道徳的動物日記

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「運の平等主義」とはなんぞや(読書メモ:『平等主義の哲学』)

 

 

 

「運の平等主義」についてはロナルド・ドウォーキンの『平等とは何か』の読書メモ記事でも紹介しているが、広瀬巌の『平等主義の哲学』の第二章でもドゥウォーキンとそのフォロワーや批判者たちの議論が簡潔にまとめられていたので、紹介する。

 

davitrice.hatenadiary.jp

 

 

一方において、所与運という概念は、ある個人の制御を超えたタイプの運を捉えるものである。個人は所与運の悪影響に対しては責任を負うことができず、それゆえ、彼ないし彼女が他の人々より境遇が悪い場合、所与運の悪影響は補償されるべきである。他方において、選択運という概念は、ある個人の制御下にあるタイプの運を捉えるものである。個人は選択運の悪影響に対して責任を負うべきであり、それゆえ、彼ないし彼女が他の人々より境遇が悪いとしても、彼ないし彼女が悪しき状態にあることは何らの補償も正当化しない。

この区別を使えば、ここで運平等主義のもっとも一般的な定義を示すことができるが、この定義はほぼすべての種類の運平等主義を包含するほど十分に広いものである。

 

運平等主義:不平等は、それが所与運のもたらす影響の違いを反映している場合には、悪ないし不正義である。不平等は、それが選択運のもたらす影響の違いを反映している場合には、悪ないし不正義ではない。

 

(p.54)

 

 所与運と選択運とに間に明確な線を引くこと、つまり「ここまでは個人に制御できなかった物事だ」「ここからは個人が制御できた物事である」とはっきり区別をつけることが困難であるというのは、ドウォーキン自身が認めている。他の運平等主義者たちも、この区別を曖昧なままにしておく「プラグマティックなアプローチ」を採用するであろう、と広瀬は述べている。 

 なお、ほとんど全ての物事を選択運に帰する「無運説」、および、ほとんど全ての物事を所与運に帰する「全運説」というアプローチも存在する。前者の場合には現存する不平等のほとんどは各人の選択の結果であるから改善すべきでない(不遇な人々の状況も自己責任として処理されるべき)、後者の場合には現存する不平等のほとんどは各人が制御できる範囲を超えた運の結果であるから現存する不平等のほぼすべてが改善されるべきである(不遇な人々は自分の状況に対する責任を負わない)、ということになる。無運説は不人気である一方で、全運説は支持する哲学者たちも一定数いるようだ。……これは、自由意志に関する非両立説や(楽観的)懐疑論を支持する哲学者たちが一定数いることとパラレルであろう*1

 そして、全運説の場合には、責任概念の根拠は「その状況は自らの選択の帰結かそうでないか」ということではなく「その状況は意図した帰結であるか意図していなかった帰結であるか」ということに見出される。つまり、「ある結果を予測してある選択を行なったが、予測とは異なった結果が生じた」という場合、通常の運平等主義の場合には選択をした個人に責任があるとするが、全運説の場合には責任を問わないのだ。……しかし、自分の境遇が悪くなることを意図する人なんてほぼ存在しない。通常の運平等主義は向こう見ずなギャンブラーが金を浪費して貧乏になってもそれは本人の責任だという(ごく常識的な)見解・直観を正当化できるところに強みがあるのだが、全運説を採用するとその強みが消失してしまうのである。

 

「選択運」という概念を採用するにしても、どこまでが個人の選択でありどこまでが個人の選択ではないか、という判断にはやはり困難が伴う。

 たとえば、安い釣竿で事足りる「釣り」を趣味にしている人と高価なカメラを必要とする「写真」を趣味にしている人がいるとして、二人とも各自の趣味から得られる楽しみが全く同じである場合には、安い釣竿を買えるだけのお金を与えても楽しみという点で二人は平等になれない……後者は、前者と同じだけの楽しみを得るためには高価なカメラを買う必要があるからだ。このような「嗜好」「選好」の問題、そして自分の嗜好に対する責任をどこまで個人に負わせられるかという問題も、運の平等主義には付き物だ。

 ドウォーキンは、自分の嗜好や選好をどのようなものにするかということは個人の責任の範囲内にある、としている。一方で、ジェラルド・コーエンは、自らが制御できなかった嗜好や選好の責任を個人に負わせるべきではないとする真正選択説を主張している。たまたま写真が趣味になってしまった人が釣りを趣味にできた人よりも楽しみの少ない人生を過ごすというのはたしかに不平等なわけだから、この発想にも一理ある(ドウォーキンは『平等とは何か』においてそもそも嗜好や選好とは意識的に形成したり調整したりするものだという…これも一理ある…主張をしていたが)。

 しかし、個人は自分の嗜好に責任を持たないとなると、たとえばヘビースモーカーの人が他の人よりも医療費がかかった場合にも、本人はその責任を負わなくてよくなってしまう。タバコが好きになったことは本人の責任ではないとされるからだ。この結論を反直観的であると考える哲学者(ピーター・バレンタインやシュロミ・セガル)は理性的回避可能性説を提案する。「ある個人がある帰結について責任を負うのは、彼ないし彼女がそれを回避するよう期待することが理にかなう場合である」(p.60)。……もちろん、理性的回避可能性説を採用すると、今度は「理にかなう場合、って具体的にはどういうことよ?」という問題が生じることになるし、それについての長大な議論が必要になる。とはいえ、「タバコを吸い過ぎたら健康を害することは知っていたはずだから、そのリスクを知って吸っていたぶんには自己責任でしょ」ということは言えるようになる。

 

 運の平等主義のバリエーションとしては、バレンタインによる初期機会平等説(「人生の早い段階での人々の初期の機会ないし見通しが平等化されるべきであると主張」(p.66))と、マーク・フローベイによる出直し説も存在する(「人々が自らの選考を変えることを条件に、人々の人生コースで複数回にわたって見通しの平等化を要求することができる」(p.67))も存在する。

 出直し説では、たとえば、「ロック・スターになることを夢見て学校を中退したが、ミュージシャンとしてまったく成功せずに貧困状態で暮らしている人が、ロック・スターになる夢をあきらめる代わりに現実的なキャリアを追求するために大学への進学を希望している」という場合に、その人に入学費や授業料を支援することが認められたり求められたりする。……ある種、「優しくて寛大な社会」を目指す議論であるが、例中の人がロック・スターの夢に固執するような場合にはいくら貧困であっても支援しない(見込みの悪い夢を追い続ける選択をするのは本人の責任であるから)、という厳しさも持ち合わせている。

 とはいえ、夢を諦めるようにに要求する厳しさを持ち合わせているとしても、やはり出直し説は寛大に過ぎるかもしれない。どれだけ愚かな選択をしても、「やっぱり諦めて出直します」と言いさえすれば再スタートができてしまい、そのための支援は他の人たち…出直しの必要がないような賢明な選択を最初からしていた人たち…が負担することになるのだ。出直し説は慎重かつ注意深い選択をする理由を人から奪うという点で、モラル・ハザードを生じさせるリスクがある、とドウォーキンなどは懸念している。

 

 運の平等主義に対する批判はいくつかあるが、そのうちのひとつは、原因と責任の関係は再帰的であり、「ある個人が物事の原因について責任があると見なす場合には、原因の原因について責任があるのは誰かということも考慮しなければならず、原因を遡っていき続けると、どんな物事についても個人に責任があるということは言えなくなってしまう」というもの。

 これもやはり自由意志に関する非両立論や懐疑論に関連するタイプのものであるが、広瀬は「この大問題を解決することなしには、運平等主義が完全な道徳理論となることはないだろう」(p.70)と認めつつも、「単純に自由意志問題を棚上げにし、分配的正義の諸問題を議論するために特定の責任概念を仮定することは可能なのである」(p.71)としている。

 これについては本書でも指摘されている「福利」という概念や、動物倫理における「意識」という概念など、倫理学・政治哲学などの規範的な議論に絡んでくる諸々の概念についても同じようなことが言えるだろう。それらの概念が何を意味するかということについて定義の合意が取れていなかったり完全に理解することができていなかったりして状態であっても、(常識的/合理的な範囲内で)「とりあえずこういうものとしておく」としたうえで重要な規範問題について論じる、というのは可能であるし、やらなければいけないことでもあるのだ(また、哲学においてはどんな概念のどんな定義にも異論を提出したりケチを付けてきたりする人が永遠に登場し続けるので、仮定を禁じることは実質的に議論を禁じることにつながる)。

 

 運の平等主義に対するより深刻な批判が、フローベイやエリザベス・アンダーソンによる遺棄批判または過酷性批判である。

 以下はアンダーソンによって提出された「無謀なドライバーのケース」。

 

不用意にも別の車両との交通事故を惹き起こす違法な進路変更をした、無保険のドライバーについて考えてみよう。目撃者たちは警察を呼び、誰に過失があるのかを報告する。警察はこの情報を救急隊に伝える。彼らは事故現場に到着して過失のあるドライバーが無保険であると知ると、ドライバーを放置して道端で死ぬに任せるのである。

(Anderson 1999:295)

 

(p.71)

 

 運の平等主義は無謀なドライバーを死ぬに任せる選択を肯定してしまう、というのがアンダーソンの批判だ。

 これに対して運の平等主義者が取れる対応の一つは「だからどうした?」と言い放つこと(p.72)。実際、保険も入らず危険な運転をしてしまうようなドライバーを放置するというのは有り得る考え方だし、ある面ではヘタに救出するよりも死ぬに任せてやったほうが本人の自律を尊重しているとも思う*2。……とはいえ、実際には多くの運の平等主義者は遺棄批判を深刻に捉えており、対応の必要性を感じるようだ。

 コーエンやセガルは運の平等主義とは別の分配原理を訴えて、遺棄の問題については別の分配原理によって対応する、という方法をとる。コーエンは「友愛に基づく平等主義」を主張するが、広瀬は「私にはそれがよく分からない」と手厳しい*3

 また、セガルは運の平等主義に「ベーシック・ニーズを満たす要請」を加えた「多元主義」を主張する。しかし、多元主義は原理間が衝突した際の調整や優先順位をどうするかという問題を招き寄せるし、多元主義を採用しても運の平等主義が分配原理として問題のあるものだという批判自体に反論できるわけではない、という問題を広瀬は指摘する。

 遺棄批判に対応できるのは全運説と出直し説であり、このうち全運説はそれ自体が問題含みであるから結果として出直し説がアンダーソンの批判に対してもっともうまく対応できる、ということになる。……とはいえ、出直し説を唱えたフローベイ自身が、アンダーソンよりも前に遺棄批判を提出したわけなのだが。

 

 わたしとしても、たしかに、出直し説はうまく対応できていると思う(「それがどうした?」で突っぱねる対応にも魅力を感じるが)。

 たとえば、無保険で無謀な運転による事故を初めて起こしたドライバーは、保険に入っていなかったことや無謀な運転をしたことを後悔して、ケガから回復して諸々の医療費や損害賠償などを払い終わった後には保険に入ったうえで安全運転に努める可能性が高いだろう(それか免許を返納して運転自体をしなくなるか)。事故のリスクについて知識としては理解していても、それを実際に経験するまではリスクを低く見積もったり自分の能力を過信したりするということは、あり得る範囲内というか常識的な範囲内の過失であると思う。そして、大半の人は、痛い目を見るという経験をした後には反省できる程度の賢明さも同時に持ち合わせている。

 しかし、何度も同じような事故を起こすドライバーについては、運転することを禁じたり、あるいは事故現場に遺棄したりしてしまうことは、許容され得ると思う。……そこまで埒外の行為や生き方をする人の面倒までをも見て、彼の過失に対する補償を負担する義務が、他の人たち(=社会)にあるとは思えないからだ。

 わたし自身、自分に愚かなところがあったり長期的な視座がなかったりリスク評価を適切に行えなかったりするという自覚があるので、愚かな選択を一定範囲まで許容して寛大な対応を行う出直し説には魅力を感じる。

 同時に、常識の範囲内で愚かな人間と、(「無謀なドライバー」のような)埒外に愚かな人間とでは対応を分ける必要性も感じる。……おそらく、後者については、その人たちに実際に愚かな選択をさせてからその報いを受けさせるというよりも、最初から責任能力を認めずに選択肢を取り上げるほうが、社会にとっても本人にとってもいいのだろう。無論、これはパターナリズムであるし、また別の面で平等とか自由とか権利とかとの間に多大な衝突を引き起こすことになるのだが。

 もちろん、常識の範囲内の愚かさについても、制度設計によって選択肢を部分的に取り上げたり誘導したり、人々の愚かさよりも賢明さのほうが発揮されるようにコントロールを行ったりする、といったことも検討すべきである。リチャード・セイラーやキャス・サンスティーンのリバタリアン・パターナリズムやジョセフ・ヒースが『啓蒙思想2.0』などで提示しているような社会像はこのようなものであるが、この発想は運の平等主義と両立させることができるはずだ。

 

 なお、フローベイの本の邦訳は4月に出版されるようだ。

 

 

 

 また、リッパート=ラスムッセンという人も運の平等主義の代表的な論客であるようだけれど、残念ながらこの人の本はまだ邦訳される予定がないようである。

 

 

 

 

 

*1:

davitrice.hatenadiary.jp

davitrice.hatenadiary.jp

*2:ジョジョの奇妙な冒険 ストーンオーシャン』の「ヘルメットを着用しなくても罰せられることはない」というくだりを思い出す。

*3:

keisobiblio.com

 

『平等主義基本論文集』の「編者あとがき」でも、広瀬はアンダーソンの「民主的平等」に対してコーエンに対するのと同様の厳しさを見せている。おそらく、真面目かつ冷徹に平等の原理を追求する哲学者として、アンダーソンやコーエンのような曖昧かつ甘い主張には苛立ちを感じるのだろう。