書かれており主観的な文章であることがはっきりと打ち出されているという誠実さが存在するという点は、明記しておきたい。そういう点では遥かにマシではある。

 

 とはいえ、善意や誠実さが含まれているとしても、実際には『布団の中から蜂起せよ』は世の中を良くすることには一切貢献しないだろう。

 御田寺のそれと同じく、高島の言論も、拡がりというものをまったく持たない。限定されたごく狭い層の読者……アナーキズムフェミニズム/障害学などについての知識をすでに持っているかつそれらの発想に親和的で、新自由主義能力主義/権力/ルッキズムといったものを問題視しているタイプの人たち……に向けて、すでに読者たちと共有している「〜は悪い」「〜は問題だ」といった価値観を再肯定するための決め打ちされた議論を行いながら、優しい言葉を投げかけたり共感を抱かせたりすることで感情に訴えはするが、人間や社会や世界についての知識を提供したり理解を深めさせたりするということはない。『布団の中から蜂起せよ』を読む前と後とでなんらかのかたちで考え方や生き方が変わったり社会についての見方が変わったりした読者が存在するとは、とても思えない。

『布団の中から蜂起せよ』が出版されたことで(それに伴い出版社とか本屋とかがトークイベントとかやったりフェアとかやったりしたことで)すでに存在していた「連帯」はさらに強固なものとなったかもしれないが、「連帯」の外にある世界はまったく変わっていない。人の考えを変えて、それを通じて世の中を変えるために必要になるのはアジテーションでもファンブックでもなく、知識と知恵に裏付けされた書物なのである。

 

*1:

note.com

*2:

 

森田成也による抗議文から抜粋。

まずもって、この冒頭の一句と本文とのあいだには何の関係もなく、本文ではただの一度も千田氏の論考にも、千田氏の名前にも触れられていないだけでなく、千田氏が問題にしたトランス問題にさえ触れられていない。にもかかわらず、冒頭でこのような、他の執筆者への攻撃的文言を載せるというのは、前代未聞のことであり、論文執筆の最低限のルールにも、執筆者間の最低限の敬意にも反することである。このような冒頭文の掲載を許した編集部の責任は重大である。

 

学問の自由の危機――日本版キャンセルカルチャーを許してはならない | Female Liberation Jp

*3:言論の自由に関するわたしの見解はこちら。

s-scrap.com

*4:いまは『分配的正義の歴史』がとくにほしいです。

www.amazon.co.jp

*5:

davitrice.hatenadiary.jp

*6: