道徳的動物日記

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読書メモ:「動物の権利とフェミニズム理論」

 

 

Animal Rights and Feminist Theory - JSTOR

 

 

 唐突に思われそうだが、本日から一時的に動物倫理に関する文献を読んで読書メモをここに書くターンに突入する。……というのも、「動物倫理とフェミニズム」というテーマで、某学会で発表するかもしれない予定があるから*1

 とりあえず手始めにジョゼフィーン・ドノヴァンの「動物の権利とフェミニズム理論」から読む。発表は1990年ともうかなり古くなってしまったが、「動物倫理とフェミニズム」というテーマとしては代表的かつ古典に位置する論文だ。

 

 ・「ハムサンドイッチ問題」

 

 この論文の冒頭では、ピーター・シンガーの『動物の解放』の序文から、シンガー夫妻が「動物愛好家」の女性と会合するくだりが取り上げられている。

 長くなるが、重要なところなので、以下では『動物の解放』から引用*2

 

私たちが到着したとき、その女友だちはすでに来ていて、動物の話に熱中していた。「私は動物をとても愛しているのですよ」と彼女は言った。「犬を一匹と猫を二匹買[飼]っていますけど、彼らはお互いにとてもうまくいっているのです。スコット夫人をごぞんじですか? 彼女は病気のペットのために小さな病院を経営しています……」彼女はちょっとそこで話をやめた。そして軽食が運ばれてくるとハムサンドイッチをひとつつまみ、私たちにどんなペットを飼っているのかとたずねた。

私たちはペットを飼っているわけではないと言った。彼女は少し驚いたようすをして、サンドイッチをひとくちかじった。私たちを招待した女性はサンドイッチを食卓に並べ終わると、私たちの会話に加わった。「でもあなたは動物に興味をおもちではないのですか?シンガーさん。」

私たちは苦しみと悲惨の防止に関心をもっているのだということを説明しようとした。私たちは恣意的な差別に反対しているのであり、ヒト以外の生物に対してであっても不必要な苦しみを与えるのはまちがっていると考えているということ、そして私たちは動物たちが人間によって、無慈悲で残酷なやり方で搾取されていると信じており、このような状況を変えたいと思っていることを話した。他の点では私たちは動物たちにとりたてて「興味をもって」いるわけではないのだ、と説明した。私たち夫婦はどちらも、多くの人たちがするようなやり方で、犬や猫や馬を溺愛したことはなかった。私たちは動物たちを「愛して」いたのではない。私たちはただ彼らがあるがままの独立した感覚をもつ存在として扱われることをのぞんでいたのだ。つまり、屠殺されて、私たちを招いた女性のサンドイッチの原材料に提供された豚のように、人間の目的の手段として扱われることはのぞんでいなかったのである。

本書はペットについての書物ではない。動物を愛することは猫をなでたり、庭で鳥にエサをやったりすることに過ぎないと考えている人たちにとっては、本書は愉快な読み物とはいえないだろう。本書はむしろ、どこであれ抑圧と搾取に終止符を打たなければならないと考えている人びと、利害への平等な配慮という基本的な倫理原則の適用範囲はヒトのみに限られるべきではない、と考えている人びとのために書かれたものである。動物の扱いに関心をもっている人は「動物愛好者(animal-lovers)」にちがいないという想定そのものが、人間に適用されている道徳基準を他の動物にも広げようという気持が少しもないことを示しているのだ。虐待されている少数民族の平等の権利に関心をもつ人は、その少数民族を愛しているにちがいないとか、彼らがかわいいと思っているにちがいない、などと主張するのは、意見の違う相手に「黒ん坊愛好者(nigger-lovers)」のレッテルをはる人種主義者だけだろう。だから動物たちのおかれた状態を改善する運動をしている人たちに「動物愛好者」のレッテルをはる必要もなかろう。

動物虐待に抗議する人びとをセンチメンタルで感情に動かされやすい「動物愛好者」として描くことは、ヒト以外の生物に対する扱いの問題を真剣な政治的、道徳的議論の対象とすることを妨げるのに役立ってきたのである。

(…中略…)

本書は、「かわいい」動物たちへの同情をよびおこすために感情に訴えるものではない。私は、肉を食べるために豚を屠殺することに対して、馬や犬を同じ目的で屠殺するのと同じように激怒しているのである。世論が、アメリカ合州国国防総省が致死性ガスのテストにビーグル犬を使うことに声高に抗議して、その代わりにラットを使うことを提案しても、私は決して妥協しないだろう。

 

(『動物の解放』、p.12-14)

 

 ここでシンガーが主張しているのは、「動物に対する道徳的配慮」や「動物に危害を与えないこと」といった物事は、一部の個人の愛情趣味の領域に属するものではなく、全ての人に関連しており全ての人に義務や強制を生じさせる正義の問題である(そして、愛情ではなく正義の問題だと見なされるようになるべきである)ということだろう。

 少数人種に対してどのような感情を抱いているかに関わらず人種差別の問題が全ての人に関連しており、全ての人は「他の人種の人を差別しない」といった義務を持っているのと同じように、動物をどう扱うかという問題も全ての人に関連しており動物を好むか好まざるかを問わず動物の問題に対して全ての人は義務を負っている……といったこと。要するに、正義の関わる問題においては、愛情や趣味は関係がない。

 逆に、愛情に基づいてなんらかの主張を行ったりなんらかの相手に対する配慮の必要性を説いても、(それだけでは)その問題が全ての人に関連しているということや全ての人が義務を負っているということを示すことはできず、説得力や強制力などは発生し得ない。ハムにされる豚や実験に使われるラットの存在を無視しながら、「可愛いから」とか「愛しているから」とかいった理由だけで犬や猫に対する道徳的配慮の必要性を説いても、犬や猫を可愛いと思っていなかったり愛していなかったりする他人がその主張に従う道理はないのだ。

 ……と、上記が、シンガーの言いたいことであろう。

 

 これに対して、ドノヴァンはシンガーの主張に以下のようなコメントをしている。

 

言い換えると、彼[シンガー]は動物の権利運動を“女性的な”感情と結びつけることが、それを取るに足らないものにすることになると恐れているのだ。

 

 また、上記のシンガーの文章については、Twitter上では以下のようなコメントをしている人もいた(2020年のツイート)。

 

 

 しかし、「ハムサンドイッチ」に関するくだりでシンガーはたしかに「動物への愛情」や「動物を愛好すること」といった感情的な物事を否定的に描いているが、それが女性的な感情であるからダメだとは一言も言っていない、という点には留意してほしい。

 むしろ、この文脈に「男性的/女性的」というジェンダー的な要素を持ち込んできたのはドノヴァンの側である。そして、おそらくドノヴァンの論文を通した伝言ゲーム(またはうろ覚え)によってシンガーの文章をミソジニスティックと断ずるツイートもフェアなものではないように思える。

 ……もちろん、ドノヴァンとしては、この社会のなかには「男性的/女性的」という二分法と「論理的/感情的」という二分法をオーバーラップさせたうえで前者を持ち上げて後者を貶める価値観や考え方が蔓延しており、シンガーの文章は直接的には「感情は女性的なものだからダメだ」と書かれていなくても暗黙のうちにこの二分法を前提としたものである、といったことが言いたいのであろう。

 実際のところ、このエピソードはやや「でき過ぎている」感があり、もしかしたら創作かもしれない。その場合には、批判の対象となる人物を男性ではなく「女性」にした意図にミソジニーを見出すことは無理筋ではない(「"非合理的な動物愛好家"を登場させるなら男性じゃなく女性にしたほうがリアリティがあるでしょ」という発想がシンガーにはあったはずだ、と想定することなど)。……その一方で、実際にシンガー夫妻と動物愛好家との女性との間でなされた会話を振り返りながら書かれている、という可能性ももちろんあり得る。上記の文章では動物愛好家の性別がことさらに強調されているというわけでもなく、シンガーとしては当時の出来事を素直に書いているだけかもしれない。「実際にそのような動物愛好家の女性が存在したのだとしても、彼女の性別をわざわざ記すことが問題なのだ」と批判することもできるかもしれないが、それは過剰反応であるように思える。

 

・「合理主義的」な動物権利論(動物倫理理論)の問題点

 

 ドノヴァンは、功利主義者であるシンガーと、彼と並んで男性かつ動物倫理の理論家として代表的な存在である「権利論者」のトム・レーガンの双方が、合理性を重視しており、動物倫理が「非合理的」「感傷的」「感情的」と見なされることを嫌っている、と指摘している。一方で、女性かつ動物倫理について論じていた理論家のメアリー・ミッジリーや代表的な女性活動家たちは感情の重要性を強調しており、また当時の動物の権利の理論が合理主義的であったり「物質主義的」「男性的」であることを批判していたことを指摘する。

 具体的に言うと、レーガンの理論では動物は「生の主体」である(欲求や信念を持っていたり、記憶や将来に対する感覚を持っていたりする)ために権利を持つ存在として認められるが、これは複雑な意識能力を持つ存在を優遇する発想であり、人間だけを[直接的な]道徳的配慮の対象と見なして動物をそこから除外したイマニュエル・カントの発想に連なるものであるとされる(レーガンはカントの理論をベースにしながらもそれを修正して動物を道徳的配慮の対象に含めようとしたが、意識能力≒合理性を重視している時点でカントから脱却しきれていない、といった批判)。

 シンガーの功利主義に関しては、リーガンほどには高度な意識能力を重視していない点は評価されているが(苦痛を感じられるならそれだけで配慮の対象となるので)、道徳を数字や量で判断する姿勢が(悪い意味で)合理主義的かつ科学主義的であり、生体解剖や動物実験などのような動物虐待を引き起こしてきた発想に連なるものであると批判されている。

 

・文化フェミニズムによる動物論

 

「合理的」で「男性的」な動物の権利論のオルタナティブとしてドノヴァンが提示するのが、文化フェミニズム(カルチュラル・フェミニズム)の理論だ。

 

文化フェミニストの視点から見ると、後期中世以降の、西洋的で男性的な心理に根ざした自然の支配こそが、動物に対する虐待および女性や環境に対する搾取の根本的な原因である。

 

 ここで登場するのが、テオドール・アドルノとマックス・ホルクハイマーによる(フランクフルト学派的な)批判理論である。アドルノとホルクハイマーは、現実に対して数学的なモデルを押し付けて解釈する自然科学的な思考には「支配の心理」が反映されており、科学的な知識の普遍性を強調する発想は個別性や差異を消去するものであって、科学的な認識論とは社会的支配という物質的な状況に根ざしたもの…とくに女性に対する男性からの支配に根差している、と論じた。

 ドノヴァンは、エコロジカル・フェミニストとして知られるキャロリン・マーチャントなども参照しながら、啓蒙時代(後期中世)における「動物」や「自然」に対する蔑視的で支配的な態度は「女性」に対するそれとオーヴァーラップしていた、という議論を行なっていく。また、キャサリン・マッキノンによる、リベラリズムや法システムが「中立性」や「抽象性」を重視していることに対する批判も行われる。

 そして、シンガーにせよレーガンにせよ、彼らの理論は啓蒙時代的で客観主義的でデカルト的な発想に毒されたものである、と改めて批判される。

 また、「動物機械論」を唱えて動物に対する虐待を引き起こすことになったルネ・デカルト的な発想に対して最初に異論を呈したのは、マーガレット・キャヴェンディッシュをはじめとする女性たちであった。また、当時の女性たちは男性の科学者たちによる疑似科学的な医学理論や「性科学」に苦しめられていたということもあり、科学に対する不信感や怒りの感情を募らせて、同じように科学の犠牲になっていた動物たちに親近感を抱くようにもなったらしい(このあたりの記述ではミシェル・フーコーも登場する)。西洋の動物愛護運動/動物の権利運動は反-生体解剖運動からスタートしたという面が強いが、その背景にはこういう事情があったということである。

 動物の問題を抜きにしても、文化フェミニズムでは、男性による「科学的」で「客観的」な世界観に「支配」や「権力」や「ヒエラルヒー」を見出し、それを戦略的に裏返して「女性的」な価値観や思考を強調する。ドノヴァンの論文のなかでは、様々な文化フェミニストたちの議論が紹介されている。個人的には「ケアの倫理」にも連なる「母的思考」を論じたサラ・ルディクが紹介されている下りが興味深い。また、ケアの倫理の元祖であるキャロル・ギリガンの『もうひとつの声で』も登場し、抽象性や形式性よりも文脈やナラティブを重視した「女性的な」倫理が紹介される*3

 

・「either/or(どちらか/または)」ジレンマとフェミニズム倫理

 

 この論文の終盤では、「ケアの倫理やフェミニスト倫理はあまりに曖昧であり、動物の問題が関わる意思決定に用いられるようなものではない」という批判が想定される。たとえば、「一匹の蚊(の命)と一人の人間(の命)」との間で選択を行わなければならない場合にすら、(功利主義でも権利論でも問題なく人間の命のほうを選択できるが)フェミニスト倫理では選択を決定できないのだ。

 この想定上の批判に対して、ドノヴァンは、倫理の問題において「どちらかを選ばなければならない」という「either/or(どちらか/または)」ジレンマを持ち出して考えること自体が見当外れであり、そのような発想自体を否定/修正できるところにフェミニスト倫理や文化フェミニズムの価値がある、という応答を行う。「either/or」ジレンマが実際の場面で起こることはほとんど無い仮定のものであり、「二者のうち片方を選択しなければならない」というケースは実際には予防可能なものが大半なのであるから、そんなジレンマに捉われる必要はない、ということだ。

 ……これは、トロッコ問題が突きつけるジレンマに対して、「トロッコ問題が起きる状況自体を予防せよ」や「トロッコを転覆させよ」などと言って無効化するアプローチとほとんど同じようなものだろう。このようなアプローチに対する批判は『21世紀の道徳』の第5章「「トロッコ問題」について考えなければいけない理由」でたっぷり文字数を割いて行った。また、詳細は省くが、仮に人間同士の場合には「either/or」ジレンマはほとんど起こらなかったり珍しかったりすることを認めたとしても、動物が関わる問題について「either/or」ジレンマが起こることを否定するのは困難であろう。……そして、これこそが、権利論やケアの倫理よりも功利主義のほうに(とくに動物倫理の問題においては)軍杯が上げられるとわたしが判断している理由でもある*4

 なお、この論文の最後の段落では、動物との「対話」に基づく倫理を成立させることは可能であると主張されて、「動物(の声)を聴こうとすれば、彼らが殺されたり食べられたり拷問されたりしたくないと思っていることが聴こえてくるはずだから、わたしたちは動物を殺したり食べたり拷問したりすべきではない」ということが、ケアの倫理やフェミニスト倫理から導かれる動物に対する態度である、と結論付けられている。

 

 ……10年ぶりに「動物の権利とフェミニズム理論」を読んでいて思ったが、そういえば最近では「文化フェミニズム」という言葉を聞く機会はかなり減ったような気がする(ただし昔のものにせよ現在のものにせよフェミニズムの議論をそれほどフォローできているわけでもないから、これはわたしの勘違いであるかもしれない)。

 また、「エコロジカル・フェミニズム」は色々と紆余曲折があってフェミニストたちの間でもかなり警戒されていたはずだが、現代では「インターセクショナリティ」という便利な概念があるので、女性に対する搾取と自然や動物に対する搾取の「交差」も無難に主張しやすくなっているだろう。エコフェミにせよ一部のフェミニスト倫理(ルディックやネル・ノディングスなど)にせよ「本質主義」と批判されたので退場したが、インターセクショナリティ概念によって、本質主義を回避しながら女性に対する搾取や差別を他の属性や存在に対する搾取や差別と(やや無理筋ながらも)結び付けられるようになった*5。また、「文化フェミニズム」は後退したとしても、「ケアの倫理」もむしろ以前よりも浸透している印象がある。

 

 改めて言うまでもないだろうが、わたしはドノヴァンの思想にはかなり懐疑的であるし、あまり好意的でもなければ共感的でもない。この記事についても、読者のみなさんにはその点を割り引いて読んでもらいたい。「文化フェミニズム」的な思想に対してわたしが抱いているスタンスは、ジョセフ・ヒースが『啓蒙思想2.0』のなかで書いていたのとだいたい同じようなものである。

 

davitrice.hatenadiary.jp

*1:このテーマについて、このブログでは過去に以下のような記事を掲載している。ただしこれらの記事の執筆当時からわたしのスタンスや考え方も色々と変わっている面がある。

davitrice.hatenadiary.jp

davitrice.hatenadiary.jp

*2:

 

 

*3:発表に関わってきそうなので、よかったらどなたか『もうひとつの声で』買ってください。

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*4:たとえば、「ある地域で鹿が増え過ぎて、その結果として鹿たちの生息地から食料となる草木が壊滅して大量の頭数の鹿たちが飢えに苦しむ」といった状況が実際に存在することは想定できる。このような状況に対しては、ケアの倫理はもちろん権利論でも満足のいく回答が出せるとは思えない。

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*5:そして、ドノヴァンの論文でも登場している「批判理論」は未だに関連しているように思われるし、批判理論に特有の陰謀論的思考も色々な場面で影を落とし続けているように思える。

kozakashiku.hatenablog.com